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- 2010/02/03 点子ちゃんとアントン:完全版
- 2009/12/27 子供に語る比喩の実践
- 2009/12/17 イメージと比喩とメルヘンと
- 2009/11/02 大雑把に「4っつの気質」
- 2009/10/15 こびと are From・・・
点子ちゃんとアントン:完全版
冬休みのある日、学校のホールにて、八年生卒業劇・「点子ちゃんとアントン」の再演が行われた。
何故「再演」なのかというと、公会堂を借りて行われた本公演では、インフルエンザによる学級閉鎖の為、観劇できない学年があったからだ。
それどころか、当の八年生の生徒の一人も、インフルエンザで欠席を余儀なくされたのだ。
公演そのものが危ぶまれたが、生徒達の工夫によって、この困難な状況は打開された。
数人の生徒が、配役をスライドさせることで、欠けた役を補ったのだ。
自分の役以外の台詞や演技も把握していなければ、こんな離れ業は演じられまい。生徒達がいかにして物事に取り組んでいるか、その姿勢が垣間見えるではないか。
ともかく大盛況に幕を閉じた本公演だったが、改めて全員参加という形で、この日の再演へと漕ぎ着けた訳である。
感想?そんな、感想なんざ冷静に書けませんっての。内輪の生徒自慢にしかならないし。
だが、あの日の感動を記しておきたいので、今回は内輪の生徒自慢にお付き合い頂く。
例によって勝手に仮名を付けさせて頂いたので、もし直接の関係者が御覧になったなら、そこは御容赦願いたい。
「点子ちゃんとアントン」は、ドイツのエーリヒ・ケストナーの作品。
出ずっぱりの点子ちゃんは、ポンパドールさんとテディさんが、場面によって交互に演じるという、「二人一役」方式。二人とも、物語の天真爛漫な点子ちゃんがそのまま飛び出てきたのではないかと思えるほど、本当に「点子ちゃん」であった。それぞれがそれぞれの「点子ちゃん」を演じているのに、全体を通して見ると二人で一役とは思えない程の違和感の無さ。
因みに本公演では彼女達が、一人は欠席した生徒の役をやり、もう一人がずっと点子ちゃんの役をやり続けることで、冒頭で述べた危機を回避したのである。
再演では、出番が無い時に、テディさんがフルート、ポンパドールさんがヴァイオリンを演奏するなど、三面六臂の活躍であった。
点子ちゃんの父・ポッゲ社長は、大人の複雑な事情を、最も多く抱えている役である。それ故に最も難しい役ではないだろうか。大人が何か大事な事に気付き、自らを成長させる。多くの大人にとって、それは困難な事だ。
そんな成長する大人の姿を、エクスキャリバーくんは見事に演じ、表現していた。前半のどこか鬱屈した感じと、後半の威厳、優しさ。ポッゲ社長の内面の変化が伝わるようだった。
個人的には、ポッゲ社長が点子ちゃん、アントンと一緒にシュークリームを食べ、追いかけっこをする場面に涙した。
セレブで、家庭より社交にうつつをぬかす、ヒステリックなポッゲ夫人、つまり点子ちゃんの母。この強烈な役所を、ナッツさんは圧倒的な存在感をもって演じた。原作のポッゲ夫人を凌ぐ勢いの個性、最後に夫に見せたしおらしさ。悪役ではないが、嫌味な役、でもどこか憎めない。ある意味、最も演じ甲斐のある役ではなかろうか。
出番が無いシーンでは、ナッツさんはピアノやヴァイオリン演奏でも実力を発揮していた。
優しく正義感の強い少年・アントン。これを演じたエントくんも、点子ちゃん同様、物語から飛び出してきたようだった。お母さんを傷付けてしまい、後悔に苛まれる場面など、完全に感情移入して観てしまった。その後、お母さんとの涙の和解の場面など、観ているこっちも貰い泣き。涙を流すなと云うほうが無理だっての!
点子ちゃんとのやりとりも、きっとケストナーがイメージしていた若者は、まさにこんな風だったのではないか、と思われた。
セルキーさんは、アントンの母・ガスト夫人と、点子ちゃんの養育係・アンダハトを一人二役で演じた。優しく、病弱で憂鬱質なガスト夫人。無口で「みょうちきりん」な不思議さんのアンダハト嬢。個性は違うものの、いずれも明るいタイプではない二役を演じ分けるのは大したものだ。特にガスト夫人の子を思う様は、私自身の母を重ね合わせて観てしまった。
また、チョイ役で演じたお巡りさんも、光彩を放っていた。
同じく一人二役で、クレッパーバインと悪魔のローベルトを演じたスワロウくんも、難しい役所だったろう。なにしろ二役とも悪役なので、演技を工夫しないと「悪役」という括りで同じ人物と間違われてしまうかも知れないからだ。無頼な悪者クレッパーバイン、陰湿な悪者ローベルトと、それぞれの悪さが伝わってきたが、憎々しい程の悪役とまではいかない。が、これは彼自身の人柄が滲み出てのことだから、むしろ誇るべきであろう。
また、両者とも殴られる場面があるが、殴られっぷりも圧巻であった。
ペルセポネさんが演じたポッゲ家のメイド・太っちょのベルタ。口さがなく文句を云うが愛嬌者のベルタ役も、演じ甲斐のある役所だろう。出番が少ない割には出ると場が沸くという、オイシイ役でもある。実際、実に良い味を出しており、アンダハト嬢との罵詈雑言の応酬や、お巡りさんとのタンゴなど、観終わってからも、娘・ぴーぽこと一緒に何度も思い出しては笑った。三年生のぴーぽこのクラスでは、特にベルタがこん棒を振るってローベルトを殴打する場面が印象的だったようだ。
劇中では、ケストナー自身をナレーターとして登場させることで、ナレーション、原作の「まえがき」や、各章ごとに記されたケストナーの考えなどを語らせていた。
男装してケストナー役を演じたカープさんは、まさにケストナーの代弁者。もはやケストナーを演じているというより、ケストナーが彼女を通して語っているのではないか、と疑うほど、あたかもイタコの口うつし。特にラストの、
「この地上は、もう一度、天国になれるはずだ。できないことなんて、ないんだ」
との力強い語り口調は、我々の胸に熱いものをこみ上げさせるに十分であった。
そして、全員による合唱。
・・・泣くって。
いや、泣ける話じゃないんだけど。むしろ大団円で、スカッとする話なんだけど。
合唱の間、そこここで感動に咽ぶ親達の姿が。
シュタイナー学校では、節目の学年で演劇に取り組む。八年生は、来年度から「高等部」に進学するのだ。
皆、素晴らしい演技を見せてくれたが、「上手く演じる」ということが目的ではない。
クラス全員で一緒に何かに取り組むことや、「他人」になり、演じること。それらを通して、生徒達は多くのものを得る。我々が観たのは「結果」としての公演だが、そこに至るまでに生徒達一人一人が通った「過程」、それこそが生徒達にとって宝であり、我々は演劇の物語そのものやメッセージに加え、生徒達の見えざる「宝」の輝きを感じて、感動するのだろう。
尚、昨年度卒業劇を経験したある生徒さんも、今回の劇について記事を書いておられる。「八年生で劇に取り組む」という事が、御自身の体験も含めて活写されているので、是非こちらも御一読をお勧めする。
八年生の卒業劇
さて、再演が終わって数日後の昼日中、ママ友のチョウゲンボウさん(仮名)より電話が。曰く、
「八年生の劇の歌って、どんなだったっけ?」
合唱した歌は、”The Rhythm of Life”という曲に、担任のフローレン先生(仮名)が詩をつけたものだ。
チョウゲンボウさんのクラスは学級閉鎖の為、再演で初めて観て感動した模様。二度観ている私は、歌を少しは覚えているのではないかと思い、電話したものらしい。
うろ覚えながら、「こんな感じじゃなかった?」と、受話器越しに歌ってみる。
だが、何故、今それを訊きたいのか。曰く、
「今、息子と木に登ってるんだけど、気持ちが良いから息子とあの歌を歌いたくなって」
してみると、何か。オマエは今、木の枝に座って、携帯でかけてきているのか?
