シュタイナーとメルヘン

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  2. 2010/09/29 3歳児と「カエルの王さま」
  3. 2010/09/24 メルヘン論・「灰かぶり」②と「米福粟福」
  4. 2010/09/16 メルヘン論・「灰かぶり」①
  5. 2010/06/28 姫と王子のメルヘンの真実~序論~
  6. 2010/05/31 本当は人智学的なグリム童話

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3歳児と「カエルの王さま」

3歳ぐらいの子供を抱っこして歩いていると、子供が「自分で歩く」と訴える。
降ろすと、数歩も歩かぬうちに、「抱っこして」
再度抱っこすると、また「歩く」
こうして賽の河原のようにエンドレスで、イタチごっこの如く「抱っこ」「歩く」の応酬、駄々を捏ねる子供に、親も半ギレという状況は、お子さんをお持ちの方は多かれ少なかれ経験したことがあるだろう。

まったく、オマエはどうして欲しいんじゃ!と、3歳児の心理は計りかねる。小悪魔気取りのバカ女でも、ここまで無遠慮なワガママは申しませんっての。

では、この時3歳児の心には、何が起こっているのだろうか?こんなイタチな3歳児にどう向き合えばよいのか?
それを、グリム童話の「カエルの王さま」を人智学的に読み解くことで、考察したい。

物語の始まりで、美しいお姫様は金のマリを泉の底に落としてしまう。カエルは、「お姫様とお友達になり、一緒に食事をし、同じベッドで眠る」、という約束で、泉の底のマリを拾って来る。
ところがあろうことか、お姫様は大切なマリが戻るや、嬉しさのあまり、カエルをほっぽって駆けて行ってしまう。そして、すぐさま「カエルのことなんか忘れて」しまうのだ。

オマエ、記憶力無いのか?

このツッコミは、実は問いであり、それについては後で述べる。
また、金のマリやそれが泉に落ちたことにも意味があるのだが、今回は触れない。

翌日、家族と食事をしているお姫様を呼ぶ声が聞こえる。お姫様が戸を開けてみると、そこには件のカエルがいる。ここでお姫様はまさかのリアクション、

戸を閉めて、食卓に戻る。

え!?見なかったことにするの?

流石に父である王様に見咎められ、ことの成り行きが明るみになる。王様曰く、
「約束は守りなさい」
極めてまっとう。メルヘンだから、「え?カエルと約束?カエルが喋ったのか?」などということは一切スルー。相手が不気味なカエルであれ、約束通り、お姫様はカエルと一緒に、同じお皿で食事をするよう王様に指示される。

カエルは更に、約束通り一緒のベッドで眠ることを要求し、お姫様も流石に泣き出してしまう。
この場面、カエルという存在自体のヌメヌメ感も相まって、必要以上にエロティックな解釈を加える向きもあるが、ともあれ、普通の親父なら、
「カエルさん、いくらなんでもそれはちょっと・・・」
ぐらいなことは云いそうなものだ。尤も、「普通の親父」も何も、この状況自体が普通じゃない。

では、王様はどうしたかと云うと、怒り出した。それも、図々しいカエルにではなく、約束を守ろうとしないお姫様に対して、である。

ブレてない。

「困った時に助けてくれた者を、後になって知らん顔するのは良くない」との王様の云い様は、まったく正当で、筋が通っている。

仕方無しに自室にカエルを通したお姫様だが、「私も楽に眠りたい」と云ってお姫様のベッドに潜り込もうとするカエルに腹を立てた彼女は、カエルをつまみあげ、

壁に叩きつけたのである。

ええ!? ひどくない?

「これで楽に眠れるわよ!」だって。永遠の眠りに付かせる気か?

ところが、それによってカエルの魔法が解けて、王子様の姿に戻ったのだから、二度びっくりである。キスとかで魔法が解けるんじゃなくて?そんな荒療治で?

