シュタイナー学校の子供たち

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検索ワードに答えるシュタイナー教育

ブログのサービスの中に、「アクセス解析」というものがある。訪問者がどのように、どれぐらい来訪したか等を分析する機能だが、来訪者がどんな検索ワードで辿り着いたかも知ることができるのだ。
この、「検索キーワード」という機能、何が便利といって、訪問者の興味がどこにあるか、その傾向が分かるのだ。

例えば「シュタイナー 元素霊」というキーワードが時折見受けられるが、このワードで検索した方は、シュタイナーが妖精についてどう述べているのかに関心を持っていると推測できる。
このように、たまに検索キーワード解析を見ては、来訪者がシュタイナーの特にどのような点に関心を抱いているかに思いを馳せることがある。
そこで今回は、当ブログの検索キーワードの中で、多いものや印象的なものを取り上げ、それらについて述べてみたい。

では早速いってみましょう(FMのDJっぽくない?)、最初の検索キーワード!

「カンガルー金玉袋はいくら」

ハウマッチ?・・・知らねーよ!!
恐らくオーストラリアの民芸品の価格を調べたかったのだろうが、カンガルーの金玉袋にまつわる記事など、ただの一度も書いたことがない。
このように、時折「何故にこのキーワードで?」というものが紛れ込んでいることが、ままある。

では、気を取り直して、次のキーワードはこちら。

「狸の金玉」

・・・だから、記事にしてないって!
だがこれはまぁ、かつて娘が通うシュタイナー学校に「狸」が出た記事を書いたし、当ブログは無駄に「金玉」とか連発することがあるので、このワードにひっかかるのは、まぁ、頷ける。
ただ、この訪問者様が、「狸の金玉」の何が知りたかったのかは謎だし、当ブログが彼の期待には一切応えられていなかったであろうことは確かだ。

もう、そういうんじゃなくて、シュタイナー関連のキーワード。

「シュタイナー学校 卒業生」

そうそう、こういうの。これはかなり関心度が高く、他にもこれに「進路」や「進学率」等のワードが付いていることもある。
これについて述べる前に、こんな検索ワードを紹介しておこう。

「シュタイナー 7歳以降学力上がる?」

もはや質問である。なので、答えよう、この訪問者が再度当ブログを閲覧するかどうかは別として。

この質問の背景は、シュタイナー教育が早期教育とは逆の方法を行っていることにあるだろう。7歳までの子供には知育的なものは与えず、文字すらも極力就学時まで覚えさせないようにしている。
きょうび就学時には読み書きが出来て当然という中、シュタイナー教育で育った子供は6歳で読み書き出来ないというのでは、この教育法に対して疑問が湧くのも尤もである。
尚且つヨーロッパではシュタイナー学校は既にメジャーで、ドイツの大学進学率は公立学校を凌ぐ。当然、幼児教育はのんびりでも、就学後、急激に学力が上がる、魔法のような教育法では、との期待も高まろう。

ここで、娘をシュタイナー学校に通わせている現場の声として、この質問に答えよう。

「シュタイナー 7歳以降学力上がる?」

「無理!」

いや、長い目で見れば、YES、上がります!と答えられるが、この質問からは「就学後、すぐに」というニュアンスが感じられる。
その意味では全然、正直云って「学力」という点では、公立や私立学校のお子さんの方が、よっぽど上だろう。

例えば我が娘・ぴーぽこ(仮名)、四年生にもなって掛け算がいくぶん怪しい。九九をきっちり暗記している公立の二年生の生徒のほうが、掛け算の学力は上である。

また、「考える」という力においても、シュタイナー学校の低学年の生徒は、ゆったりとしている。それは、シュタイナー教育が、特に低学年において、「思考」に強く働きかけることのないように行われるからである。
やや専門的に云えば、この教育は、まず「感情」から入り、「思考」に偏ることなく、特に低学年には「意志」の要素に働きかけるのだ。