「そうなの」
牧歌的にも程がある。
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それどころか、当の八年生の生徒の一人も、インフルエンザで欠席を余儀なくされたのだ。
公演そのものが危ぶまれたが、生徒達の工夫によって、この困難な状況は打開された。
数人の生徒が、配役をスライドさせることで、欠けた役を補ったのだ。
自分の役以外の台詞や演技も把握していなければ、こんな離れ業は演じられまい。生徒達がいかにして物事に取り組んでいるか、その姿勢が垣間見えるではないか。
ともかく大盛況に幕を閉じた本公演だったが、改めて全員参加という形で、この日の再演へと漕ぎ着けた訳である。
感想?そんな、感想なんざ冷静に書けませんっての。内輪の生徒自慢にしかならないし。
だが、あの日の感動を記しておきたいので、今回は内輪の生徒自慢にお付き合い頂く。
例によって勝手に仮名を付けさせて頂いたので、もし直接の関係者が御覧になったなら、そこは御容赦願いたい。
「点子ちゃんとアントン」は、ドイツのエーリヒ・ケストナーの作品。
出ずっぱりの点子ちゃんは、ポンパドールさんとテディさんが、場面によって交互に演じるという、「二人一役」方式。二人とも、物語の天真爛漫な点子ちゃんがそのまま飛び出てきたのではないかと思えるほど、本当に「点子ちゃん」であった。それぞれがそれぞれの「点子ちゃん」を演じているのに、全体を通して見ると二人で一役とは思えない程の違和感の無さ。
因みに本公演では彼女達が、一人は欠席した生徒の役をやり、もう一人がずっと点子ちゃんの役をやり続けることで、冒頭で述べた危機を回避したのである。
再演では、出番が無い時に、テディさんがフルート、ポンパドールさんがヴァイオリンを演奏するなど、三面六臂の活躍であった。
点子ちゃんの父・ポッゲ社長は、大人の複雑な事情を、最も多く抱えている役である。それ故に最も難しい役ではないだろうか。大人が何か大事な事に気付き、自らを成長させる。多くの大人にとって、それは困難な事だ。
そんな成長する大人の姿を、エクスキャリバーくんは見事に演じ、表現していた。前半のどこか鬱屈した感じと、後半の威厳、優しさ。ポッゲ社長の内面の変化が伝わるようだった。
個人的には、ポッゲ社長が点子ちゃん、アントンと一緒にシュークリームを食べ、追いかけっこをする場面に涙した。
セレブで、家庭より社交にうつつをぬかす、ヒステリックなポッゲ夫人、つまり点子ちゃんの母。この強烈な役所を、ナッツさんは圧倒的な存在感をもって演じた。原作のポッゲ夫人を凌ぐ勢いの個性、最後に夫に見せたしおらしさ。悪役ではないが、嫌味な役、でもどこか憎めない。ある意味、最も演じ甲斐のある役ではなかろうか。
出番が無いシーンでは、ナッツさんはピアノやヴァイオリン演奏でも実力を発揮していた。
優しく正義感の強い少年・アントン。これを演じたエントくんも、点子ちゃん同様、物語から飛び出してきたようだった。お母さんを傷付けてしまい、後悔に苛まれる場面など、完全に感情移入して観てしまった。その後、お母さんとの涙の和解の場面など、観ているこっちも貰い泣き。涙を流すなと云うほうが無理だっての!
点子ちゃんとのやりとりも、きっとケストナーがイメージしていた若者は、まさにこんな風だったのではないか、と思われた。
セルキーさんは、アントンの母・ガスト夫人と、点子ちゃんの養育係・アンダハトを一人二役で演じた。優しく、病弱で憂鬱質なガスト夫人。無口で「みょうちきりん」な不思議さんのアンダハト嬢。個性は違うものの、いずれも明るいタイプではない二役を演じ分けるのは大したものだ。特にガスト夫人の子を思う様は、私自身の母を重ね合わせて観てしまった。
また、チョイ役で演じたお巡りさんも、光彩を放っていた。
同じく一人二役で、クレッパーバインと悪魔のローベルトを演じたスワロウくんも、難しい役所だったろう。なにしろ二役とも悪役なので、演技を工夫しないと「悪役」という括りで同じ人物と間違われてしまうかも知れないからだ。無頼な悪者クレッパーバイン、陰湿な悪者ローベルトと、それぞれの悪さが伝わってきたが、憎々しい程の悪役とまではいかない。が、これは彼自身の人柄が滲み出てのことだから、むしろ誇るべきであろう。
また、両者とも殴られる場面があるが、殴られっぷりも圧巻であった。
ペルセポネさんが演じたポッゲ家のメイド・太っちょのベルタ。口さがなく文句を云うが愛嬌者のベルタ役も、演じ甲斐のある役所だろう。出番が少ない割には出ると場が沸くという、オイシイ役でもある。実際、実に良い味を出しており、アンダハト嬢との罵詈雑言の応酬や、お巡りさんとのタンゴなど、観終わってからも、娘・ぴーぽこと一緒に何度も思い出しては笑った。三年生のぴーぽこのクラスでは、特にベルタがこん棒を振るってローベルトを殴打する場面が印象的だったようだ。
劇中では、ケストナー自身をナレーターとして登場させることで、ナレーション、原作の「まえがき」や、各章ごとに記されたケストナーの考えなどを語らせていた。
男装してケストナー役を演じたカープさんは、まさにケストナーの代弁者。もはやケストナーを演じているというより、ケストナーが彼女を通して語っているのではないか、と疑うほど、あたかもイタコの口うつし。特にラストの、
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・・・泣くって。
いや、泣ける話じゃないんだけど。むしろ大団円で、スカッとする話なんだけど。
合唱の間、そこここで感動に咽ぶ親達の姿が。
シュタイナー学校では、節目の学年で演劇に取り組む。八年生は、来年度から「高等部」に進学するのだ。
皆、素晴らしい演技を見せてくれたが、「上手く演じる」ということが目的ではない。
クラス全員で一緒に何かに取り組むことや、「他人」になり、演じること。それらを通して、生徒達は多くのものを得る。我々が観たのは「結果」としての公演だが、そこに至るまでに生徒達一人一人が通った「過程」、それこそが生徒達にとって宝であり、我々は演劇の物語そのものやメッセージに加え、生徒達の見えざる「宝」の輝きを感じて、感動するのだろう。
尚、昨年度卒業劇を経験したある生徒さんも、今回の劇について記事を書いておられる。「八年生で劇に取り組む」という事が、御自身の体験も含めて活写されているので、是非こちらも御一読をお勧めする。
八年生の卒業劇
さて、再演が終わって数日後の昼日中、ママ友のチョウゲンボウさん(仮名)より電話が。曰く、
「八年生の劇の歌って、どんなだったっけ?」
