シュタイナーの学び

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二年生のズルさと「ライネケ狐」

別のブログにて、「二年生と動物寓話」について、記事にした。

シュタイナー教育において、子どもの中に「ズルさ」が生じる二年生頃、ズルい動物が沢山登場する動物寓話に取り組む。詳細は上記ブログ記事に記しているので、興味がある方は、そちらを参照頂きたい。

娘・ぴーぽこ(仮名)が通うシュタイナー学校では、その題材として、ゲーテの「きつねのライネケ」をよく扱う。

担任の先生が読み聞かせたり、劇をしたりと、クラスによって工夫して取り組んでいる。そうして子どもたちは、ライネケや他の登場人物ならぬ登場動物~狼のイーゼグリムや熊のブラウン、猫のヒンツェ、ウサギのランペ、そして王様ライオンのノーベルたちと一体化するのだ。

…こう書くと、愉快なライネケと仲間の動物たちの物語に思える。実際、学習発表会などでの「二年生・きつねのライネケの劇」では、毎年のようにその年の二年生が、それぞれのカラーの「ライネケ劇」を、愉快で楽しく演じているのだ。

が、この「きつねのライネケ」、大人が読むと「愉快」どころか「不快なライネケ」極まりない。妻・みほちなど、一通り読んだ挙句、

「何、この話…なんの教訓があるン?
との感想を漏らした程だ。まったくである。

なにしろ、「ズルさ」がこの取り組みのテーマなだけあって、きつねのライネケは、ズルい。
ただ、「ズルさ」つまり「ズル賢さ」も用いようで、例えば一休とんち話を読んでも、

「一休さん、ズル~~~い!!」
などとは思わないだろう。おはぎや水あめを盗み食いしといて、頓知でもってお咎め無しなのである。ズルい小坊主だ。
が、彼の場合、「ズルさ」を「頓知」に昇華しているから、小気味が良いのだ。

一方、ライネケ狐はというと。彼の行った悪行の数々を羅列しよう。

*熊のブラウンを騙し、ブラウンは顔の皮が剥がれる。
*猫のヒンツェを騙し、ヒンツェは片目を失う。
*カラスの夫婦・メルケナウとシャルフェネベを騙し、妻のシャルフェネベを殺害、食べてしまう。
*ウサギのランペを殺害、首だけ残し、食べてしまう。
*ランペの首を王様ライオンのノーベルに送りつけ、その罪を司祭の羊・ベリーンに被せる。ベリーンはこの冤罪の為、死刑となる。
*狼のイーゼグリムの妻・ギーレムントを騙し、強姦。


尤も、ギーレムントへの陵辱は、子ども向けの翻訳本には「ちょっかい」程度に表現されているが、ゲーテの原文訳の方では、明らかにそれを行っている。
他にも枚挙に暇なく、殊に宿敵・イーゼグリムに対してはお互い何度も泥仕合を演じた挙句、最後の決闘で、ズルい手口で目玉と金玉を潰して勝利する。(金玉のくだりは、うちで読んだ子ども向け訳では、流石に割愛されていた)

かくて悪行の限りを尽くしたライネケは、持ち前のズルさで全て切り抜け、王の信頼を勝ち取り、優遇されたのであった。で、世の中なんて、こんなもんでしょう的な、締め。

・・・この話、なんだろう?

普通の流れだったら、ライネケは最後に懲らしめられて終わる、それが物語のバランスというものだ。これがもし現在の連載マンガとかで、最終回がこんな終わり方だったら、ゲーテは即、巨大掲示板で袋叩きであろう。

実はこの話、ゲーテのオリジナルではない。
・・・パクリ?それはそれで、今だったらゲーテは即、巨大掲示板で袋叩きであろう。
いや、「パクリ」とも違う。ヨーロッパでは中世頃から親しまれており、何度も再話されている動物叙事詩「狐物語」を、ゲーテが再構築したものなのだ。
元来は、おそらくグリム童話と同様、根源的叡智から汲み取られた物語だったのだろう。