・・・以上が、3歳児の心の中に起きている事である。って、このまとめ方も解りにくいって。

つまり、お姫様の魂は、3歳~9歳の子供と対応していると思われる。「記憶力ないのか」と冒頭でツッこんだが、3歳の子供の記憶力は大人とは違った有り方をしている。マリが戻った嬉しさで、すぐに直前のことを忘れるのは、いかにも3歳児っぽい。
かといって事象全てを忘れるのではなく、翌日カエルと再会したときに、そのことを思い出すのだ。まだ自力で思い出せるほど、子供の記憶力は自由を得ていない。

お姫様は、渋々ながらも父である王様に従順である。まるで、素直に親の云い付けを聞く2歳までの子供のように。
だが、王様の云うことがまっとうであれなんであれ、それに反抗してカエルを投げ付けることで、王子つまり「自我」が現れたのだ。

シュタイナーによると、人間の自我が自由になるのは21歳だが、自我の最初の兆しが現れるのが、3歳頃なのだそうだ。年齢には個人差があるが、「イヤイヤ」が始まったらそれが自我の兆しなのだ。
「イヤイヤ」を通して自分と親との間の境界を知り、自分の「個」を確立させる。その為の作業が、「反抗期」として現れるのだ。そしてそれは、子供の「個」としての成長には必要なことなのである。

冒頭の例で云うと、子供は「抱っこしてほしい」のでも、「歩きたい」のでもなく、そのように「イヤイヤ」をすることが自体が心の成長の為に必要だから、そうしているに過ぎないのだ。この時期に子供の反抗を無理に押し込めるようなことをするのは、子供の「個」としての成長を妨げることになる。

では、冒頭のような状況で、子供にどう対処すればよいのか。道は二つある。

一つは、上記のことを踏まえて、開き直って、

とことん付き合う。

が、多くの場合、時間や体力、根気などのあらゆる制約が生じるので、あまり現実的ではない。

もう一つの道は、

子供の気をそらす。

イライラする自分を離れ、余裕を持って、子供にとって興味をひくことを探し、そちらに促すのだ。うまくいけば、子供はすぐにその新しい状況に夢中になるだろう。お姫様が、カエルのことを忘れ、金のマリに夢中になったように。
これは結構難しく、一朝一夕にはいかず、それが出来るようになった頃には子供の反抗期も過ぎていた、という事も往々にして有り得る。が、人生においてこの練習をしておくことは決して無駄ではないだろう。

私の娘・ぴーぽこ(仮名)が3歳頃、道端で駄々を捏ねた。当時の私はイライラして、軽く怒りそうになっていたところに、一頭の蝶々がひらひら。それを見たぴーぽこ、

「あ・・・ちょうちょ。。」

と、一瞬にして上機嫌になり、駄々を捏ねていたことも忘れ、蝶を追いかける。

まだ至らない私の代わりに、蝶々がぴーぽこの気をそらしてくれたかのようだ。
この場合は偶然だが、この蝶の役割を工夫して作り出せれば、育児上手と云える。

それにしても、蝶々一頭で手の平返す娘・ぴーぽこも、3歳児とはいえ単純にも程があるって・・・。



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メルヘン論・「灰かぶり」②と「米福粟福」

前回、ハシバミの木が、地上の灰かぶりと天国の実母とを結ぶ架け橋であることは述べた。
天界と地上界を結ぶものは、このハシバミの木にやって来る「白い小鳥」も同様である。
「シンデレラ」では魔法使いのお婆さん、「サンドリヨン」では仙女が少女の力になるが、「灰かぶり」では小鳥が、お城のパーティーの為のドレスなどを彼女にもたらすのだ。

小鳥が天界と地上界の架け橋である「天使(アンゲロイ、エンジェル)」の象徴であろうことはイメージしやすい。
魔法使いのお婆さんにしろ、仙女にしろ、人間界の者か、異界の者か、友達以上恋人未満的な微妙な存在である。その意味では、両者とも「仲介者」として、小鳥つまり天使と同様の意味を持つのだろう。

更に和製・灰かぶりとも云うべき、「米福粟福(こめんぶく あわんぶく)」という日本昔話においては、山姥がその役割を果たしている。この山姥は、蓬髪の中にむかでやなんかの毒虫がうようよと生息しているのだから、不潔な天使もいたものだ。
話によっては山姥の代わりにお地蔵さまが登場するが、これは日本版天使と思えば分かりやすい。