合唱した歌は、”The Rhythm of Life”という曲に、担任のフローレン先生(仮名)が詩をつけたものだ。
チョウゲンボウさんのクラスは学級閉鎖の為、再演で初めて観て感動した模様。二度観ている私は、歌を少しは覚えているのではないかと思い、電話したものらしい。
うろ覚えながら、「こんな感じじゃなかった?」と、受話器越しに歌ってみる。
だが、何故、今それを訊きたいのか。曰く、
「今、息子と木に登ってるんだけど、気持ちが良いから息子とあの歌を歌いたくなって」
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子供に語る比喩の実践
「赤ちゃんはどうやって生まれてくるの?」
という幼児の問いに、
「それはね、お父さんの怒張した×××が、お母さんの…」
などと、幼児相手に性描写を始める馬鹿は居るまい。
子供の年齢に相応しい「比喩」という名のヴェールに包んで話す筈である。
古典的だが、「コウノトリが運んでくる」というのは、単にお茶を濁して誤魔化す為の方便ではない。素晴らしい比喩なのだ。空と地上を結ぶ存在に伴われ、子供の魂が両親の許にやって来るイメージなのだそうだ。
前回の記事・「イメージと比喩とメルヘンと」とも関連するが、子供の素朴な問いかけや、四季の自然の移り変わり等を、比喩を通してイメージ豊かに子供に語り聞かせるのは、子供にとって良い作用を及ぼすそうだ。
では具体的にどの様に話すのか、オイリュトミー教師の風姿花伝先生(仮名)から学んだ事の一部をシェアしたい。
まず、実例として、私が娘・ぴーぽこ(仮名)に語ったお話、風姿花伝先生にお褒め頂いた事に気を良くしたので、ここに紹介しよう。
早い話が、自画自賛である。
「彼岸花」
「ふかふかとした土にくるまれていた彼岸花が、花を咲かせる頃になりました。
彼岸花は一刻も早く神様に会いたくて、空に向かって真っすぐにするすると伸びて、蝶々のような形の、赤々とした花を、ぱらりと咲かせました。
ところが彼岸花は、あんまり早く神様に会おうとしたもので、葉っぱを付けるのを忘れてしまいました。
天使は彼岸花にやさしく云いました。
『あなたは、あなたをつつんでくれている大地にも感謝をしなければなりませんよ』
そこで彼岸花は、花が枯れた後、細長い葉っぱをわさわさと伸ばし、寒い冬の間、その青々とした葉っぱで大地を優しくくるんだのでした」
ぴーぽこは意外な程興味深げに聞いていた。聞き終わると、
「それ、お父さんが考えた話?」
と質問してきたので、こう答えた。
「ううん。彼岸花に教えて貰ったの」
パラケルススじゃあるまいし、私には植物の話を聞くことは出来ない。が、仮に聞けたとして、彼岸花は上記の話と当たらずとも遠からずな事を語ってくれるのではないかと思う。
私の答えを聞いたぴーぽこ、訝しそうな表情を浮かべ、
「…お父さんが考えた話か」
いやだから彼岸花に聞いたんだって。まぁ、ルビコン世代のリアクションはこんなものだろう。
風姿花伝先生は、こうした季節のメルヘンの例として、柿の話をして下さった。
葉が散っても実は落ちない柿は、顔を真っ赤にして落ちないように頑張っている、といった内容で、口を「へ」の字に結んだ表情を作りながら語られた。
素敵な話だと思ったので、軽くパクってというか、参考にして自分なりに話を広げ、ぴーぽこに語ってみた。
はじめは青かった柿。自分も近くの栗の実のように、地面に落ちるんじゃないかとおどおどしていたが、一念発起して秋風が吹く中頑張っているうちに赤くなった、という物語。
話しているうちに、興味深い事が起きた。
柿が一念発起する場面。聞いていたぴーぽこは、柿の気持ちになって、
「ようし!ぼくは、風なんかに負けないぞ!」
と台詞を云った。これが、直後に私が云おうと頭の中で用意していた台詞と、一言一句違わず同じだったのだ。
尤も凝った云い回しでもないし、話の流れからもこうした台詞が出て来ても不思議ではないが、あたかもテレパシーの様に、私がイメージしていた台詞を、内容から間の取り方、口調まで一致させて再現された事に、少なからず驚いた。
そして、私も風姿花伝先生を真似て、口を「へ」の字に結び、頑張っている表情を作る。
これがぴーぽこの気に入ったらしく、以来柿を見る度この表情を浮かべるようになった。面白い事に、木に生っている柿に限る。収穫され、店頭に並んでいる柿は普通にスルー。
他にも、こんな話を考えてみた。
「銀杏さんと楓さんは、桜さんが羨ましくて仕方ありませんでした。何故って、桜さんは春になると、赤ちゃんの肌の様な薄桃色の花をふくふくと満開にして、お空の神様に見せてあげているのです。
それなのに、銀杏さんも楓さんも、ちっぽけな花しか咲かすことが出来ません。
『私たちも、桜さんのように、枝中を綺麗な色で飾って、神様に見せてあげたいなぁ』
それを聞いたお日さまは、自分の色を少しだけこれらの木たちにプレゼントしてあげました。
それから秋になると、銀杏さんはお日さまのキラキラ輝く金色に、楓さんは朝日や夕日の燃えるような真っ赤な色に、葉っぱの色が染まるようになったのです。
幸せな気持ちに包まれた銀杏さんと楓さんは、それまでみすぼらしいと思っていた自分の花が好きになりました」
また、同じ銀杏を扱うのでも、親仲間のジーナさん(仮名)は、「お日様の光が届きにくくなる秋、銀杏は自ら輝きだして、金色に染まった」といった内容のお話をされていた。とても素敵なお話ではないか。
風姿花伝先生によると、こうした話は短いほど良く、また、形容詞や擬声語をふんだんに使うと子供は喜ぶそうだ。現にぴーぽこも、上記「彼岸花」の、「するすると」や「ぱらりと」等の擬声語のくだりで、一段と瞳を輝かせていた。
パラケルススや、ましてやシュタイナーの如く超感覚的洞察力を持たぬ我々は、日常の中では思考を通して自然摂理の秘密を探求するしかない。自然の不思議さ、面白さに感動のまなざしを向けて考えてみると良いだろう。
「ひまわりはお日様が大好きなんだよ」「稲が大地に『ありがとう』ってお辞儀してるね」
例えばこんなシンプルな話でも良いと思う。馴れてくると話が膨らんでゆくだろう。
そのうち、自然が自らその秘密を語ってくれる日が来るかも知れない。
こうした事には馴れが必要で、こちらが予め用意していた話などはともかく、子供から不意打ちの如く発せられる問いに対して、いかに臨機応変に対応できるかといったアドリブ能力を、シュタイナー学校の教師は日々問われているそうだ。改めて先生達に頭が下がる思いである。
馴れないうちは、なかなか上手く行かない。私も以前、こんな事があった。