例えば、「これはヒマワリというキク科の一年草で、夏に花を咲かせる…」とは教えない。

「お日さまがじりじりと照り付けるころに咲くお花があってね。それは、地面からまっすぐに伸びて、お日さまみたいにまぁるいお顔をしてるんだ。お日さまの光みたいな黄色い花びらを、お顔のまわりに、ひらひらとたくさんつけててね。いつもお日さまにお顔を向けてるんだ。きっと、お日さまのことが大好きなんだ」

これは私が今連ねてみたので、例として適切かどうかは疑問だが、ともかく、このように「イメージ」を通して教育が行われるのだ。
こんな調子でやっているので、就学したからといって、すぐに分かり易い意味での学力が付く訳ではない。

が、ぴーぽこや学校の生徒達を見ていて感じるのは、学ぶことに対して、とても意欲的で、それに喜びを感じている、ということだ。

学力云々がある程度の結果として見え始めるのは、高等部以降だろう。在学中に高校卒業程度の認定試験に合格する程になっているのだ。

それを踏まえ、改めて

「シュタイナー学校 卒業生」

について述べる。日本ではまだシュタイナー学校の歴史が浅く、まだ卒業生の全体数は少ない。我がシュタイナー学校にしても、まだ卒業生は五人。
うち、二人は海外留学、三人は有名大学進学。大学もネームバリューなどではなく、「自分のやりたい事が実現出来そうな大学」という視点で選び、合格したのだ。

今回は、飽くまで「シュタイナー教育なんかで本当に学力が付くのか?」という疑問をも踏まえての記事なので、学力や進学にやや重きを置いて述べはしたが、私自身は「進学率」は殆んど重視していない。

高橋巌氏が例に出しておられたが、ドイツのシュタイナー学校の生徒の中には、大学進学に十分な学力を備えながら、

「海が好きだから」

と、進学せずに船乗りになるような者はザラにいるらしい。
世間的な「進学率」などに左右されず、自分の道を進む。それが「自由」への一歩でもあるし、日本のシュタイナー学校の卒業生も、進学であれ就職であれ、くだらないしがらみに足を取られることなく歩んで欲しいと思う。

この「アクセス解析・検索キーワード」は、今後も興味深いものがあったら取り上げて、詳しく述べて行こうと思う。
では、今回最後のキーワード。

「きのう父ちゃんと寝たときに」

猥歌です!
実はこの検索ワード、意外と多い。これまで何度か下ネタとしてこの歌を引用していたからひっかかったのであろう。全歌詞を知りたいのだろうから、ここに紹介しておく。

1番:きのう父ちゃんと寝たときに
   へんなところに芋がある
   父ちゃんこの芋 なんの芋?
   坊やよく聞けこの芋は
   オマエを作ったタネ芋だ


2番:きのう母ちゃんと寝たときに
   へんなところに・・・

・・・シュタイナー教育及び人智学のブログだっての!猥歌の紹介してる場合じゃないって。






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点子ちゃんとアントン:完全版

冬休みのある日、学校のホールにて、八年生卒業劇・「点子ちゃんとアントン」の再演が行われた。
何故「再演」なのかというと、公会堂を借りて行われた本公演では、インフルエンザによる学級閉鎖の為、観劇できない学年があったからだ。
それどころか、当の八年生の生徒の一人も、インフルエンザで欠席を余儀なくされたのだ。

公演そのものが危ぶまれたが、生徒達の工夫によって、この困難な状況は打開された。
数人の生徒が、配役をスライドさせることで、欠けた役を補ったのだ。
自分の役以外の台詞や演技も把握していなければ、こんな離れ業は演じられまい。生徒達がいかにして物事に取り組んでいるか、その姿勢が垣間見えるではないか。

ともかく大盛況に幕を閉じた本公演だったが、改めて全員参加という形で、この日の再演へと漕ぎ着けた訳である。

感想?そんな、感想なんざ冷静に書けませんっての。内輪の生徒自慢にしかならないし。
だが、あの日の感動を記しておきたいので、今回は内輪の生徒自慢にお付き合い頂く。
例によって勝手に仮名を付けさせて頂いたので、もし直接の関係者が御覧になったなら、そこは御容赦願いたい。