ゲーテはこの物語の終わりに、このように述べている。

「作者は真実と寓話を織りまぜた
それは諸子が悪と善と分かち、知恵のねうちを知るよう
~中略~日ごとに教えを受けるようとの老婆心に外ならぬ」
(訳:板倉鞆音 人文書院「ゲーテ全集8」より)

ともあれ、この物語は悟性的に解釈するべきものではないだろう。グリム童話などのメルヘンと同様、この世界に浸り、内から湧き出ずる感情を大事にすれば良いのではないだろうか。
子どもへの読み聞かせも同様、残酷な場面もあるし、最後に悪が勝つという構図ではあるが、子どもはこの物語の奥の、根源的叡智に触れる筈である。

因みに私個人の感想としては、王・ノーベルが遠山の金さんだったら良かったのに、と思う。講談やドラマの金さんは、自らも遊び人であった過去を持つ為、悪人のズルい手口にも通暁している。
と云うか、金さん自身、大立ち回りで悪人を捕らえさせているのだから、いわば「別件逮捕」である。金公のやり口も十分ズルいではないか。

だが、講談の金さんの姿は、シュタイナー流に云えば、「地上界でアーリマン、ルツィフェルに影響された魂が、自らのアストラル体を浄化し、再び赤い薔薇の花のようになった」と映る。

人間が獲得した「ズルさ」とどう向き合うか、そもそも「ズルさ」とはどのような力か?
そうしたことを鑑みて、子どもから湧き上がる「ズルさ」に向き合うと良いのではないだろうか。

娘・ぴーぽこが二年生当時、「ライネケ」の登場動物の中で誰が好きかを聞いてみた。
動物としては猫やウサギが好きだから、おおかたヒンツェかランペあたりかと思いきや、以外に長考している。曰く、

「う~~~~ん・・・ランペは食べられちゃうしなぁ・・・ヒンツェは片目を潰されるしなぁ・・・」

いやいや、誰が好きかを聞いただけですが。流石に子どものメルヘンと一体化する力の強さを感じた。
別段、オマエが取って食われるわけでも、目を潰されるわけでもないのに。


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ルビコン目前雛祭り

我が家の桃の節句では、「雛人形を飾る」のではない。
「お雛様がやって来る」のである。
娘・ぴーぽこ(仮名)が幼稚園児だった頃。ぴーぽこが幼稚園に行っている間に、雛人形を設置する。帰宅したぴーぽこは、それを見て、

「今年もお雛様が来てくれた」

と、喜んだものだ。
そして桃の節句が過ぎたある日、ぴーぽこの留守中に雛人形を撤収する。
お客様として我が家に滞在してくれていたお雛様が、「おひなさまのくに」に帰って行ったのだ。

七歳までの子供は、周囲の世界と繋がりを持っている。そうした幼児期に、メルヘンの働きかけが重要であるとするのが、シュタイナー教育の特徴の一つであろう。

ゆっくりと目覚める子供達は、七歳以降もメルヘンの力が作用する。世界との繋がりが、まだ保たれているからだろう。

それが劇的に変化するのが、小三の九歳前後、シュタイナー教育で云う「ルビコン世代」である。
自分と世界との距離が出来るのだ。例えば両親に対して批判的になったり、教師に対して、尊敬と同時に客観的な視点を持つようになったりする。
「あんなに素直で可愛かったウチの子が、すっかり生意気になっちゃって・・・」
などという事態が起こるのが、概ねこのルビコン世代なのだ。

それまでメルヘンの世界とも繋がり、「こびとさん」を素直に信じていた子供達が、

「こびとさんなんて居ないよ!」

と云い出すようになるのも、この世代の特徴の一つだ。何人かの上級生母に、お子さんがいつぐらいからこびとなどの存在を否定し出したかと聞いてみたところ、ほぼ例外無く帰って来た答えが「三年生」であった。