「灰かぶり」で、小鳥によってもたらされたのは、金、銀、そして星のように輝くドレス、つまり太陽や月、星々の叡智を身に纏うものであった。
前回、義姉がねだったドレスは、ルツィフェルの比喩、と述べたが、同じドレスでもここでは意味合いが違う。
着物は「身に付ける」「表面だけ飾る」「本質を覆い隠す」など色々な要素があるので、物語の文脈によってどういう比喩で用いられているのか、注意深く読み取る必要がある。

シンデレラやサンドリヨンでは、有名なガラスの靴が登場するが、グリム童話では「金の靴」となっている。前回冒頭で紹介した、「灰かぶり無精者説」を唱えた某メルヘン解釈の本では、この靴をめぐる王子の様子から、王子は、

足フェチ

であったとの仮説を打ち立てていた。足フェチって。随分ザックリ断じたものだ。

人智学的に読み解くと、靴は足つまり「意志」の要素であり、大地に触れる物だ。
二人の姉がこの靴を履こうと、それぞれつま先やかかとを切り落としたのは、「意志の放棄」なのだそうだ。
そうしてまでにせの花嫁になろうとした二人だが、結局は天使存在である2羽の白鳩によって、正体を暴かれている。

そして、王子と少女との結婚。これは「自我=王子」と「魂=少女」が結び付くことを意味するそうだが、それがどういうことなのかは、今後、色々なメルヘンを考察しつつ、じっくりと述べたい。

これまでの人智学的考察を踏まえて、灰かぶりを子供に読み聞かせる時、悟性を超えた感情が心の中に芽生えるだろう。

さて、物語はこのまま「めでたしめでたし、とっぺんぱらりのぷぅ」では終わらない。王子と灰かぶりの幸せにあやかろうと参列した二人の義理の姉の両目を、件の2羽の白鳩が、つつきだしてしまうのだ。そして二人は一生目が見えませんでした、というのが、物語の結びである。
つまり、悪魔的な欲望に取り憑かれた者は、精神の目が曇るということなのだそうだ。
ここで、ふと思う。鳥が「天使」の象徴なら、天使が姉達の目を潰したことになる。天使がそんな残酷なことをするのだろうか?

・・・するやも知れぬ。
尤もそれは懲罰の為ではない。天使学によると、人間に死や病気をもたらしたのは、悪魔などではなく、他ならぬ天使存在だというのだ。
とんだパンドラの壺である。
が、天使存在はパンドラを人間界に遣わしたゼウスとは違い、人間をある作用から守る為にこれらをもたらしたのだそうだ。が、この事は理解や受け入れることが困難だと思うので、ここではひとつの観点として提示するに留める。
と云うか、天使が存在することを前提に色々述べている私も、大人として如何なものか。

ペローのサンドリヨンやシンデレラの物語のラストは、グリムの灰かぶりのような残酷さは無いが、例の「こめんぶく あわんぶく」のラストは、「灰かぶり」に近い。

灰かぶりの類型の物語は世界各地に見られるそうだが、「こめんぶく あわんぶく」も大同小異、「灰かぶり」や「シンデレラ」との共通点の多さに驚かされる。例を挙げると、

「灰かぶり」    「こめんぶく あわんぶく」
(または、シンデレラ)

継母        [地上界]    継母

義姉        [悪魔]     義妹

白い鳩       [天使]     
(魔法使いの老婆)        山姥

王子        [自我]     長者の息子

等々。また、いやがらせの手口も同じで、宴会またはお祭りに行く条件に、またはを大量にぶちまけられ、それらを一粒残らず拾うことを要求されるのだ。そして、それを小鳥たちの助けを借りて解決するというのも共通している。

話によっては灰かぶりの金の靴よろしく下駄を落としていくものもあるが、或いは「灰かぶり」を意識して、後世に付け加えられたのかも知れない。

ともあれ、玉の輿に乗るまでは双方同じ様に物語が展開してゆく。が、長者の倅にあわんぶくが嫁入りしたあたりから、物語は風雲急を告げる。
あわんぶくを羨ましく思う義妹のこめんぶくは、「私も嫁に行きたい」と、母にせがむ。母はよしとばかりにあわんぶくを石臼に乗せ、それを引きつつ、