「点子ちゃんとアントン」は、ドイツのエーリヒ・ケストナーの作品。

出ずっぱりの点子ちゃんは、ポンパドールさんとテディさんが、場面によって交互に演じるという、「二人一役」方式。二人とも、物語の天真爛漫な点子ちゃんがそのまま飛び出てきたのではないかと思えるほど、本当に「点子ちゃん」であった。それぞれがそれぞれの「点子ちゃん」を演じているのに、全体を通して見ると二人で一役とは思えない程の違和感の無さ。
因みに本公演では彼女達が、一人は欠席した生徒の役をやり、もう一人がずっと点子ちゃんの役をやり続けることで、冒頭で述べた危機を回避したのである。
再演では、出番が無い時に、テディさんがフルート、ポンパドールさんがヴァイオリンを演奏するなど、三面六臂の活躍であった。

点子ちゃんの父・ポッゲ社長は、大人の複雑な事情を、最も多く抱えている役である。それ故に最も難しい役ではないだろうか。大人が何か大事な事に気付き、自らを成長させる。多くの大人にとって、それは困難な事だ。
そんな成長する大人の姿を、エクスキャリバーくんは見事に演じ、表現していた。前半のどこか鬱屈した感じと、後半の威厳、優しさ。ポッゲ社長の内面の変化が伝わるようだった。
個人的には、ポッゲ社長が点子ちゃん、アントンと一緒にシュークリームを食べ、追いかけっこをする場面に涙した。

セレブで、家庭より社交にうつつをぬかす、ヒステリックなポッゲ夫人、つまり点子ちゃんの母。この強烈な役所を、ナッツさんは圧倒的な存在感をもって演じた。原作のポッゲ夫人を凌ぐ勢いの個性、最後に夫に見せたしおらしさ。悪役ではないが、嫌味な役、でもどこか憎めない。ある意味、最も演じ甲斐のある役ではなかろうか。
出番が無いシーンでは、ナッツさんはピアノやヴァイオリン演奏でも実力を発揮していた。

優しく正義感の強い少年・アントン。これを演じたエントくんも、点子ちゃん同様、物語から飛び出してきたようだった。お母さんを傷付けてしまい、後悔に苛まれる場面など、完全に感情移入して観てしまった。その後、お母さんとの涙の和解の場面など、観ているこっちも貰い泣き。涙を流すなと云うほうが無理だっての!
点子ちゃんとのやりとりも、きっとケストナーがイメージしていた若者は、まさにこんな風だったのではないか、と思われた。

セルキーさんは、アントンの母・ガスト夫人と、点子ちゃんの養育係・アンダハトを一人二役で演じた。優しく、病弱で憂鬱質なガスト夫人。無口で「みょうちきりん」な不思議さんのアンダハト嬢。個性は違うものの、いずれも明るいタイプではない二役を演じ分けるのは大したものだ。特にガスト夫人の子を思う様は、私自身の母を重ね合わせて観てしまった。
また、チョイ役で演じたお巡りさんも、光彩を放っていた。

同じく一人二役で、クレッパーバインと悪魔のローベルトを演じたスワロウくんも、難しい役所だったろう。なにしろ二役とも悪役なので、演技を工夫しないと「悪役」という括りで同じ人物と間違われてしまうかも知れないからだ。無頼な悪者クレッパーバイン、陰湿な悪者ローベルトと、それぞれの悪さが伝わってきたが、憎々しい程の悪役とまではいかない。が、これは彼自身の人柄が滲み出てのことだから、むしろ誇るべきであろう。
また、両者とも殴られる場面があるが、殴られっぷりも圧巻であった。

ペルセポネさんが演じたポッゲ家のメイド・太っちょのベルタ。口さがなく文句を云うが愛嬌者のベルタ役も、演じ甲斐のある役所だろう。出番が少ない割には出ると場が沸くという、オイシイ役でもある。実際、実に良い味を出しており、アンダハト嬢との罵詈雑言の応酬や、お巡りさんとのタンゴなど、観終わってからも、娘・ぴーぽこと一緒に何度も思い出しては笑った。三年生のぴーぽこのクラスでは、特にベルタがこん棒を振るってローベルトを殴打する場面が印象的だったようだ。