さて、八歳のぴーぽこにも、徐々にルビコンの陰が見え隠れするようになってきている。

今年の桃の節句も、ぴーぽこが学校に行っている間に雛人形を設置。まだメルヘンが作用しているぴーぽこは、依然、お雛様が「おひなさまのくに」から来ていると思っている。

が、ルビコン近し、である。

「うちに来てるお雛様も、作った物なのかなぁ?」

と云い出した。数日前、デパートでひな祭りフェアが開催されていたのだが、人形師の方が公開で雛人形を作っていた。それを見ていたぴーぽこ、何か思うところがあったのだろう、数日を経てこのような問いが出たのだ。
その問いに対する私の返答、

「さぁ・・・どうなんだろうねぇ・・・」

って、完全に受け身を取り損なってるっての!

ぴーぽこもそれ以上は何も云わなかったが、別にぴーぽこが生き続ける限り、未来永劫騙し通すつもりも無い。娘が二十歳を過ぎても父娘で「おひなさまのくに」云々といったやりとりを大真面目に繰り返していたら、それは不気味な一家でしかない。

この例の様に、子供の外的な体験と内的な成長により、子供はそれまでの世界から別の世界へと住処を変える様に見える。人類の祖が、楽園を後にする事と引き換えに、知恵や自由を獲得したという、有名な創世記のエピソードを連想してしまう。
ルビコン世代とは、大袈裟でなく、子供の内面にとって、このアダムとエヴァの楽園追放に匹敵する位の変化なのではないかと思える。

さて、今年の我が家、お雛様を迎えるに当たって、例年に無い問題が浮上していた。

それは、昨年より家族に加わったサザナミインコのるーたん(仮名)
セラフィー、オマエはコウモリか?
及び、ジャンボセキセイのしーたん(仮名)
シルフィー
の存在である。
一日数時間の放鳥タイム、目を離している間にお雛様を齧ったり、フンまみれにするであろうことは、火を見るより明らかだ。
そこで苦肉の策に出た。鳥達が小屋に入っている時は、普通に飾っておく。
ひなオープン
が、放鳥時には、周囲をぐるりと布で覆う。
ひなクローズド
もう、何だか得体の知れない空間である。

ルビコン目前のぴーぽこだが、まだ周囲の世界、インコ達とも繋がりを保っている。
放鳥の度にお雛様が隠れてしまうことにいささか不満気なぴーぽこ、こう提案してきた。

「そんなこと(布で覆う)しなくても、

 『たちいりきんし』

って書いて貼っておけばいいんだよ!」


ぴーぽこよ・・・残念なことには、オマエと違って鳥は字が読めないので、それはインコ対策にはなり得ないのだよ。
オマエ対策をしてどうする。

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廉価本「豊臣秀吉勇将録」(リイド社)に、「脇坂安治」「播磨軍記」の2編収録。
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インコの様に、育児

サザナミインコの「るーたん」(本名はセラフィー)が我が家の一員になってから、二ヶ月経つ。

セラフィ 005 @
詳しくは妻・みぽちのブログ「コトリマンガ。」

あるインコの飼い方の本によると、インコは歌ってあげると喜ぶ、特に歌にインコの名前を織り込んで歌うと、更に嬉しがるそうだ。

・・・なんですと?

早速試してみる。手乗りのるーたん、後頭部を掻いてやると気持ち良さそうに顔の羽毛を膨らます(インコが心地良い時の行動)
そこで、二年生の娘・ぴーぽこ(仮名)が、学校のリズムの時間に習った「ブルッキーのひつじ」の歌を歌ってみた。元は、

「♪みみのうしろをかいてやる こひつじはいった めぇめぇめぇ」

という歌詞。それを替え歌で、

「♪み~み~の~うしろ~を~ か~いてやる~
るーたんは~いった~ きゅー~きゅーきゅー」


と歌いつつ掻いてやっているうち、今ではこう歌うだけで顔の羽毛を膨らませ、頭を「掻いて」と云わんばかりに差し出すようになった。
「ただの条件反射」とも思えるが、時々甘えたい気分ではない時は、逃げる。この事からもパブロフの犬的な、単純な「条件反射」ではない事が分かる。

