家庭でシュタイナー

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天使式・育児ダイエット

体重計に乗って、

「きゃ~~~~、太ってる~~~~~!!」

と、私、38歳・男性。
薄ッ気味悪いっての。

身長166.5cmの私、体重計の目盛りは52kg。

・・・今、主に淑女の皆様からの殺意を感じた。

「52kgで『太ってる』んなら、○○kgのあたしはど~なんのよ!」と。

いやいや、違うのだ。体重50kg前後のやせ型の私にとって、52kgというのは、太りだすまでの臨界点、以前52kgを超えてから堰を切ったように肥えだしたことがあったのだ。
ヒョロ人生を送ってきた私が、その時期体重が10kg以上増え、体脂肪率も25%の「軽肥満」になった。
それゆえ、52kg超えのボーダーラインは死守したいのだ。

いや、太っていること自体は問題ない。男性なら「恰幅が良い」、女性なら「ふくよか」、貫禄も付くし、福々しくもあり、肥り肉の魅力もある。むしろ少しふっくらしてみたいとすら思う。
が、私の場合、問題は「肥り方」なのである。

まず、顔全体がふっくらとならない。顎から首にかけてのみ、脂肪が巻き付く。
体も、手足は細いまま、腹部だけがぽっこりとせり出してくるのだ。

「餓鬼草紙」の餓鬼かっての。

もしくは、シルエットとしては、カナブン

こんな一点豪華主義のような滑稽な肥り方よりは、痩せてるほうが良い。
入浴前に己の身体を見下ろし、ぽよんと飛び出た腹部が遮断物となってち○ぽが見えなくなるに及び、ダイエットを敢行。スポーツクラブに入会し、連日のスイミングで48kgにまで戻したものだ。

娘・ぴーぽこ(仮名)がシュタイナー学校に入学してからは、節約の為、クラブを退会したのだが、以来三年に渡り、その体型をほぼキープしてきた。

それは、「送り迎え・ウォーキング」によって、である。

前にも書いたが、ぴーぽこが通う学校は、低学年の間は送り迎えが必須なのだ。
「小学生にもなって!?」と、過保護のように思われる方もおいでだろう。実際、我々もそうだったように、小学一年生ともなれば保護者無しで学校に通うことは可能である。都会では、朝のラッシュ時、新品の大きなランドセルを背負った子供が、一人で電車に乗っている姿も、珍しくはない。

が、小学校に入学したからといって急激に外の世界に踏み出すことは、それは「可能」ではあっても、幼い子供の心にとって、大きな負担を強いることになる、というのが、この教育の一つの視点である。
特に遠方から電車等で通う生徒は、事故などで電車がストップした場合(実際都会ではよく起こる)、子供はなにがしかの判断を下さねばならなくなる。
低学年の生徒に判断を強いるのは、生まれて間もない赤ん坊に固形物を食わそうとするようなものである。母乳またはミルクから、離乳食、そして少しずつ固い食べ物を、というように、心の領域においても、子供の成長に応じた働きかけをするというのが、シュタイナー教育の特徴の一つと云える。

因みに、共働きなどの理由で送り迎えが困難な家庭などは、学年を超えて親同士で助け合う方法を模索する。
また、送り迎え終了の時期も、「何年生まで」「何歳まで」などと紋切り型で区切るのではなく、飽くまでも子供一人一人の成長を鑑み、親と担任教師が話し合って判断する。

さて、我が家では妻と分担して送り迎えをしていたが、そこは自由業、私もかなりの頻度で通ったものだ。電車を除き、片道徒歩30分の距離を往復。「送り」と「迎え」両方の日は二往復である。
これがなかなかいい運動であり、ウォーキング効果で件の体型を維持していたという訳だ。

だが、流石に四年生ともなると送り迎えの必要は無くなり、同時に私の腹も緊張感を失い出したのである。

そこで思い付いたのが、

「天使式・早朝なわとびダイエット」

である。
折しも娘は夏休み、勤め人ではない私などは、つられて生活が不規則になりがちだ。規則正しい生活は、シュタイナー教育じゃなくても重要視されている。

何故「天使式」かというと、シュタイナーの天使学では、天使達はリズムに則った存在であるという。月がすねて地球からそっぽを向いたり、日の出時間に太陽が15分遅刻してきたり、火星と金星が気まぐれに急接近したり、黄道獣帯が渋滞(駄洒落かよ…)したりすることが無いように、天使達も規則正しい作用を、地球に送り届けている。
生活にリズムを持たせることは、天使に近付く遥かな道の一つだ。
早寝早起きして運動すれば、ダイエットと同時に天使に近付けるという訳だ。なわとび好きの娘・ぴーぽこも巻き込めば、子供のリズムも守り、親子で一緒に何かを行うという育児上の効果も望めるので、一石にて3,4羽もの鳥を落とせるというものだ。

ぴーぽこに一緒にやろうかと誘ってみたところ、私よりも乗り気だ。ルビコンを越えた四年生、そろそろ面倒くさがるか、親と一緒にやることをうざったがるかと思ったが、まだそうしたことが嬉しいらしい。