劇中では、ケストナー自身をナレーターとして登場させることで、ナレーション、原作の「まえがき」や、各章ごとに記されたケストナーの考えなどを語らせていた。
男装してケストナー役を演じたカープさんは、まさにケストナーの代弁者。もはやケストナーを演じているというより、ケストナーが彼女を通して語っているのではないか、と疑うほど、あたかもイタコの口うつし。特にラストの、

「この地上は、もう一度、天国になれるはずだ。できないことなんて、ないんだ」

との力強い語り口調は、我々の胸に熱いものをこみ上げさせるに十分であった。

そして、全員による合唱。

・・・泣くって。

いや、泣ける話じゃないんだけど。むしろ大団円で、スカッとする話なんだけど。
合唱の間、そこここで感動に咽ぶ親達の姿が。

シュタイナー学校では、節目の学年で演劇に取り組む。八年生は、来年度から「高等部」に進学するのだ。
皆、素晴らしい演技を見せてくれたが、「上手く演じる」ということが目的ではない。
クラス全員で一緒に何かに取り組むことや、「他人」になり、演じること。それらを通して、生徒達は多くのものを得る。我々が観たのは「結果」としての公演だが、そこに至るまでに生徒達一人一人が通った「過程」、それこそが生徒達にとって宝であり、我々は演劇の物語そのものやメッセージに加え、生徒達の見えざる「宝」の輝きを感じて、感動するのだろう。

尚、昨年度卒業劇を経験したある生徒さんも、今回の劇について記事を書いておられる。「八年生で劇に取り組む」という事が、御自身の体験も含めて活写されているので、是非こちらも御一読をお勧めする。

   八年生の卒業劇

さて、再演が終わって数日後の昼日中、ママ友のチョウゲンボウさん(仮名)より電話が。曰く、
「八年生の劇の歌って、どんなだったっけ?」
合唱した歌は、”The Rhythm of Life”という曲に、担任のフローレン先生(仮名)が詩をつけたものだ。
チョウゲンボウさんのクラスは学級閉鎖の為、再演で初めて観て感動した模様。二度観ている私は、歌を少しは覚えているのではないかと思い、電話したものらしい。
うろ覚えながら、「こんな感じじゃなかった?」と、受話器越しに歌ってみる。
だが、何故、今それを訊きたいのか。曰く、

「今、息子と木に登ってるんだけど、気持ちが良いから息子とあの歌を歌いたくなって」

してみると、何か。オマエは今、木の枝に座って、携帯でかけてきているのか?

「そうなの」

牧歌的にも程がある。



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最後の取り組み

「最後の取り組み」って、あたかも引退力士の千秋楽の様だが、そうではない。

この度、娘が通うシュタイナー学校から、初の卒業生が出る。彼ら十二年生の、卒業前の最後の大きな取り組みとして、彼らによる演劇の発表会が行われたのだ。

この記事を書くにあたり、パンフレットに書かれた十二年生担任・風姿花伝先生(仮名)の文章を一部抜粋して良いか伺ったところ、快諾下さった挙句、
「彼等にインタビューしますか?」
との御提案。流石にこんな得体の知れないブログの為にそこまでは、と気が引けたが、折角の好機、お言葉に甘えさせて頂く事に。

さて、劇のタイトルは「偽のプリマドンナ」、ボイエルレ作の、ウィーンの民衆劇である。
粗筋は、老いた権力者がのさばる中世・ウィーンで、俳優の若者がプリマドンナに変装して権力者たちを翻弄し、軍司令官と結婚させられかけていた恋人を取り戻すという、痛快な物語。

結構長い劇で、途中幕が閉じられたと思うや、十二年生・母のジーナさん(仮名)が壇上に上がり、

「10分間休憩です」

って、「七人の侍」か!?