思えば、鳥は言語的な「歌」を獲得した生き物である。
美しい鳴き声は勿論歌のようだが、あまり美しくない声であっても、一定のリズムに則っている。つまり、音楽的と云える。

無論、虫や蛙の鳴き声も音楽的ではある。が、それは「言語的」ではない。
勿論「言語的」な一面もある。そうでなければ鳴く意味が無いからだ。
虫の言語は概ね2、3種類だ。縄張りを示す為や、餌場を知らせる為であるが、最も大きい理由は、「求愛」である。つまり彼等は、

「モテたいっす~、ヤリたいっす~」

という思いを歌に託しているのだ。・・・って、下世話過ぎるっての。彼等にとっては自らの遺伝子を残せるか残せないか、切実な問題なのだ。

蛙も主に「求愛」の為に鳴くが、「解除コール」というのもある。蛙なのに「帰るコール」じゃなくて「解除コール」って。
これは、あるオスが別のオスをメスと勘違いして抱き付いて来た時、

「俺は男だ!」

と、森田健作ばりに宣言する鳴き声の事だ。間違えた蛙は速やかに離れる。交尾が切実なのは蛙とて同様なので、間違っても「いいや、この際、お前の尻を貸せ」という事は起こり得ない。

これらが何故、厳密には「言語的」と云えないのかと云うと、虫にせよ蛙にせよ、鳴くのは基本的にオスだけだからだ。つまり一固体による一方的なアピールや通告であって、その種全体のコミュニケーションをとるものではないのだ。

その点、鳥は雌雄に関わらずに鳴く。また、虫や蛙の様な個的なアピールに加え、外的の襲来や点呼といった、仲間社会に向けての鳴き声を上げる種もあるし、喜怒哀楽を表現する種さえある。鳴き声によって、その種全体で意思を伝え合う。ここで、「言語的」要素が凝縮されたと云えるのではないか。

また、虫は、厳密には「鳴く」というより「鳴らす」のだ。その意味では「歌」というより楽器の「演奏」と云えよう。蛙は声帯と器官(喉袋や頬袋)を同時に使う。
鳥に至って、声帯を使い、呼吸と共に、人間のように「歌える」ようになった。

さて、最近オイリュトミー教師の風姿花伝先生(仮名)から、興味深い話を伺った。
低学年以下の子供には、歌うように話すとよい、との事。

・・・なんですと?・・・インコと同じ!?

だが、確かに思い当たる。例えばぴーぽこに、
「ちゃんと片付けてって云ったじゃん!」
等と感情的に注意したり、ましてや子供相手に説教しても不毛なだけであった。が、歌いつつ促したところ、お互いに良い結果が得られたことが、何度もあったからだ。

私:「♪ぴーぽこさん」

ぴ:「♪な~ぁ~に?」

私:「♪おっ片っ付け」

ぴ:「♪は~ぁ~い」

といった塩梅に。

風姿花伝先生によると、シュタイナー教育で云うところのルビコン世代、九歳頃までの子供は、こうした呼びかけに反応するそうだ。

何故か。

理由を書くと長くなるし、私自身人智学の門前の小僧風情、その理由を正しく把握しているかは疑問である。
ただ、上記のように、蛙や、一部の虫はリズミカルな音響を有している。鳥は、声帯の発達により歌うことを獲得し、それによってコミュニケーションのバリエーションを広げた。

人間はどうだっただろう。「言語」を獲得する前の人間は、どのようにして他者と意思の疎通をはかっていたのだろうか。この問いに、秘密が隠されているだろう。

実際、音楽やリズムは人間にとって心地良い。寝ぐずりで泣く赤子に、
「寝なさい、人間、特にあなたのような乳幼児には殊更に、睡眠が必要なのです」
と語ったところで、相手はまだ言葉を獲得していない赤ん坊、「はい、そうですか」と眠りはしない。
が、胸などを優しく、リズミカルに叩きつつ、子守唄を歌えばどうだろう。他の理由で泣いているのでない限り、やがて落ち着き、眠り出すだろう。