「海の水からどうやって塩ができるの?」とのぴーぽこの問いに対する私の答え。
「海の水を汲んで熱くすると、水の妖精・ウンディーネがだんだんどこかへ行ってしまうの。そして残された『辛いもの』が、今度は土の妖精・グノームに固められて…」
…話がが迷走してるっての。
狐につままれたような面持ちで聞いていたぴーぽこ、ぽつりと、
「・・・よく分かんないや」
…ごもっとも。
〜〜〜〜〜σ.σ〜〜〜〜〜σ.σ〜〜〜〜〜σ.σ〜〜〜〜〜
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「それはね、お父さんの怒張した×××が、お母さんの…」
などと、幼児相手に性描写を始める馬鹿は居るまい。
子供の年齢に相応しい「比喩」という名のヴェールに包んで話す筈である。
古典的だが、「コウノトリが運んでくる」というのは、単にお茶を濁して誤魔化す為の方便ではない。素晴らしい比喩なのだ。空と地上を結ぶ存在に伴われ、子供の魂が両親の許にやって来るイメージなのだそうだ。
前回の記事・「イメージと比喩とメルヘンと」とも関連するが、子供の素朴な問いかけや、四季の自然の移り変わり等を、比喩を通してイメージ豊かに子供に語り聞かせるのは、子供にとって良い作用を及ぼすそうだ。
では具体的にどの様に話すのか、オイリュトミー教師の風姿花伝先生(仮名)から学んだ事の一部をシェアしたい。
まず、実例として、私が娘・ぴーぽこ(仮名)に語ったお話、風姿花伝先生にお褒め頂いた事に気を良くしたので、ここに紹介しよう。
早い話が、自画自賛である。
「彼岸花」
「ふかふかとした土にくるまれていた彼岸花が、花を咲かせる頃になりました。
彼岸花は一刻も早く神様に会いたくて、空に向かって真っすぐにするすると伸びて、蝶々のような形の、赤々とした花を、ぱらりと咲かせました。
ところが彼岸花は、あんまり早く神様に会おうとしたもので、葉っぱを付けるのを忘れてしまいました。
天使は彼岸花にやさしく云いました。
『あなたは、あなたをつつんでくれている大地にも感謝をしなければなりませんよ』
そこで彼岸花は、花が枯れた後、細長い葉っぱをわさわさと伸ばし、寒い冬の間、その青々とした葉っぱで大地を優しくくるんだのでした」
ぴーぽこは意外な程興味深げに聞いていた。聞き終わると、
「それ、お父さんが考えた話?」
と質問してきたので、こう答えた。
「ううん。彼岸花に教えて貰ったの」
パラケルススじゃあるまいし、私には植物の話を聞くことは出来ない。が、仮に聞けたとして、彼岸花は上記の話と当たらずとも遠からずな事を語ってくれるのではないかと思う。
私の答えを聞いたぴーぽこ、訝しそうな表情を浮かべ、
「…お父さんが考えた話か」
いやだから彼岸花に聞いたんだって。まぁ、ルビコン世代のリアクションはこんなものだろう。
風姿花伝先生は、こうした季節のメルヘンの例として、柿の話をして下さった。
葉が散っても実は落ちない柿は、顔を真っ赤にして落ちないように頑張っている、といった内容で、口を「へ」の字に結んだ表情を作りながら語られた。
素敵な話だと思ったので、軽くパクってというか、参考にして自分なりに話を広げ、ぴーぽこに語ってみた。
はじめは青かった柿。自分も近くの栗の実のように、地面に落ちるんじゃないかとおどおどしていたが、一念発起して秋風が吹く中頑張っているうちに赤くなった、という物語。
話しているうちに、興味深い事が起きた。
柿が一念発起する場面。聞いていたぴーぽこは、柿の気持ちになって、
「ようし!ぼくは、風なんかに負けないぞ!」
と台詞を云った。これが、直後に私が云おうと頭の中で用意していた台詞と、一言一句違わず同じだったのだ。
尤も凝った云い回しでもないし、話の流れからもこうした台詞が出て来ても不思議ではないが、あたかもテレパシーの様に、私がイメージしていた台詞を、内容から間の取り方、口調まで一致させて再現された事に、少なからず驚いた。
そして、私も風姿花伝先生を真似て、口を「へ」の字に結び、頑張っている表情を作る。
これがぴーぽこの気に入ったらしく、以来柿を見る度この表情を浮かべるようになった。面白い事に、木に生っている柿に限る。収穫され、店頭に並んでいる柿は普通にスルー。
他にも、こんな話を考えてみた。
「銀杏さんと楓さんは、桜さんが羨ましくて仕方ありませんでした。何故って、桜さんは春になると、赤ちゃんの肌の様な薄桃色の花をふくふくと満開にして、お空の神様に見せてあげているのです。
それなのに、銀杏さんも楓さんも、ちっぽけな花しか咲かすことが出来ません。
『私たちも、桜さんのように、枝中を綺麗な色で飾って、神様に見せてあげたいなぁ』
それを聞いたお日さまは、自分の色を少しだけこれらの木たちにプレゼントしてあげました。
それから秋になると、銀杏さんはお日さまのキラキラ輝く金色に、楓さんは朝日や夕日の燃えるような真っ赤な色に、葉っぱの色が染まるようになったのです。
幸せな気持ちに包まれた銀杏さんと楓さんは、それまでみすぼらしいと思っていた自分の花が好きになりました」
また、同じ銀杏を扱うのでも、親仲間のジーナさん(仮名)は、「お日様の光が届きにくくなる秋、銀杏は自ら輝きだして、金色に染まった」といった内容のお話をされていた。とても素敵なお話ではないか。
風姿花伝先生によると、こうした話は短いほど良く、また、形容詞や擬声語をふんだんに使うと子供は喜ぶそうだ。現にぴーぽこも、上記「彼岸花」の、「するすると」や「ぱらりと」等の擬声語のくだりで、一段と瞳を輝かせていた。
パラケルススや、ましてやシュタイナーの如く超感覚的洞察力を持たぬ我々は、日常の中では思考を通して自然摂理の秘密を探求するしかない。自然の不思議さ、面白さに感動のまなざしを向けて考えてみると良いだろう。
「ひまわりはお日様が大好きなんだよ」「稲が大地に『ありがとう』ってお辞儀してるね」
例えばこんなシンプルな話でも良いと思う。馴れてくると話が膨らんでゆくだろう。
そのうち、自然が自らその秘密を語ってくれる日が来るかも知れない。
こうした事には馴れが必要で、こちらが予め用意していた話などはともかく、子供から不意打ちの如く発せられる問いに対して、いかに臨機応変に対応できるかといったアドリブ能力を、シュタイナー学校の教師は日々問われているそうだ。改めて先生達に頭が下がる思いである。
馴れないうちは、なかなか上手く行かない。私も以前、こんな事があった。
「海の水からどうやって塩ができるの?」とのぴーぽこの問いに対する私の答え。