ともかく、それ程の大作を、彼等は演じきった。

シュタイナー学校では、高等部前の八年生でも、区切りとして演劇の発表を行う。その時と今回との違いを、生徒達に聞いてみた。要約すると、以下の様な意見。

・八年生の頃は照れがあったが、今回はのびのびと出来た。
・前は自分の台詞を云うだけで精一杯だったが、今回は相手の演者との間の取り方なども意識しつつ演じられた。
・台詞を云いながらの所作が、一連の流れの中で、自然に表現出来た。

八年生といえば思春期の最中。やっと「アストラル体」が自由な活動を始める頃である。
自分の内に向いていた視点が、「自我」が目覚める十二年生において、自分や他者、舞台の間などを客観的視点で捉えるようになった、と云えるのではないだろうか。

また、八年生の頃は学校の、決して広くはないホールが舞台だったが、今回は市民ホールを借りての本格的な舞台、それによって落ち着いて演じられたとの意見も。
生徒達同様、学校そのものも成長しているとの実感も得られたのではないだろうか。

高等部から編入のステッグくん(仮名)は、演劇は初めてで、それだけに特に意欲的だった様子。主演の、「女装する俳優」という難しい役を見事に演じた。演出のアカヒメクマタカ先生(仮名)による、「女性より女性らしく!」との演技指導を特に意識したそうだ。

また、逆に「男装する女性」という、これも難しい役を演じてのけたバジルさん、一人二役に挑戦し、見事に演じ分けたリコリスさん、本人とは真逆のキャラを違和感無く表現した白波くん、発声や振り付けなどにこだわりの演技を見せたロッキーチャックくん(いずれも仮名)、それぞれ上記の点が難しかった、または特に意識して演じたそうだ。

さて、劇や映画などで「友情出演」というロールを目にするが、これは役者がスタッフや俳優と懇意で、安いギャラまたはノーギャラで出演した場合に用いられる。
が、この劇の「友情出演」は、文字通りの「友情出演」である。十二年生以外の高等部の生徒全員が、「友情出演」として参加しているのだ。

なにしろ十二年生は五人、一人が二役以上やったとしても限界があり、下の学年に出演協力をお願いしているうちに、結局高等部総出演の壮大な舞台となったのだそうだ。
十二年生は勿論、高等部の生徒達にとっても、この学年を超えての取り組みは、大きな感動をもたらした様だ。

それぞれの演技も勿論だが、最後の出演者全員による合唱に至ってはもう言葉で云い尽くせぬ感動であった。
「演劇部」でも「合唱部」でもない生徒達がこの舞台を作り上げたのかと思うと、改めてシュタイナー教育の奥深さに瞠目した。(念の為、この教育は決して芸術偏重ではない。彼等は確かな学力をも身に付けている)

こうした上級生の舞台を、下級生は一年生に至るまで引き込まれるように、大笑いしながら観劇していた。子供達も高等部の生徒達のこうした姿を間近に見て、憧れ、いずれ成長したら今度は自分達が舞台に立ち、下級生達の見本になってゆくのだろう。

さて、何故シュタイナー教育では、折に触れて演劇に取り組むのか。
ここで、冒頭に触れた風姿花伝先生の文章の一部を抜粋しよう。

「他の人間を演ずるプロセスの中で、生徒は自分自身を客観的に取り組むことになるからです。他の人間になることで外側から自分を見つめているのです。自分の中から出ていくことは、自己認識を得る道だという教育的観点から、演劇が取り組まれています。この意味においてもシュタイナー教育は卒業していく若者たちが、最後の大きなプロジェクトを通して、新しい世界へ向かってしっかりと歩んでいく、個としての人間の成長を願っているのです。」

十二年生といえば、つまり高三。私が高三の頃は、「個」の育成どころか、受験一色。周囲はライバルを通り越してむしろ「敵」、といった風潮であった。
この年代で仲間たちと演劇に取り組むなど、なんと贅沢な体験だろう。