また、「歌うように話す」という風姿花伝先生の言葉で、思い出される事がある。ぴーぽこがかつて通っていたシュタイナー系幼稚園での事だ。
送り迎えや、親参加のイベント等で、度々目にした光景。

子供達が、ざわついている。さて、先生のお話が始まる。
そんな時、先生達は、決して大きくはない声・・・ざわついている子供達が、よく聴き取れるな、といった程度の声で、

「♪こっどもったち」

と、鳥がさえずるように歌いかける。すると、それまで銘々騒いでいた子供達が、一斉に

「♪は~ぁ~い」

と、先生に向き直り、静かに先生の言葉に耳を傾けるではないか。それも、訓練といった風ではなく、ごくごく自然に。
幼い子供にとっては、ただの「言語」よりリズムにのった言語~「歌」~の方が、浸透しやすいのであろう。

あるお父さんが、先生のこうしたやり方に感銘を受け、遊びに来た園児達にこれを試していた。大柄な彼は、子供達の相手をしつつ、渋い低音で、

「♪こっどもったちっ」

とやった。子供達は笑いつつ、からかう様に、

「♪云っわなっいよっ」

と答えた。
子供達が「♪は~ぁ~い」と答えなかったのは、付け焼刃だからでも、歌声が低音だからでもない。
そもそも、彼の試みは、成功を収めているのだ。
何故なら、当の子供達自身気付いていないのだろうが、

「♪云っわなっいよっ」

って、しっかりリズムに乗って返事してるっての。


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子供とおもちゃ(2)~ガラクタが育むもの~

前回も書いたが、シュタイナー教育において、理想的な玩具の条件はおおまかに云って、次の二点に集約される。

①・自然素材であること

②・極力シンプルであること


「自然素材」が良いというのは何となく分かるが、「シンプル」というのはどういう事だろうか。

娘・ぴーぽこ(仮名)の通うシュタイナー学校のオイリュトミー教師・キリギリス先生(仮名・ドイツ人)が、以前、こんな話をなさった。

当時、キリギリス先生はドイツのシュタイナー学校で教鞭を執っていた。その頃、日本の大手玩具メーカーの方々が、視察に来られたという。
なんでも「シュタイナー教育のおもちゃは、子供の想像力を育む」という噂を聞き、それがどんな玩具なのかを調査に来たのだそうだ。

彼等は薄桃色の布やカーテンに包まれた、幼児部の部屋に通された。見回しても玩具らしいものは見当たらない。
「おもちゃは何処ですか?」と訊ねる彼等に、「これがそうです」と示された物は。

流木や木片、石ころや貝殻等々・・・。見ようによっては、ガラクタの山

日本人玩具メーカーの方々は、失望して帰ったという。

何故、こうしたガラクタが、子供の想像力を養うのか。

ぴーぽこがシュタイナー系幼稚園に通っていた頃、幼稚園から五角形、将棋の駒形の木片を貰って来た事があった。小汚い、タダの木片である。それに、先生が描いてくれた、シンプルなうさぎさんの絵。

その日の入浴時、バスタブに木片を浮かべて喜ぶぴーぽこ。
彼女にとって、それは「うさぎさんが乗った舟」なのだ。
勿論、そこには帆や櫂も無ければ動力機関も客室も、操舵室も、何も無い。

いや、無いからこそ良いのだ。木片であるからこそ、子供のイメージで、どんな舟、船にもなり得る。
筏やヨットにもなるし、遊覧船や豪華客船、人間魚雷・回天にだってなるのだ。
・・・いやいや、回天は物騒だって、うさぎさん、玉砕覚悟だって。