「海の水を汲んで熱くすると、水の妖精・ウンディーネがだんだんどこかへ行ってしまうの。そして残された『辛いもの』が、今度は土の妖精・グノームに固められて…」
…話がが迷走してるっての。
狐につままれたような面持ちで聞いていたぴーぽこ、ぽつりと、
「・・・よく分かんないや」
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イメージと比喩とメルヘンと
シュタイナー教育は、「イメージ」を重視する。イメージを形成する力が、現実の世界を強く生きて行く活力になるからだ。
何故か。
それについては、ここでは述べない。それを一から説明しようとすると、それだけで相当長くなってしまうので、割愛する。
ともかく、子供は本来、豊かなイメージの世界に生きている。大人にとってもイメージは大事だが、子供より経験や知識の豊富な大人の場合、それが内面から湧き上がるイメージなのか、過去の記憶に基く表象なのか、判別が難しくなってしまう。
…って、のっけから話が固いっての!まるで屹立したちんぽの様に固いって。このブログの趣旨は、シュタイナーについて金玉袋の様に柔らかく述べる事なので、分かり易い例を出そう。
以前、何かのシュタイナー関連の本で読んだのだが、例えばメルヘンを子供に語って聞かせる時、「お城」が出たとする。子供は「お城」を知らないなりに、「お城」について、豊かなイメージを展開するのだそうだ。
そこに、大人がお城の絵なり写真なりを子供に見せて、「これがお城だよ」と示してしまうと、子供の中で、イメージが固定化されてしまう、というのだ。
絵本の読み聞かせも良いが、素話だと更に良いのだろう。
大人が例えば司馬遼太郎の「新選組血風録」を読んだとして、自分なりの土方歳三の像が思い描ければ、それは「イメージ」であろう。が、それが栗塚旭にそっくりなら、それはテレビドラマの記憶による表象と云える。
…って、例えが古過ぎるっての。栗塚旭主演のドラマ版「新選組血風録」、1965年放映だって。私、生まれてないっての。
本来、子供の持つイメージ形成能力は、大人が考える以上に豊かなものだ。
私の場合も、幼稚園の頃、先生が語る話(教会の園なので、聖書の物語だった)を聞く度、見たことのない筈の昔の外国の映像が、スクリーンに映し出されるかの様に展開していたものだ。こうした経験は、多かれ少なかれ誰もが持っているだろう。
童話や昔話の中には、時として残虐な場面が登場する。有名な「灰かぶり(シンデレラ)」では、手がかりの靴を無理からに履く為、意地悪な姉達はそれぞれナイフでつま先や踵を切り落とす。また、この二人の姉は、最後に鳥によって目を潰されてしまう。
映像化したらスプラッタな場面だが、それは飽くまで大人の見解。子供はこうした場面のスプラッタ性などではなく、そこに込められた叡智を受け取っているのだそうだ。
ここで、「桃太郎」という落語を紹介しよう。
お父っつぁんが坊やを寝かしつけようと、桃太郎の話を始める。
が、坊やは寝るどころか、
「『昔々』って、いつです?何時代?」
「『ある所』って、どこです?」
「『お爺さんとお婆さん』の名前は?」
などと、いちいち突っ込んでくる。
業を煮やしたお父っつぁんは、桃太郎の粗筋を一気にまくしたて、
「おめぇも大きくなったら桃太郎のように…なんだ、もう寝ちまったのかい、子供ってなぁ罪が無ぇな…アレ、起きてやがら。なんだ、目玉をギョロギョロさせやがって」
「お父っつぁんの話を聞いたら、寝るもんも寝られませんよ」
坊やは「桃太郎」という名作を、そんな風にあっさり語るとは何事だ、と説教し、物語の解説を始める。例えば、
「犬ってのは三日飼えば一生恩を忘れないんです。忠義に厚いんです。猿には知恵が、雉には勇気がある。『犬、猿、雉をお供に連れて』っていうのは、『仁・智・勇を身に付けて』ってことなんです」
といった具合に。一通り講釈を垂れたところで、
「分かったかい、お父っつぁん?…アレ、寝ちゃってら。まったく大人ってなぁ罪が無ぇなぁ」
というオチ。
無論、この落語には、「最近の子供はこまっしゃくれて理屈っぽく、一筋縄には行かない」というアイロニーが込められているので、実際に子供が「犬・猿・雉」を「仁・智・勇」と理詰めで解釈している訳では、当然ない。
が、子供は、猫やコアラやインコではなく、「犬・猿・雉」である必然性、それらに比喩されたものを、イメージを通して、無意識の奥深くで感じ取っているのだ。
こうした事柄を理解せず、表面的に解釈する大人によって、昔話の残酷な場面等が改竄される。
お婆さんを殺して婆ぁ汁を作り、それをお爺さんに食わせた「かちかち山」の狸が、最近の本ではお婆さんを殴って逃げただけ。まぁ、お年寄りを殴打するなど言語道断だが、その後狸が受けた執拗な報復を思うと、むしろ狸が哀れにすら思えてくる。
で、最後に狸も改心して、皆で仲良く暮らしましたとさめでたしめでたしって、何だそりゃ。
元来、古くから伝わるメルヘンや神話等は、人類の根源的な叡智を、比喩を通して語っているのだそうだ。
「こめんぶく あわんぶく」とグリム童話の「灰かぶり」、「浦島太郎」とケルトの伝承「フェヴァルの息子ブランの航海」等に共通性が見られるのも、その背後にあるものが人類に共通したものであるからだろう。各国の神話の共通性まで言及すれば、それこそ枚挙に暇が無い。
それと同時に存在している相違性は、それぞれの国や民族特有の背景を反映しているのではないか。
九歳頃までの子供、特に第一7年期※に、こうしたメルヘンを繰り返し語る事で撒かれた叡智の種子が、大人になってから現実を強く生きる力として開花する。
特にグリム童話は「叡智の比喩」の宝庫なのだそうだ。
ルビコン世代(九歳)未満のお子さんをお持ちの方は、早速グリム童話をお子さんに語って頂くとよいだろう。
特に第一7年期のお子さんなら、例えば寝る前などの決まった時間に、同じ物語を一ヶ月(厳密に云えば28日間)繰り返して聞かせる事をお勧めする。
シュタイナーによると、そもそもグリム兄弟が編纂した童話とは、中世に吟遊詩人達が、大人に向けて「比喩を通して」語った叡智の物語が原点なのだという。
固さや柔らかさの比喩に、「ちんぽ」だの「金玉袋」だのを持ち出す当ブログとは訳が違う。
※…0〜7歳。シュタイナーは人生を7年周期に区分した。
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何故か。
それについては、ここでは述べない。それを一から説明しようとすると、それだけで相当長くなってしまうので、割愛する。