この劇は、生徒達で話し合って演目を決めたそうだ。
ただ、主役が「女装」するということで、男子達は当初難色を示していたという。

パンフレットの表紙のコピーに曰く、

「愛する女性のためなら 女装だってできる!」

私なんぞは「愛する女性」のためでも何でもなく、単にミクシィのトップ画像に貼るだけのために女装しましたが何か。

あきナース

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廉価本「豊臣秀吉勇将録」(リイド社)に、「脇坂安治」「播磨軍記」の2編収録。
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リアクション・受付け嬢

去る土曜日に行われた、父親主催のあるイベント。(このイベントについては、別の機会に詳述したい)
普段は母達に混じって働いている私だが、今回は珍しく父達の手伝いをすることに。
状況によって動物に付いたり鳥に与したりするコウモリのようなものだ。

私は受付けブースの担当を仰せつかった。
それならば、と、前日にある事を思い付く。
前回の日記で、ハロウィンで仮装魂に火が点いた私が行ったという奇行が、これである。
と云っても、軽く女装を決め込んだだけのことなので、「奇行」というほどの事ではない。

つまり、「受付け嬢」になろうというのだ。

開始前、机に布を敷き、花や水晶を飾って受付けのセッティング完了後、今度はオノレのセッティングである。
男子トイレに籠もり、鏡の前で髪をツー・テイルの三つ編みにし、イヤリングを付けて口紅塗ったら、素敵な受付け嬢に大変身よ
この間、父達が二人程用足しに入って来たのだが、この異様な光景に、さぞかし度肝を抜かれたことだろう。

服装は、普段からユニセのレディース服なのでそのまま。カフェエプロンを巻けば、一寸スカートっぽい。
更に、以前ウクレレサークルで付けていたレイを頭に巻き、受付け開始。冷静に考えれば、こんな珍奇なスタイルの受付け嬢など居ないっての。

大人達のリアクションは様々だが、多かったのは、

「似合う~!」「綺麗~!」

という賞賛。そうでしょうとも、もっと褒めても宜しくてよ。という思いと同時に、「・・・気を使わせてるんじゃあるまいか」との思いもあり、乙女心は複雑なの。

一部の母達の中には、

「出た!!」

と、化け物扱いする人も。
「あら~、私の美貌に嫉妬してらっしゃるのね~」ということにして、ノン・シャラン。

さて、子供達のリアクションは興味深いものがあった。それを、シュタイナーによる子供の成長の概説と共に紹介したい。

シュタイナーによると、概ね七歳頃、子供のエーテル体は覆いを解き、自由を得る。が、急に目覚めるのではなく、幼児の頃のメルヘンの作用を残しつつ、次第に目覚めてゆく。
松井るり子さんの有名な著書のタイトルに、「七歳までは夢の中」とあるが、7歳を過ぎたばかりの低学年の子供達は、目覚めかけの「まどろみの中」と云えるかもしれない。

これぐらいの子供達のリアクションは、実に大きい。

「あ~ッ!ぴーぽこちゃんのお父さんが女の人になってる~!」

って、性転換してないって。「女の人の格好をしてる」ではなく、「女の人になってる」という表現が、この年代の子供達の世界観を象徴している。
また、「口紅も塗ってる~!」と、細かい点も見逃さない注意力も持っている。

やがて来るのが、シュタイナー教育で云う「ルビコン世代」(三年生頃)である。
夢から覚め、自分と外界との距離を認識する。それまで曖昧であった自分と外界との境界が明確になるのだ。

実際、この年代の子供達は、低学年の子程は過剰な反応はしない。四年生女子のムササビちゃんや帝釈天ちゃん(いずれも仮名)なども、私のすぐ前で笑いはするが、以前のようには騒がない。
以後、学年が上がる毎にその距離は広がり、遠巻きに見て笑っている。これも、各年代の子供と外界との距離を象徴している様だ。

そして、思春期の最中にある八年生辺りになると、普段通りの表情であったり、笑うにしても穏やかだったりと、最もリアクションが薄い。
別に私も笑かそうとしてやっている訳ではないので、実はこれぐらいのリアクションがやり易い。(とは云え、須らく全ての人々のリアクションがこうなら、それはそれで寂しいのが乙女心の複雑さ)