「嫁はいらんかねぇ!」

と呼ばわるのだ。大安売りにも程があるって!仮に私が童貞をこじらせて、一生結婚出来ないのでは、と思い悩んでいたとしても、もう、女性だったらどなたでも選り好みいたしません、という程に追い込まれていたとしても、こんな不気味な母娘と家族になるのは真っ平御免である。

そしてこのバカ親子、畦道で転倒し、石臼ごと田んぼに落ちて、


タニシになってしまいましたとさ。

って、えええ!?これまで灰かぶりと同様の粗筋やモチーフで、あわんぶくが幸せに結婚するところまで構築しておいて、オチがタニシ!?シュールすぎでしょ!?

だが、考えてみると、タニシは暗い貝の中で、わずかな明りを感じる程度の触覚で、周囲を幽かに知覚しつつ生活している。これは、両の目を失った「灰かぶり」の姉達の境遇と同じことを意味してはいないか?
精神的な視力が損なわれることを、タニシになることで象徴していると解釈すると、見事なまでに「灰かぶり」と一致していると云える。

・・・それにしても、イキナリタニシって・・・。 



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メルヘン論・「灰かぶり」①

メルヘンを人智学的に捉えるに当たり、まずは誰もが知っている物語を例に取りたい。

「灰かぶり」

多少の違いはあるが、「シンデレラ」又はシャルル・ペローの「サンドリヨン」とほぼ同じ粗筋である。典型的な「姫と王子の物語」であると云えよう。

今回は、「人智学はメルヘンをどのように解釈するか」のサンプルとして、オイリュトミー教師の風姿花伝先生(仮名)の講義で学んだ事や、ヨハネス・シュナイダー著「メルヘンの世界観」を基に、メルヘンにおけるシンボルの人智学的読み解き方を中心に述べたい。

さて、あるメルヘン解釈の本(人智学系ではないもの)に、「灰かぶり」についての面白い説が述べられていた。
主人公の少女は、「灰かぶり」と徒名されるところから、身に付いた灰を払い落としもしないほど「無精者」なのではないか、と云うのである。

ナイス突っ込みである。

その観点から、この少女は自らの不精さを改善する為、意地悪な継母にこき使われる状況に云々と、カルマ論を展開することも出来る。
が、この突っ込みは悟性的だ。その意味では、例えば「少女が『灰かぶり』と呼ばれたのは、身だしなみに気を使う暇も無いほどこき使われていることの比喩ではないか。そこからは少女が不精であるかどうかは読み取れない」と云うことも出来る。

では、人智学的にはどう読み取るか。それには「灰」というものの考察が必要である。
灰は、物質が燃焼した残りの無機物である。物質からさらに残った物質であり、地上との結び付きを感じさせるものである。
また、灰は単なる「残りカス」ではない。着火剤や肥料、アク抜きなど、使用用途も多く、「死と再生」の象徴ともされている。
灰にまみれて働く、というのは、魂または心が、この地上世界で苦労や努力をする、と解釈出来るのだそうだ。

「継母」はどうだろう。
関係無いが、私は幼少の砌、この「継母(ままはは)」という言葉の響きが不思議でならなかった。「ママ」で「母(はは)」って、実母以上に実母な感じがしないか?
・・・しないか。

ともあれ、意地悪な継母というのは、苦難多き地上そのものを象徴しているそうだ。そして、それは飽くまでも仮の母であり、実の母は天上界または精神的世界から少女を見守り続けるのだ。
裕福な家庭にあった少女が実母に死に別れ、代わって意地悪な継母に酷い扱いを受ける、というのは、魂が精神界から地上世界に受肉したことを思わせる。

少女(魂)は、のちに王子(自我)と結ばれるが、その為には魂が地上に受肉して、この世界で地に足を付け、努力して生きる必要がある。

「若い頃の苦労は買ってでもせよ」「苦労は芸の肥し」などと云うが、苦労が現世利益の形で実を結ぶかどうかは別として、人間を前へと進める力となる事は確かだろう。
殊に芸事の世界では、下積みは当然。が、落語家の三遊亭円楽(元・楽太郎)師匠は一風変わっており、弟子の三遊亭楽大(後の伊集院光)らが鞄持ちなどしている合間に小遣いを渡し、
「映画でも観て来い」
などと息抜きをさせていたそうだ。彼の言い分が振るっていて、
「苦労が芸の肥しになるのは確かだが、肥しもやり過ぎると根腐れするだろう」

粋だねぇ!