ともかく、子供は本来、豊かなイメージの世界に生きている。大人にとってもイメージは大事だが、子供より経験や知識の豊富な大人の場合、それが内面から湧き上がるイメージなのか、過去の記憶に基く表象なのか、判別が難しくなってしまう。
…って、のっけから話が固いっての!まるで屹立したちんぽの様に固いって。このブログの趣旨は、シュタイナーについて金玉袋の様に柔らかく述べる事なので、分かり易い例を出そう。
以前、何かのシュタイナー関連の本で読んだのだが、例えばメルヘンを子供に語って聞かせる時、「お城」が出たとする。子供は「お城」を知らないなりに、「お城」について、豊かなイメージを展開するのだそうだ。
そこに、大人がお城の絵なり写真なりを子供に見せて、「これがお城だよ」と示してしまうと、子供の中で、イメージが固定化されてしまう、というのだ。
絵本の読み聞かせも良いが、素話だと更に良いのだろう。
大人が例えば司馬遼太郎の「新選組血風録」を読んだとして、自分なりの土方歳三の像が思い描ければ、それは「イメージ」であろう。が、それが栗塚旭にそっくりなら、それはテレビドラマの記憶による表象と云える。
…って、例えが古過ぎるっての。栗塚旭主演のドラマ版「新選組血風録」、1965年放映だって。私、生まれてないっての。
本来、子供の持つイメージ形成能力は、大人が考える以上に豊かなものだ。
私の場合も、幼稚園の頃、先生が語る話(教会の園なので、聖書の物語だった)を聞く度、見たことのない筈の昔の外国の映像が、スクリーンに映し出されるかの様に展開していたものだ。こうした経験は、多かれ少なかれ誰もが持っているだろう。
童話や昔話の中には、時として残虐な場面が登場する。有名な「灰かぶり(シンデレラ)」では、手がかりの靴を無理からに履く為、意地悪な姉達はそれぞれナイフでつま先や踵を切り落とす。また、この二人の姉は、最後に鳥によって目を潰されてしまう。
映像化したらスプラッタな場面だが、それは飽くまで大人の見解。子供はこうした場面のスプラッタ性などではなく、そこに込められた叡智を受け取っているのだそうだ。
ここで、「桃太郎」という落語を紹介しよう。
お父っつぁんが坊やを寝かしつけようと、桃太郎の話を始める。
が、坊やは寝るどころか、
「『昔々』って、いつです?何時代?」
「『ある所』って、どこです?」
「『お爺さんとお婆さん』の名前は?」
などと、いちいち突っ込んでくる。
業を煮やしたお父っつぁんは、桃太郎の粗筋を一気にまくしたて、
「おめぇも大きくなったら桃太郎のように…なんだ、もう寝ちまったのかい、子供ってなぁ罪が無ぇな…アレ、起きてやがら。なんだ、目玉をギョロギョロさせやがって」
「お父っつぁんの話を聞いたら、寝るもんも寝られませんよ」
坊やは「桃太郎」という名作を、そんな風にあっさり語るとは何事だ、と説教し、物語の解説を始める。例えば、
「犬ってのは三日飼えば一生恩を忘れないんです。忠義に厚いんです。猿には知恵が、雉には勇気がある。『犬、猿、雉をお供に連れて』っていうのは、『仁・智・勇を身に付けて』ってことなんです」
といった具合に。一通り講釈を垂れたところで、
「分かったかい、お父っつぁん?…アレ、寝ちゃってら。まったく大人ってなぁ罪が無ぇなぁ」
というオチ。
無論、この落語には、「最近の子供はこまっしゃくれて理屈っぽく、一筋縄には行かない」というアイロニーが込められているので、実際に子供が「犬・猿・雉」を「仁・智・勇」と理詰めで解釈している訳では、当然ない。
が、子供は、猫やコアラやインコではなく、「犬・猿・雉」である必然性、それらに比喩されたものを、イメージを通して、無意識の奥深くで感じ取っているのだ。
こうした事柄を理解せず、表面的に解釈する大人によって、昔話の残酷な場面等が改竄される。
お婆さんを殺して婆ぁ汁を作り、それをお爺さんに食わせた「かちかち山」の狸が、最近の本ではお婆さんを殴って逃げただけ。まぁ、お年寄りを殴打するなど言語道断だが、その後狸が受けた執拗な報復を思うと、むしろ狸が哀れにすら思えてくる。
で、最後に狸も改心して、皆で仲良く暮らしましたとさめでたしめでたしって、何だそりゃ。
元来、古くから伝わるメルヘンや神話等は、人類の根源的な叡智を、比喩を通して語っているのだそうだ。
「こめんぶく あわんぶく」とグリム童話の「灰かぶり」、「浦島太郎」とケルトの伝承「フェヴァルの息子ブランの航海」等に共通性が見られるのも、その背後にあるものが人類に共通したものであるからだろう。各国の神話の共通性まで言及すれば、それこそ枚挙に暇が無い。
それと同時に存在している相違性は、それぞれの国や民族特有の背景を反映しているのではないか。
九歳頃までの子供、特に第一7年期※に、こうしたメルヘンを繰り返し語る事で撒かれた叡智の種子が、大人になってから現実を強く生きる力として開花する。
特にグリム童話は「叡智の比喩」の宝庫なのだそうだ。
ルビコン世代(九歳)未満のお子さんをお持ちの方は、早速グリム童話をお子さんに語って頂くとよいだろう。
特に第一7年期のお子さんなら、例えば寝る前などの決まった時間に、同じ物語を一ヶ月(厳密に云えば28日間)繰り返して聞かせる事をお勧めする。
シュタイナーによると、そもそもグリム兄弟が編纂した童話とは、中世に吟遊詩人達が、大人に向けて「比喩を通して」語った叡智の物語が原点なのだという。
固さや柔らかさの比喩に、「ちんぽ」だの「金玉袋」だのを持ち出す当ブログとは訳が違う。
※…0〜7歳。シュタイナーは人生を7年周期に区分した。
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大雑把に「4っつの気質」
占い好きな私だが、血液型占いはあまり信用していない。
いや、それぞれの血液型にある程度の傾向はあるだろうが、そもそも人間を4タイプに分類するという大雑把さがやりきれない。優勢・劣勢遺伝を鑑みて、A型・B型をそれぞれAA型・AO型、BB型・BO型に分けたとしても、6タイプに過ぎないではないか。
以前知り合った方が、出会ってまもなく私に血液型を訊ねてきた。
「A型ッス」
と答えたところ、彼女は意外そうに、
「ふ〜ん・・・あんまりA型には見えないわね〜」
って、出会って数分でオマエに私の何が分かる!?
当時の私は無頼派気取りのファッション・パンクス、完全に見た目判断である。
更に私の両親の血液型まで詮索する始末。
「父がAで、母がBッス」(つまり私はAO型)
すると彼女は得たり賢しとばかりにこう云い放った。
「あ〜、それで分かった!B型が交じってるのね!」
・・・A型にB型が交じったら、AB型だっての!