早速ぴーぽこと、私用のとびなわを買いに行く。気に入った色のとびなわを探していると、奥にたった一つ、マイ・フェイバリット・カラーの、紫のとびなわ発見!
「やった~!」と喜ぶ私の斜め後ろから、ぴーぽこ、

「良かったジャン」

って、ナニ様だオマエは!?・・・流石に四年生ともなれば、いっぱしの口をきく。

こうして始まった夏休み、ぴーぽこは6時前に目覚めては「おとーさん、なわとびやんないの?」と起こしにくる。
ところが連日の猛暑、早朝から殺人的に暑かったり、私自身が起きられなかったりで、夏休みも終盤という今現在、親子で早朝なわとびを行ったのは、実に3回
それも3日坊主とかではなく、飛び飛びに3回。

最近ではぴーぽこも、起こしにすら来ない有り様。

・・・天使はおろか、ダイエットの道すら遠い・・・。



8月26日発売の雑誌「戦国武将列伝」(リイド社)に、拙著「華麗なる軍師~竹中半兵衛・佐用城の無策~」掲載。御一読下さいませませ。

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子供に語る比喩の実践

「赤ちゃんはどうやって生まれてくるの?」
という幼児の問いに、
「それはね、お父さんの怒張した×××が、お母さんの…」
などと、幼児相手に性描写を始める馬鹿は居るまい。
子供の年齢に相応しい「比喩」という名のヴェールに包んで話す筈である。
古典的だが、「コウノトリが運んでくる」というのは、単にお茶を濁して誤魔化す為の方便ではない。素晴らしい比喩なのだ。空と地上を結ぶ存在に伴われ、子供の魂が両親の許にやって来るイメージなのだそうだ。

前回の記事・「イメージと比喩とメルヘンと」とも関連するが、子供の素朴な問いかけや、四季の自然の移り変わり等を、比喩を通してイメージ豊かに子供に語り聞かせるのは、子供にとって良い作用を及ぼすそうだ。

では具体的にどの様に話すのか、オイリュトミー教師の風姿花伝先生(仮名)から学んだ事の一部をシェアしたい。

まず、実例として、私が娘・ぴーぽこ(仮名)に語ったお話、風姿花伝先生にお褒め頂いた事に気を良くしたので、ここに紹介しよう。
早い話が、自画自賛である。

「彼岸花」
「ふかふかとした土にくるまれていた彼岸花が、花を咲かせる頃になりました。
彼岸花は一刻も早く神様に会いたくて、空に向かって真っすぐにするすると伸びて、蝶々のような形の、赤々とした花を、ぱらりと咲かせました。
ところが彼岸花は、あんまり早く神様に会おうとしたもので、葉っぱを付けるのを忘れてしまいました。
天使は彼岸花にやさしく云いました。
『あなたは、あなたをつつんでくれている大地にも感謝をしなければなりませんよ』
そこで彼岸花は、花が枯れた後、細長い葉っぱをわさわさと伸ばし、寒い冬の間、その青々とした葉っぱで大地を優しくくるんだのでした」


ぴーぽこは意外な程興味深げに聞いていた。聞き終わると、
「それ、お父さんが考えた話?」
と質問してきたので、こう答えた。

「ううん。彼岸花に教えて貰ったの」

パラケルススじゃあるまいし、私には植物の話を聞くことは出来ない。が、仮に聞けたとして、彼岸花は上記の話と当たらずとも遠からずな事を語ってくれるのではないかと思う。

私の答えを聞いたぴーぽこ、訝しそうな表情を浮かべ、

「…お父さんが考えた話か」

いやだから彼岸花に聞いたんだって。まぁ、ルビコン世代のリアクションはこんなものだろう。

風姿花伝先生は、こうした季節のメルヘンの例として、柿の話をして下さった。
葉が散っても実は落ちない柿は、顔を真っ赤にして落ちないように頑張っている、といった内容で、口を「へ」の字に結んだ表情を作りながら語られた。

素敵な話だと思ったので、軽くパクってというか、参考にして自分なりに話を広げ、ぴーぽこに語ってみた。
はじめは青かった柿。自分も近くの栗の実のように、地面に落ちるんじゃないかとおどおどしていたが、一念発起して秋風が吹く中頑張っているうちに赤くなった、という物語。
話しているうちに、興味深い事が起きた。
柿が一念発起する場面。聞いていたぴーぽこは、柿の気持ちになって、

「ようし!ぼくは、風なんかに負けないぞ!」

と台詞を云った。これが、直後に私が云おうと頭の中で用意していた台詞と、一言一句違わず同じだったのだ。
尤も凝った云い回しでもないし、話の流れからもこうした台詞が出て来ても不思議ではないが、あたかもテレパシーの様に、私がイメージしていた台詞を、内容から間の取り方、口調まで一致させて再現された事に、少なからず驚いた。

そして、私も風姿花伝先生を真似て、口を「へ」の字に結び、頑張っている表情を作る。
これがぴーぽこの気に入ったらしく、以来柿を見る度この表情を浮かべるようになった。面白い事に、木に生っている柿に限る。収穫され、店頭に並んでいる柿は普通にスルー。