ともかく、リアルな船の玩具では、それがリアルであればあるほど、そこに子供が想像力を働かせる余地は無い。
木片だからこそ、帆をイメージして帆船にしたり、煙突をイメージして蒸気船にしたり、様々に想像が広がるのだ。

また、シュタイナー教育ではお馴染みの、「ウォルドルフ人形」。

ウォルドルフ人形 001

画像から分かるように、顔にはシンプルな目と口がちょんちょんとあるだけである。そこには表情も無い。
それが為、子供はその時の心情によって、人形の中に様々な表情がイメージできる。
楽しい表情、悲しい表情、嬉しい表情・・・。

尤も、表情がある人形が「良くない」という訳ではない。子供が気に入って、愛着を持てるのが一番だ。
にこにこと優しい笑顔のお人形も、それはそれで良いものだ。ただ、そのお人形はいつも笑っており、子供の心情を反映しにくい、というだけの事だ。
無論笑顔にも、嘲り笑い、悲しみ堪えた泣き笑い、竹中直人の「笑いながら怒る人」など色々あるが、子供にはそんな微妙な機微は分からない。

ともかく、玩具はそれが不完全であればあるほど、子供の想像力、創造力が膨らむのだ。

因みに、画像のウォルドルフ人形は、妻・みぽちの手作り。

ここまで凝ったものではなくても、また上手な出来栄えではなくても、親が玩具を手作りするのも良いだろう。

私が幼少の砌、母がおもちゃを作ってくれたことがあった。
父の存命中は、「おもちゃ」といえば「買うもの」だったので、それを手作りしようというからには、父の入院中もしくは他界後の、経済的に恵まれていない頃のことかと思われる。

私の為に何かを作ってくれている母の姿が、妙に嬉しかった。針金を鉛筆に巻きつけ、バネを作る母の手元を眺めつつ、

(こうしたら針金がバネになるのかぁ・・・)
(・・・バネを使って、何が出来るんだろう・・・)


と、ワクワクした気持ちになった事を覚えている。

シュタイナー教育でも、親が子供の為に、ワクワクしながら何かに取り組むと、その気持ちは子供に伝わる、という。
欲しかったおもちゃを買って貰った時も勿論嬉しかったが、この時の記憶はまた格別な思い出として私の記憶に残っている。

前回の記事で、幼い私の心にトラウマを刻印してくれた母だが、同時にこうした宝のような思い出も、残してくれている。

こうして母が作ってくれたのは、ビックリ箱

ただ問題は、その製作工程の一部始終を見ていたので、

ちっともビックリしなかった、という事だ。



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子供とおもちゃ(1)~ゴミを土産に~

実に数年振りに、アシスタントの仕事に出向いて来た。
某・有名少女漫画家のスタジオで、私と妻・みぽちが初めて出会った場所だが、そんな思い出話はどうでもよい。

懐かしい顔や新しい顔、アシ仲間とお弁当を頂いている折、ふと思い立った。

「あの、食べ終わったら、皆が使ってる割り箸、貰ってもいい?」

「え!?」

一瞬、場が凍りついた様に感じたのは、私の気のせいか、否か。
いやいや、童貞中学生じゃあるまいし、女子の使用後の箸を舐めようというつもりは無い。

事情を説明すると、皆、快く割り箸を提供してくれた。
事情とは、こうだ。

二年生の娘・ぴーぽこ(仮名)、上級生の子達が割り箸鉄砲を作っているのに影響され、自分でも作ってみたくなった様子。
家の割り箸を持ち出し、

「これで作っていい?」

良かぁない。格別エコに熱心という程ではないが、それにしても新品の割り箸を使うなど、私が許しても、ケニアの環境保護活動家のワンガリ・マータイさんが

「モォ~ッタイナイ!」

と云って許さないだろう。

使い終わった割り箸を洗って、それで作りな、と話したところ、

「今日のご飯、割り箸を使いたい」

だ・か・ら!自宅で割り箸って、そんなワンガリ・マータイさんが

「モォ~ッタイナイ!」

と云いそうな事は出来ないっての!行楽に出かけたりした時に使った割り箸を云々と説明して、ようよう諦めさせた。
が、ただでさえ我々はイン・ドア夫婦。然もこの猛暑と多忙の中、お弁当持ってお出かけ、等という機会も無いまま、現在に至っている。