私は血液型占いそのものが好きではないと云うより、無理からに他人を血液型に当て嵌めて解釈しようとする向きが苦手なのだろう。
そんな私なので、始めにシュタイナーの「4っつの気質」論を聞いた時も、血液型占いと同一視し、「そんな、人間を4っつに分類するって・・・」と興味を抱かなかった。
が、根本的に違った。
人間は「4っつの気質」全てを持っており、それらの要素がどう混ざり合っているか、どの要素を多分に持っているか等で個性が決まる、というのである。単純に人間を4っつないし、混合気質も併せて8っつ等に分類するのではなく、それぞれの人間の個性を見ていく上での指針とするのだ。
「4っつの気質」について、詳細は書ききれないので、ここでは極めて大雑把に紹介しよう。(冒頭で『大雑把さがやりきれない』等と書いておいてナンだが)
*胆汁質(火の要素)
・・・美点:行動的で正義感や意志が強く、主導的。
例:肝っ玉母ちゃん
偏ると:感情の起伏が激しく、特に怒ると手が付けられない。暴力的。
例:DV夫
*多血質(風の要素)
・・・美点:明朗快活で社交的、好奇心が旺盛。
例:「男はつらいよ」の寅さん
偏ると:落ち着きがなく、軽薄で飽きっぽい浮気者。突拍子も無い行動。
例:「好色一代男」の世乃介
*粘液質(水の要素)
・・・美点:温厚で実直、マイペースで粘り強い。
例:はたらくおじさん
偏ると:不活発で無気力、無関心。
例:はたらかないおじさん
*憂鬱質(地の要素)
・・・美点:思慮深く、慎重で誠実。他者への思いやりも深い。
例:「地上の星」の中島みゆき
偏ると:利己的で否定的、悲観的。執念深い。
例:「うらみ・ます」の中島みゆき
以上、簡単に紹介してみたが、これらは典型的な例に過ぎない。また、大抵はこれらの気質が混合している。
例えば、合コンの盛り上げ役のお調子者(多血の要素)が、普段は一人でまったりと、美味しいお酒や料理に舌鼓を打っている(粘液の要素)とか。
または、頼もしいやり手の社長(胆汁の要素)だが、ヒラ社員一人一人への気遣いも行き届いている(憂鬱の要素)など。
育児の上で、この「4っつの気質」という視点は、大いに役立つ。子供の気質によって違った導き方があるからだ。それも含めて、今後も気が向けば「4っつの気質」について、更に詳しく考察して行きたい。
そういえば、冒頭で例に出した血液型占い。私の愛妻・みほち(仮名)は結婚前、
「うちは 多分 O型やわぁ」
と云っていた。何だ、「多分」って!?こんな大雑把さというか、大らかさは、確かにいかにもO型の典型と云える。
無論、繊細さや几帳面さも併せ持つみほちだが、それを上回るO型っぷりを発揮していたので、誰もが彼女がO型である事を疑わなかった。妻・みほちに関しては、血液型占いもあながち間違ってはいない、と思えた。
結婚後、娘・ぴーぽこ(仮名)を懐妊、検査から帰宅したみほちは、驚愕の一言をさらりと云ってのけた。
「今日血液検査してみたらな、うち、
A型だったわぁ」
えぇ〜!?人生約三十年目にして、初めてそれが発覚!?
・・・こんな大雑把なA型はいない。
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いや、それぞれの血液型にある程度の傾向はあるだろうが、そもそも人間を4タイプに分類するという大雑把さがやりきれない。優勢・劣勢遺伝を鑑みて、A型・B型をそれぞれAA型・AO型、BB型・BO型に分けたとしても、6タイプに過ぎないではないか。
以前知り合った方が、出会ってまもなく私に血液型を訊ねてきた。
「A型ッス」
と答えたところ、彼女は意外そうに、
「ふ〜ん・・・あんまりA型には見えないわね〜」
って、出会って数分でオマエに私の何が分かる!?
当時の私は無頼派気取りのファッション・パンクス、完全に見た目判断である。
更に私の両親の血液型まで詮索する始末。
「父がAで、母がBッス」(つまり私はAO型)
すると彼女は得たり賢しとばかりにこう云い放った。
「あ〜、それで分かった!B型が交じってるのね!」
・・・A型にB型が交じったら、AB型だっての!
私は血液型占いそのものが好きではないと云うより、無理からに他人を血液型に当て嵌めて解釈しようとする向きが苦手なのだろう。
そんな私なので、始めにシュタイナーの「4っつの気質」論を聞いた時も、血液型占いと同一視し、「そんな、人間を4っつに分類するって・・・」と興味を抱かなかった。
が、根本的に違った。
人間は「4っつの気質」全てを持っており、それらの要素がどう混ざり合っているか、どの要素を多分に持っているか等で個性が決まる、というのである。単純に人間を4っつないし、混合気質も併せて8っつ等に分類するのではなく、それぞれの人間の個性を見ていく上での指針とするのだ。
「4っつの気質」について、詳細は書ききれないので、ここでは極めて大雑把に紹介しよう。(冒頭で『大雑把さがやりきれない』等と書いておいてナンだが)
*胆汁質(火の要素)
・・・美点:行動的で正義感や意志が強く、主導的。
例:肝っ玉母ちゃん
偏ると:感情の起伏が激しく、特に怒ると手が付けられない。暴力的。
例:DV夫
*多血質(風の要素)
・・・美点:明朗快活で社交的、好奇心が旺盛。
例:「男はつらいよ」の寅さん
偏ると:落ち着きがなく、軽薄で飽きっぽい浮気者。突拍子も無い行動。
例:「好色一代男」の世乃介
*粘液質(水の要素)
・・・美点:温厚で実直、マイペースで粘り強い。
例:はたらくおじさん
偏ると:不活発で無気力、無関心。
例:はたらかないおじさん
*憂鬱質(地の要素)
・・・美点:思慮深く、慎重で誠実。他者への思いやりも深い。
例:「地上の星」の中島みゆき
偏ると:利己的で否定的、悲観的。執念深い。
例:「うらみ・ます」の中島みゆき
以上、簡単に紹介してみたが、これらは典型的な例に過ぎない。また、大抵はこれらの気質が混合している。
例えば、合コンの盛り上げ役のお調子者(多血の要素)が、普段は一人でまったりと、美味しいお酒や料理に舌鼓を打っている(粘液の要素)とか。
または、頼もしいやり手の社長(胆汁の要素)だが、ヒラ社員一人一人への気遣いも行き届いている(憂鬱の要素)など。
育児の上で、この「4っつの気質」という視点は、大いに役立つ。子供の気質によって違った導き方があるからだ。それも含めて、今後も気が向けば「4っつの気質」について、更に詳しく考察して行きたい。
そういえば、冒頭で例に出した血液型占い。私の愛妻・みほち(仮名)は結婚前、
「うちは 多分 O型やわぁ」
と云っていた。何だ、「多分」って!?こんな大雑把さというか、大らかさは、確かにいかにもO型の典型と云える。
無論、繊細さや几帳面さも併せ持つみほちだが、それを上回るO型っぷりを発揮していたので、誰もが彼女がO型である事を疑わなかった。妻・みほちに関しては、血液型占いもあながち間違ってはいない、と思えた。
結婚後、娘・ぴーぽこ(仮名)を懐妊、検査から帰宅したみほちは、驚愕の一言をさらりと云ってのけた。
「今日血液検査してみたらな、うち、
A型だったわぁ」
えぇ〜!?人生約三十年目にして、初めてそれが発覚!?
・・・こんな大雑把なA型はいない。
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こびと are From・・・
前回の記事以降、歯を銭に変えて貰おうという守銭奴丸出しの野望を断念したぴーぽこ。再び天然石で満足するようになった。
以後、抜けた歯を、こびとさんへのプレゼント用のアーモンド数粒と一緒に包み、手紙を添えて枕元に置くのがぴーぽこにとっての定番スタイルとなったのだが、その手紙の内容に変化が起きた。
これまでは、こびとさんに対して「だいすきだよ」や「ありがとう」といった内容に終始していた。が、今回の手紙はこうだ。
「こびとさんはどこからきてるんですか!