継母が楽太郎だったら、灰かぶりもさぞかし楽だろう、と云おうと思ったが、駄洒落っぽい響きなので云わずにおく。だが、良くしたもので、灰かぶりは楽太郎師匠における息抜きという恩恵を、別の形で、亡き実母から受けるのだ。

ある日、二人の姉は、街に出かける義理の父(灰かぶりの実父)に、お土産として、それぞれ「綺麗なドレス」「真珠と宝石」をねだる。二人がそれぞれ「ルツィフェル(ルシファー)・享楽的で偏愛」「アーリマン・功利的で冷淡」という悪魔の虜となっていることは、以前にも触れた。

一方灰かぶりが欲しがったのは、木の枝だ。

・・・木の枝って!無欲にも程がある!第一、木の枝ぐらいその辺りで手折って来いよ!

然も、親父も親父で、本当に木の枝折って帰って来てんの。頼まれなくても森永製菓の小枝チョコぐらい買ってやれよ!

と、メルヘンに悟性的突っ込みを入れてはいけない。
木の「幹や枝、葉(感情)」は、「根(思考)」と「花、果実(意志)」とを結んでいる。
灰かぶりは手に入れたハシバミの枝を実母の墓に植え、そこで涙を流す。「泣く」という行為は、地上と結び付くことを意味するそうだ。もう、灰かぶりはこれでもか、というぐらいに地上と結び付くのだ。
そして、ハシバミは美しい木に育つ。植物の相は、宇宙に向かって手を開いている状態だ。
こうしてハシバミつまり栄養満点なヘーゼルナッツを実らせる木が、地上の灰かぶりと天界の実母とを「結ぶ」役割を果たすこととなる。
この木と、そこに訪れる白い小鳥が、天国の実母との架け橋となり、灰かぶりの欲しがるものをもたらしてくれるのだ。
これが無ければ、灰かぶりは肥しを摂り過ぎて根腐れを起こしていたかもしれない。

物語の続きは次回の講釈として、閑話休題。
家庭で取り組めるシュタイナー教育として、低学年の子供に、家庭でのお手伝いをして貰う、という方法がある。
同じ仕事を、出来るだけ決められた時間に行わせるのだ。
これにより、その子の「意志」の要素が育ち、例えば「『思考』が目覚めて『意志』が眠る」と云われる思春期に、「ッたり~・・・」とか云いつつも何だかんだで机に向かって勉強はする、という力に変容するのだそうだ。
無論、作用は思春期に止まらず、その子の未来にまで及ぶ筈だ。

我が家では、娘・ぴーぽこ(仮名)に、お手伝いとして夕方お風呂掃除をして貰っている。

ところが気が付くと、妻・みほち(仮名)の策謀により、「玄関掃除」「インコの餌やりと水替え」が、いつの間にか当たり前のように、ぴーぽこの仕事に追加されていたのだ。

妻・みほちよ・・・。ぴーぽこの出産に立ち会った私だが、敢えて問いたい。

オマエは継母か?


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姫と王子のメルヘンの真実~序論~

グリム童話等のメルヘンの中には、いくつかの類型が見られる。
その一つが、「少女または姫が、苦難の果てに王子様または王様と結ばれる」というものだ。いくつもの話があり、バリエーションも様々だが、この粗筋は共通している。
グリム童話の中から、ざっと思いつく限り羅列してみよう。

「灰かぶり(シンデレラ)」「白雪姫」「手なし娘」「ラプンツェル」「バラ赤さんと雪白さん」「イバラ姫(眠り姫)」「ツグミのひげの王様」「千色皮」「十二人兄弟」「にいさんと妹」「森の中の三人の小人」「白い花よめと黒い花よめ」「ほんとうの花よめさん」「一つ目、二つ目、三つ目」「なきながらはねるヒバリ」「ガチョウ番の少女」・・・
ああ、もう、キリがない!・・・それだけ多いってことだ。