この年代は、アストラル体が自由を得る時期であり、シュタイナー教師はよく「顔に『内装工事中』と書いた張り紙を貼っている年齢」という表現をする。
内面が変化する時期であり、大人に対する表情が最も乏しい時期だろう。

これを過ぎた、高等部の生徒達のリアクションは、実に様々であった。
私を見るや笑い出す九年生の女子達、中でもカッコウさん(仮名)などはわざわざ私の元に舞い戻り、素直な疑問を投げ掛ける。

「それ(イヤリングや花飾り)、自前ですか?」

自前ですとも。

十年生は職業実習の為不参加だったが、ただ一人、実習終了後に駆け付けてくれたオータムさん(仮名)
「お帰りなさい。職業実習はどうでした?」と話しかけた私に、
「ただいま、・・・」
と答えかけた彼女、私に背を向け、肩を震わせ、笑いをかみ殺しつつ、

「・・・・・・顔が見れない・・・」

目の前の現実を直視するのよ!

十二年生のステッグくん(仮名)などは、普段私が母達に混じって働いている姿を知っているのだろう、こう話し掛けて来た。

「今日はお父さんとして参加ですか?お母さんですか?」

もはや大人と変わらない、諧謔溢れる彼の問い掛けにこう答える私。

「受付け嬢としてです」
って、答えになってないっての。

アストラル体が自由になった彼等の中では自我体が育っている。自我体が誕生し、自由を得るのは21歳頃。彼等のまだ生まれる前の自我体は、誕生に向かって着実に成長しているのだろう。
小・中学部の生徒達のリアクションが、個人差はあるものの、概ね年代としての共通した傾向があるのに対し、高等部は如実と云ってよいぐらい「個」としてのリアクションが出ることが、それを物語っているように思う。

また、印象的だったのは、幼児部の女の子。帰り際に、その子に「左様なら」と手を振る女装受付け嬢に、何の違和感もなく当然のような笑みで手を振り返す彼女。「七歳までは夢の中」、どうやら私の珍奇な姿は、この子にとって悪夢とならずに済んだ模様。

一寸した思い付きでやった女装だが、それによって子供達のリアクションからシュタイナーの子供の成長観との一致を観察し得たのだから、なんでもやってみるものである。
来年は、ゴスロリ・メイド姿で「お帰りなさい、ご主人様」とかやるか。

いや、それはやり過ぎにも程があるっての。



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通過儀礼は演劇

シュタイナー教育では、小・中学部の八年間を一貫して一人の担任が受け持つ。そして高等部・九年生へと進むのだが、その区切りとして八年生で演劇に取り組む。ある意味、通過儀礼のようなものだろうか。

今年の八年生は、学校代表のT.T.T.先生(仮名)が受け持つクラス。その八年生の演劇の発表会が行われた。

「新・雪わたり 月夜の幻燈 狐少年学校祭

というタイトルのこの劇、宮澤賢治の「雪わたり」の設定で、狐の子供達が「やまなし」、「注文の多い料理店」、「飢餓陣営」を演じる、というコンセプト。昨年同様、賢治の短編を、それぞれ独立したオムニバス形式でなく、つながりを持って展開してゆく、という構成だ。
効果音や演奏も、生徒達自身で行うというのも、昨年と同じである。

が、今年の八年生は生徒数が多いこともあり、公会堂を借りての、本格的な「舞台」である。昨年は学校の敷地内に建てられているゲルでの公演、狭い中で肩寄せ合って、桟敷席での観劇。これも芝居小屋の様な雰囲気で、会場全体が一体となったようでとても良かったが、小劇場での発表もまた別の良さがある。

そんな、学内のゲルやホールでの発表会よりも圧倒的に広い公会堂の舞台の上で、生徒達は実に見事に演じていた。
八年生といえば十四歳、体も大きく、重くなる時期。また、精神面でも第二次反抗期の頃で、人前で演じる事に照れや抵抗感を持っている生徒もいるだろう。
それでも、舞台の上の生徒達は皆輝いており、演技も演奏も、優しさや暖かさ溢れるものであった。