わたしはふしぎです。」
(ぴーぽこの手紙より、無許可で抜粋)
「!」マークときた。ここは「?」だろ、とも思うが、まぁ、それは置いといて。
この一文から、ぴーぽこが世界に対して独立しつつある、という事が読み取れる。
シュタイナー教育では、七歳までの子供は世界と一体である、とされる。
お母さんやお父さん、猫や蝶、コスモスもローズクォーツも、雲や星々さえも、それらは子供にとって「別の存在」なのではない。
それが、七歳以降、ゆっくりと「世界」と「自分」が離れてゆき、およそ九歳前後で「自分」と「外界」との区別が明瞭になる。これが、シュタイナー教育で云うところの「ルビコン世代」であり、創世記でアダムとエヴァが楽園を離れ、神々から独立した存在になった事件とも関連する年代でもあるのだ。
これまで生きていたファンタジーの世界から離れ、サンタさんや妖精、天使などを、「ほんとにいるのかな?」と疑い出したり、「そんなものいないよ!」と否定し出すのが、概ねこの年頃である。
ぴーぽこにとって、これまで「こびとさん」とは深く繋がっていた。だから「だいすき」なのだ。
流石にぴーぽこは、まだこうした存在に疑いは抱いていないものの、これまで密接だったこびとさんとの間に距離が生じた。つまり、「自分とこびとは別の存在」という意識が、これまでよりも明瞭化したから、「どこから来るんだろう?」という問いが湧いたのではないか。
また、「ふしぎ」という抽象的な言葉が身に付いているのも興味深い。勿論これまでも「ふしぎ」という単語は知っていたし、会話の中で使ってもいた。
期せずして、前の月、夜のお祈りの後で金子みすゞの「ふしぎ」という詩を暗誦していたぴーぽこ。
恐らく、本当に心の底から「不思議!」という感情が湧き上がった、初めての体験かもしれない。それが文面から伝わって来る様であった。
さて、手紙の返事を書かねばならない。これは私が書くというより、あくまでこびとさんの「代筆」である。
こびとさん達は、何処から来るのか。
森の洞穴だろうか。庭やベランダの植木鉢の陰だろうか。それとも居間に飾っている水晶の中だろうか。
大人がファンタジーの力を動員して、あれこれ想像を巡らすのは、子供にとっても良い作用を生むだろう。
この、「何処から来るか」という問いについて、シュタイナーは講演の中で興味深い事を語っているので、一部抜粋したい。
尚、文中に耳慣れぬ用語が出てくるが、平たく云えば「四大存在」とは「妖精(元素霊)」、「高次のヒエラルキア存在」とは「天使」を指す。
「四大存在や高次のヒエラルキア存在はどこにいるのでしょうか。それらの存在は、ここにいるのです。このいたるところにいるのです。テーブルや椅子のあるところ、皆さん自身のいらっしゃるところ、そのいたるところにいるのです。しかし外界の事物や経過にくらべると、それらの存在は希薄で不確かですので、人間の注意の眼を逃れているのです」
R.シュタイナー 『内面への旅』 (訳:高橋巌、筑摩書房刊)より
これを踏まえて、「私達小人はぴーぽこちゃんの近くにいつもいて、見守っている」という内容のお返事を、代筆した。
翌朝、抜けた乳歯が変容した天然石と、こびとさんからの返事を見て、嬉しそうなぴーぽこ。それでも少しずつ「こびとさんの世界」から「現実世界〜感覚世界〜」へと降りてきつつある。
ところでぴーぽこからの手紙、最後に、いかにもヴァルドルフの子供らしい絵で、綺麗な色彩のこびとさん達が、色鉛筆で可愛く描かれていた。
曰く、
「(こびとさん達の)えをかいてあ・げ・る・」
(ぴーぽこの手紙より、無許可で抜粋)
何だ、「あ・げ・る・」って。こんな表記法、何処で覚えた?
・・・オマエは 小・悪・魔・か?
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以後、抜けた歯を、こびとさんへのプレゼント用のアーモンド数粒と一緒に包み、手紙を添えて枕元に置くのがぴーぽこにとっての定番スタイルとなったのだが、その手紙の内容に変化が起きた。
これまでは、こびとさんに対して「だいすきだよ」や「ありがとう」といった内容に終始していた。が、今回の手紙はこうだ。
「こびとさんはどこからきてるんですか!
わたしはふしぎです。」
(ぴーぽこの手紙より、無許可で抜粋)
「!」マークときた。ここは「?」だろ、とも思うが、まぁ、それは置いといて。
この一文から、ぴーぽこが世界に対して独立しつつある、という事が読み取れる。
シュタイナー教育では、七歳までの子供は世界と一体である、とされる。
お母さんやお父さん、猫や蝶、コスモスもローズクォーツも、雲や星々さえも、それらは子供にとって「別の存在」なのではない。
それが、七歳以降、ゆっくりと「世界」と「自分」が離れてゆき、およそ九歳前後で「自分」と「外界」との区別が明瞭になる。これが、シュタイナー教育で云うところの「ルビコン世代」であり、創世記でアダムとエヴァが楽園を離れ、神々から独立した存在になった事件とも関連する年代でもあるのだ。
これまで生きていたファンタジーの世界から離れ、サンタさんや妖精、天使などを、「ほんとにいるのかな?」と疑い出したり、「そんなものいないよ!」と否定し出すのが、概ねこの年頃である。
ぴーぽこにとって、これまで「こびとさん」とは深く繋がっていた。だから「だいすき」なのだ。
流石にぴーぽこは、まだこうした存在に疑いは抱いていないものの、これまで密接だったこびとさんとの間に距離が生じた。つまり、「自分とこびとは別の存在」という意識が、これまでよりも明瞭化したから、「どこから来るんだろう?」という問いが湧いたのではないか。
また、「ふしぎ」という抽象的な言葉が身に付いているのも興味深い。勿論これまでも「ふしぎ」という単語は知っていたし、会話の中で使ってもいた。
期せずして、前の月、夜のお祈りの後で金子みすゞの「ふしぎ」という詩を暗誦していたぴーぽこ。
恐らく、本当に心の底から「不思議!」という感情が湧き上がった、初めての体験かもしれない。それが文面から伝わって来る様であった。
さて、手紙の返事を書かねばならない。これは私が書くというより、あくまでこびとさんの「代筆」である。
こびとさん達は、何処から来るのか。
森の洞穴だろうか。庭やベランダの植木鉢の陰だろうか。それとも居間に飾っている水晶の中だろうか。
大人がファンタジーの力を動員して、あれこれ想像を巡らすのは、子供にとっても良い作用を生むだろう。
この、「何処から来るか」という問いについて、シュタイナーは講演の中で興味深い事を語っているので、一部抜粋したい。
尚、文中に耳慣れぬ用語が出てくるが、平たく云えば「四大存在」とは「妖精(元素霊)」、「高次のヒエラルキア存在」とは「天使」を指す。
「四大存在や高次のヒエラルキア存在はどこにいるのでしょうか。それらの存在は、ここにいるのです。このいたるところにいるのです。テーブルや椅子のあるところ、皆さん自身のいらっしゃるところ、そのいたるところにいるのです。しかし外界の事物や経過にくらべると、それらの存在は希薄で不確かですので、人間の注意の眼を逃れているのです」
R.シュタイナー 『内面への旅』 (訳:高橋巌、筑摩書房刊)より
これを踏まえて、「私達小人はぴーぽこちゃんの近くにいつもいて、見守っている」という内容のお返事を、代筆した。
翌朝、抜けた乳歯が変容した天然石と、こびとさんからの返事を見て、嬉しそうなぴーぽこ。それでも少しずつ「こびとさんの世界」から「現実世界〜感覚世界〜」へと降りてきつつある。
ところでぴーぽこからの手紙、最後に、いかにもヴァルドルフの子供らしい絵で、綺麗な色彩のこびとさん達が、色鉛筆で可愛く描かれていた。
曰く、
「(こびとさん達の)えをかいてあ・げ・る・」
(ぴーぽこの手紙より、無許可で抜粋)
何だ、「あ・げ・る・」って。こんな表記法、何処で覚えた?
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