日本の昔話では、「鉢かづき」「こめんぶくあわんぶく」などが同じ類型に入るだろう。

これらのヒロイン達は、軒並み王子様かそれに準ずる身分の男性と結ばれてハッピーエンドを迎えるのだが、そもそも何だ、王子様ってのは。そんな、生まれながらに富と地位が約束された男と結ばれるのが、そんなに価値かね?それが女の幸せかね?
私の様にモテないこと山の如しといった思春期を通過した者としては、王子様をやっかんでみたくもなるってもんだ。

だが、シュタイナーの人智学の観点からすると、この類型におけるメルヘンが、単なる玉の輿話ではないことが見えてくる。「王子様」は現世的な、「地位や金、美貌にまで恵まれた、優しい理想的な男性」のシンボルではないのだ。
では、「王子様」や「娘・姫」は何を表しているのか。
無論、メルヘンによっては「王子様」や「娘」の持つ意味合いは違ってくる。今回は、上記の「少女または姫が、苦難の果てに王子様または王様と結ばれる」という類型に限って述べる。

私が学んだところによると、この類型におけるメルヘンの「少女・姫」とは「魂」であり、「王子様」とは「自我」である。即ちこれらの話は、「魂が正しく自我と結びつく」ということを表しているのだそうだ。

「え?魂?なに?幽霊のこと?・・・恐~い!」
「自我って哲学の?デカルト?・・・難しそ!」
「そもそも結びつくって、どういう意味?・・・解んね!」

そう云わずにまぁ聞くがよい。今回はメルヘンの考察を進める前に、その前提としてのシュタイナーの人間観に眼を向けよう。これはメルヘン解釈のみならず、育児や、自分自身を知る上でも重要な観点となる。

シュタイナーは人間を構成する要素の一つを「Seele(ゼーレ)と呼び、高橋巌氏はこれを「魂」と日本語訳している。
また、別の要素を「das Ich (ダス・イヒ)と名付け、それは「自我」と訳されている。

日本のシュタイナー本では概ねこの訳を踏襲しているようだが、それらを分かり易く表現しようという意図で、西川隆範氏は「Seele」(厳密には、Seeleの活動の場であるアストラル体)を「こころ」と訳し、「das Ich」の訳語の方に「たましい」を充てている。つまり、「心」とは、感情を伴う自分、「魂」は「大和魂」や「主婦魂」というように、自分の奥の、血をたぎらせる、自分の本質的な存在の表現として、これらの訳語を充てたと思われる。より身近に感じられる訳だと思う。
ただ、前記の様に、従来「Seele」に「魂」の訳語が充てられている為、いささかややこしいのが残念である。

更に分かり易い訳もある。志賀くにみつ氏は、「自分」という存在を、「日常で忙しい自分」「永遠性を求める自分/本当の自分」と表現している。
おそらく前者が「Seele (魂)」、後者が「das Ich (自我)」を指しているのではないかと思われる。
日常の喜怒哀楽の感情の中で生きているのが「日常で忙しい自分(魂)」で、その奥に輝く存在が、「永遠性を求める自分/本当の自分(自我)」なのだ。

昔のマンガで、心の中に天使と悪魔が現れる表現がある。例えば、主人公が財布を拾った場面で、

「おまわりさんに届けるのよ!」と、天使。

「誰も見てねェ、貰っとけ!」と、悪魔。

「どうしよう~!?」と、両者の間で葛藤する主人公。

誰でもこれに似た経験はあるのではないだろうか。私の解釈ではこうだ。

主人公=「Seele (魂)」

自分の中の天使=「das Ich (自我)」

因みに悪魔は「感情体(アストラル体)の低次の部分」だ。
主人公が天使の声に従って、財布を交番に届けたなら、それは「魂が自我に結びついた」と云えるかもしれない。

また、大分前に「自分探しの旅」なるものが流行った。これは文字通りにとらえると、非常に矛盾した言葉になる。

「オマエを探してるオマエは一体誰なんだ?」

って話である。まるで落語の「粗忽長屋」、「抱かれてるの(死体)は確かに俺だが、抱いてる俺は誰なんだろう?」みたいなものだ。

だが、この「自分探し」なるものを、上記の視点で分けてみると、こう解釈出来る。

「探している自分」=「Seele」
「日常で忙しい自分」少女・姫

「探されている自分」=「das Ich」
「永遠性を求める自分/本当の自分」自我王子様

魂=少女・姫、自我=王子様の関連等については今後更に考察を深めるとして・・・。

この文脈でいけば、「少女または姫が、苦難の果てに王子様または王様と結ばれる」というメルヘンは、

「自分探しの旅」ってこと!?