実は、この学年の生徒達には一寸した思い入れがある。

娘・ぴーぽこ(仮名)がまだ幼児の頃から、ぴーぽこがゆくゆく通う学校選びの候補として、何度もこの学校の発表会等を観に来ていたのだ。
特に、高名なるT.T.T.先生の直々の教え子ということで、この学年の生徒達に注目していたのだ。

当時、彼等は二年生。今のぴーぽこと同じ学年である。
この学校は生徒、教師ともに、良い意味で昭和的なのだが、彼等は殊に、昭和の良い所や美点が凝縮された様な子供達であった。
中には尋常小学校の集合写真にでも写っていてもおかしくないような子供もいた。

その子供達、何人か辞めていった生徒や、途中から編入してきた生徒もいるが、ともかく彼等は今、小・中学部卒業を前に、その区切りの劇の発表で、舞台に立っているのだ。
彼等はまだ大人ではないものの、既に「子供」とも呼べないまでに成長している。
一昨年までは外部として彼等の発表を観ていたのだが、今や同じ学校に通う子の親、という立場で、彼等を観ている。

そして我が子・ぴーぽこは、私が初めて彼等を観た当時の、彼等と同じ学年・二年生の生徒として、彼等の姿を観ているのだ。
そう考えると、感慨深いものがあった。

舞台が終わり、担任のT.T.T.先生の挨拶。彼女は俄かに中空を見上げ、

「根子さ~ん・・・長坂さ~ん・・・」

と呼びかけた。彼等は宮澤賢治の教え子で、故人である。彼等がまだ存命の頃、T.T.T.先生は賢治の教え子達を訪ね、インタビューを行い、その記録映画を撮ったのだ。
彼等が語って下さった様々な事が、この劇中に織り込まれており、T.T.T.先生はその謝意、またお陰で生徒達が賢治の劇をやり遂げた事などを、彼岸の彼等に告げずにはいられなかったのだろう。

唯物的な視点では、T.T.T.先生のこうした言動は、ただ感傷の吐露に過ぎない、という事になるだろう。
が、魂は不滅、という視点に立てば、彼女の言葉に込められた想いは、彼岸の彼等に届くだろう、と思われる。
いや、何だったら、彼等の魂は実際にこの舞台を観に来ていたかも知れない。

ともかくT.T.T.先生のこの姿に、感動を禁じ得なかったのだが、気付くと私の前の席の小さな子供が、しきりに後ろを振り返っている。
どうやら、T.T.T.先生の視線の先を辿り、彼女が語りかけている相手を懸命に探している模様。
いや、誰も居ないから。居たとしても、普通は視えないお客様だから。
ともかくこの坊やの可愛らしい行動が、私の感動を良い具合にクールダウンしてくれた。

さて、この観劇で私の隣に座っていたのは、高等部の女生徒。彼女は昨年、卒業劇で「セロ弾きのゴーシュ」のカッコウ役を熱演した生徒である。昨年度は、そんな彼女演ずるカッコウ役に憧れたぴーぽこ。

「八年生になったら、カッコウの役をやりたい!」

と云っていたものだ。
今年は何をやりたがるだろうと思っていたら、「カンコ」の役。
あ~、確かに、「カンコ」と「カッコウ」は、なんとなく語感が似てるしね~、と思ったが、そんな駄洒落のような話ではない。

この劇内で、狐の学校に招待された「シロー」と「カンコ」の兄妹。狐の生徒達が演じる「やまなし」等を観ていた彼等は、自分達も劇を披露する事に。
ところが二人が始めた劇は、「セロ弾きのゴーシュ」の元に「幸福の王子」のツバメが訪れる、というもので、つまりはパロディ劇中劇である。
このツバメ役が、「カンコ」。

「だから、『カンコ』がやりたい」と、ぴーぽこ。

ツバメの役もやれるから!」

って、カッコウの次はツバメ、またかい!

今に「鳥人間コンテストに出たい」などと云い出すんじゃなかろうか。


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