そこで、アシ仲間の使っている使用済み割り箸を貰い、洗って乾かし、それをぴーぽこにあげようと思ったのだ。

シュタイナー教育において、子供にとってどんな玩具が理想的か、詳細は次回に譲るが、大まかに云って次の2点に集約される。

①・自然素材であること

②・極力シンプルであること


極端に云って、ドングリやら小石等で十分、下手な知育玩具より余程想像力や感性が養われる。
大人にとってゴミ同然の物でも、子供にとっては宝である事も多々ある。
大人は、まずそれを理解する必要があるのではないだろうか。

私がぴーぽこと同い年ぐらいの頃、工作の本を読んだ。その中で、トイレットペーパーの芯を使った工作に、格別心惹かれた。
当時、田舎の我が家で使用されていたのは所謂ちり紙、便所紙。「トイレットペーパー」などハイカラですらあったので、その芯など手に入れるべくもなかった。

さて、当時病弱だった私、時折本土の病院に入院していたのだが、大分回復して点滴も外れたある日。自力でトイレに行って驚いた。

なんと、トイレが軽く改装され、トイレットペーパーが導入されていたのだ。

然も、隅にはトイレットペーパーの芯が五、六本、放置されているではないか。

お宝である。宝の山である。

私は宝を手にし、意気揚々と病室に帰りましたとさ。昔話なら、これで「めでたしめでたし、とっぺんぱらりのぷぅ」、である。
が、現実はそうはいかない。
「なんでそんなものを拾って来るのか」
と、母に叱られた。

こちらにしてみれば、滅多に手に入らないお宝、憧れの工作材料である。
が、母にしてみればただのゴミ、然も便所から拾って来るなど言語道断、といったところだろう。

当時の私は何故怒られているのか理解出来ぬまま、折角のお宝を悉く取り上げられた。
それをトイレに戻しに行った母、病室に帰って、再度怒り出す。
通路途中の休憩スペースでくつろいでいたオバさん二人、お宝いやさ大人にとっては汚いゴミを嬉しそうに持ち帰る私の姿を見ており、「変な子供だ」と笑い合っていたそうだ。
「何故そんな恥ずかしい事をするのか、世間に笑われるような事をするな」と、二度怒られた。

こちらは工作をしたかっただけである。
無論、大人にとってのゴミが、子供にとっての玩具、お宝になる事が有り得るとはいえ、その素材の安全性や衛生面に、大人は気を配り、適切に指導する必要はあるだろう。

が、この様に、親に頭ごなしに怒られた事や、「世間」とやらにあざ笑われた経験は、子供にとって不条理な事実として認識され、それらが積み重なると「大人」や「世間」といったものが尊敬出来なくなるばかりか、むしろ軽蔑するようになる。
これは私の経験から得た見解に過ぎないが、シュタイナー教育においても同じような内容が述べられている。

・・・って、シュタイナー教育における「玩具」について述べるつもりが、いつの間にか自分のトラウマ話になってるっての。

さて、スタジオから大量の使用済み割り箸を持ち帰った私、

「ぴーぽこさん、実はお土産があるのですよ」

「え!?なになに?」

期待に眼を輝かせているぴーぽこを見て、(しまった・・・)と思う私。「お土産」などと云って、過度な期待をさせてしまったのではないか。

お土産、割り箸。然も使用済みって。

ゴミじゃん。

差し出されたゴミいやさ割り箸を見たぴーぽこ、一瞬不審そうな表情。

「??・・・何??」

が、すぐに表情に喜色が浮かび、

「・・・割り箸!?・・・あ!割り箸鉄砲!! やったぁ!

・・・安上がりな娘だな。



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