うわぁ・・・オノレで展開しつつもこうまとめると、一気に安っぽくなるな・・・。



参考文献
「テオゾフィー 神智学」ルドルフ・シュタイナー著/訳:松浦賢(柏書房)
「ベーシック・シュタイナー 人智学エッセンス」ルドルフ・シュタイナー著/編訳:西川隆範、
撰述:渋沢比呂呼(イザラ書房)
「はじめてのシュタイナー~人生のヒント~」志賀くにみつ著(小学館スクウェア)


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本当は人智学的なグリム童話

これまでシュタイナーや人智学に関する記事を綴ってきたが、私自身の勉強不足による誤謬もいくつか犯してきた。
その一つが、「メルヘン」についての認識不足である。
幼児や低学年の子供にはメルヘンが重要と聞き、私も娘・ぴーぽこ(仮名)にメルヘンの読み聞かせをし、それについての記事も書いたのだが、当時私が読み聞かせていたものは、「メルヘン」ではなく「民話」だったのである。
いや、それもそれで悪くはないのだが、シュタイナーの云う「メルヘンの作用」とは違うものなのだ。

ここで改めて「メルヘン」とは何ぞや?「民話」とはどう違うのか?ということを明らかにしておきたい。

「民話」が概ね、「こんな不思議な事があったそうな」という、ある意味都市伝説的な性格を持っているのに対し、「メルヘン」は人間の根源的叡智を汲み取って成立した物語である、という事である。
無論一般的に「民話」にカテゴライズされている話の中にも、意識的であれ無意識にであれ、根源的叡智が含まれているものも多々あり、それらは人智学的に「メルヘン」と呼んでも良いだろう。

逆に、通常「メルヘン」と呼ばれているものの中に(特に『創作メルヘン』)必ずしも根源的叡智が含まれているとは限らない。

では、そも、「根源的叡智」とは何か。
・・・って、説明が難しいから、その比喩として「メルヘン」が誕生したとも云える。

シュタイナーは「メルヘン」を悟性的に解釈することは無意味だ、と述べている。それではメルヘンが持つ生命的なイメージには近付けないのだろう。そこで彼は、人智学の観点からメルヘンにアプローチしている。

ともかく、日本や世界の昔話の中にはそれら根源的叡智が含まれているものが多いが、特に「根源的叡智の宝物殿」とも云えるものが、各国に伝わっている神話、そして「グリム童話」なのである。

「グリム童話」は云うまでもなく、グリム兄弟が創作した話ではなく、昔から伝わる話を編纂したものである。それゆえシャルル・ペローの童話と被る話も多々あるが、ペローは編纂するにあたり、自分なりの脚色を加えている。
例えばペローの「サンドリヨン(シンデレラ)」は、二人の姉を許し、皆幸せになっている。個人的には、こうしたサンドリヨンの慈悲深さは好きなのだが、物語の本質からすると、やはりグリム版「灰かぶり」のように、二人の姉は小鳥に両目を潰されて終わるのが自然であろう。

これまでも繰り返し述べたが、子供はこうした場面を、大人が考えるような残酷な描写としては捉えない。

以前、「本当は恐ろしいグリム童話」という本が流行り、それに乗って同様の、「本当は残酷な~」やら「エロティックな~」等と冠されたグリム童話シリーズが、雨後の筍の如くに登場した。グリム童話に飽き足らず、日本昔話やギリシャ神話等もこうした「本当は~」シリーズの対象になった。
が、こうしたシリーズの多くは、神話や昔話の残酷な場面を針小棒大に脚色したものである様だ。(少なくとも私が目を通したものに関しては、全てその類だった)

そんな脚色など加えずとも、グリム童話は話によっては十分怖い。「名づけ親さん」や「トルーデおばさん」などは安っぽい怪談よりもよっぽど怖いし、「どろぼうのおむこさん」など、実写版の映画にでもしようものなら、ちょいとエロい、B級スプラッタ・ホラーになりかねない。

が、こうした話を、寝る前にぴーぽこに読み聞かせても、怖がったり、悪夢にうなされたり、という事は一度も無い。子供はその場面の残酷さではなく、その背後の根源的叡智を、無意識的に受け取るからである。
ただ、大人がこうした場面を、情感たっぷりにおどろおどろしい声音で読んだり、大人自身が本気で怖がりつつ読んだりしたら、子供も怖がることはあるだろう。
また、テレビ等のメディアに、早くから馴染みすぎた子供も、怖がる可能性があるかも知れない。

では、そもそも何故グリム童話には、子供に聞かせるには躊躇してしまうような描写が散見されるのか。
それは元来、これらの話が成立した中世では、子供向けの話ではなく、吟遊詩人などが民衆つまり大人を相手に語っていた話だったからである。
根源的叡智を、民衆に向けて、比喩を通して創られた話を、後世、グリム兄弟が編纂したというわけだ。
だから、一見グロテスクな場面にも、それなりの意味が含まれている場合が多いのだ。そこだけ切り取って、拡大解釈を加えれば、「本当は残酷だ」とも云えようが、実のところ「本当は人智学的」と云っても過言ではないのだ。

今後、シュタイナー自身が語ったメルヘン論や、ヨハネス・シュナイダーの「メルヘンの世界観」、また、学校の風姿花伝先生(仮名)の講義で学んだことを基に、グリム童話を中心に色々なメルヘンについて考察してゆきたい。

取り敢えず今回は、話の流れから、「灰かぶり」の姉達について少し述べよう。
二人の姉は、父からの土産に、一人は綺麗なドレスを、もう一人は宝石を望む。
この場合、ドレスは耽美的な欲、宝石は功利的な欲を象徴しているのだそうだ。それらの欲の作用を、シュタイナーは悪魔の名を用いて、前者を「ルツィフェル(ルシファー)的」、後者を「アーリマン的」と呼んでいる。

そして彼女等は、王子が差し出した手がかりの金の靴(実際はガラスの靴ではない)を履く為、母の助言に従って一人はつま先を、もう一人はかかとを切り落とすのだ。
足は人智学では「意思」の要素である。
母の「お妃になれば、もう足で歩かなくてもいいのだから、つま先(かかと)ぐらい切ってしまいなさい」という助言に従って足の一部を切り落とすというのは、「意思」を放棄した、ということだそうだ。

姉達は、最後に、鳥に目玉をくり抜かれてしまう。これは、悪魔的な欲望に浸り、意思を放棄した人間がどうなるのかを暗示しているのだそうだ。無論、物理的に目が見えなくなるという事ではなく、心の状態の比喩である。
だから、姉を許す事でサンドリヨンの慈愛の深さを表現したペロー版も私は好きだが、人智学の観点からすると、グリム版の方が根源的叡智を表現していると云えよう。

幼い子供は、根源的叡智を、理屈ではなくイメージを通して心の奥深くに沈潜させるので、小さいお子さん(概ね3歳~8歳)をお持ちの方は、寝る前にグリム童話の読み聞かせなどをしてあげると良いだろう。特に入学前のお子さんには、同じ話を一ヶ月繰り返して語り聞かせる事をお勧めする。

さて、どうでも良い事だが、我が家のレインボー・セキセイインコのレイニー(本名:ぴーぽこ命名)、ベタ馴れなのは良いが、肩に乗って人の唇をしつこくグルーミングしてくるのには辟易する。
いや、この程度なら可愛いものなのだ。最近はあまつさえ私の鼻梁に乗っかって来て、その嘴で私のまぶたのグルーミングに及ぶのだ。狙いは何だ?私の目玉か?
・・・灰かぶりの姉達の恐怖感が、少し解った。


参考文献
「メルヘン論」ルドルフ・シュタイナー著/訳:高橋 弘子(水声社)
「メルヘンの世界観」ヨハネス・W・シュナイダー/訳:高橋明男(水声社)



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