他にも、こんな話を考えてみた。

「銀杏さんと楓さんは、桜さんが羨ましくて仕方ありませんでした。何故って、桜さんは春になると、赤ちゃんの肌の様な薄桃色の花をふくふくと満開にして、お空の神様に見せてあげているのです。
それなのに、銀杏さんも楓さんも、ちっぽけな花しか咲かすことが出来ません。
『私たちも、桜さんのように、枝中を綺麗な色で飾って、神様に見せてあげたいなぁ』
それを聞いたお日さまは、自分の色を少しだけこれらの木たちにプレゼントしてあげました。
それから秋になると、銀杏さんはお日さまのキラキラ輝く金色に、楓さんは朝日や夕日の燃えるような真っ赤な色に、葉っぱの色が染まるようになったのです。
幸せな気持ちに包まれた銀杏さんと楓さんは、それまでみすぼらしいと思っていた自分の花が好きになりました」


また、同じ銀杏を扱うのでも、親仲間のジーナさん(仮名)は、「お日様の光が届きにくくなる秋、銀杏は自ら輝きだして、金色に染まった」といった内容のお話をされていた。とても素敵なお話ではないか。

風姿花伝先生によると、こうした話は短いほど良く、また、形容詞や擬声語をふんだんに使うと子供は喜ぶそうだ。現にぴーぽこも、上記「彼岸花」の、「するすると」や「ぱらりと」等の擬声語のくだりで、一段と瞳を輝かせていた。

パラケルススや、ましてやシュタイナーの如く超感覚的洞察力を持たぬ我々は、日常の中では思考を通して自然摂理の秘密を探求するしかない。自然の不思議さ、面白さに感動のまなざしを向けて考えてみると良いだろう。
「ひまわりはお日様が大好きなんだよ」「稲が大地に『ありがとう』ってお辞儀してるね」
例えばこんなシンプルな話でも良いと思う。馴れてくると話が膨らんでゆくだろう。
そのうち、自然が自らその秘密を語ってくれる日が来るかも知れない。

こうした事には馴れが必要で、こちらが予め用意していた話などはともかく、子供から不意打ちの如く発せられる問いに対して、いかに臨機応変に対応できるかといったアドリブ能力を、シュタイナー学校の教師は日々問われているそうだ。改めて先生達に頭が下がる思いである。

馴れないうちは、なかなか上手く行かない。私も以前、こんな事があった。
「海の水からどうやって塩ができるの?」とのぴーぽこの問いに対する私の答え。

「海の水を汲んで熱くすると、水の妖精・ウンディーネがだんだんどこかへ行ってしまうの。そして残された『辛いもの』が、今度は土の妖精・グノームに固められて…」

…話がが迷走してるっての。

狐につままれたような面持ちで聞いていたぴーぽこ、ぽつりと、

「・・・よく分かんないや」

…ごもっとも。


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イメージと比喩とメルヘンと

シュタイナー教育は、「イメージ」を重視する。イメージを形成する力が、現実の世界を強く生きて行く活力になるからだ。
何故か。

それについては、ここでは述べない。それを一から説明しようとすると、それだけで相当長くなってしまうので、割愛する。

ともかく、子供は本来、豊かなイメージの世界に生きている。大人にとってもイメージは大事だが、子供より経験や知識の豊富な大人の場合、それが内面から湧き上がるイメージなのか、過去の記憶に基く表象なのか、判別が難しくなってしまう。

…って、のっけから話が固いっての!まるで屹立したちんぽの様に固いって。このブログの趣旨は、シュタイナーについて金玉袋の様に柔らかく述べる事なので、分かり易い例を出そう。

以前、何かのシュタイナー関連の本で読んだのだが、例えばメルヘンを子供に語って聞かせる時、「お城」が出たとする。子供は「お城」を知らないなりに、「お城」について、豊かなイメージを展開するのだそうだ。
そこに、大人がお城の絵なり写真なりを子供に見せて、「これがお城だよ」と示してしまうと、子供の中で、イメージが固定化されてしまう、というのだ。
絵本の読み聞かせも良いが、素話だと更に良いのだろう。

大人が例えば司馬遼太郎の「新選組血風録」を読んだとして、自分なりの土方歳三の像が思い描ければ、それは「イメージ」であろう。が、それが栗塚旭にそっくりなら、それはテレビドラマの記憶による表象と云える。
…って、例えが古過ぎるっての。栗塚旭主演のドラマ版「新選組血風録」、1965年放映だって。私、生まれてないっての。

本来、子供の持つイメージ形成能力は、大人が考える以上に豊かなものだ。
私の場合も、幼稚園の頃、先生が語る話(教会の園なので、聖書の物語だった)を聞く度、見たことのない筈の昔の外国の映像が、スクリーンに映し出されるかの様に展開していたものだ。こうした経験は、多かれ少なかれ誰もが持っているだろう。

童話や昔話の中には、時として残虐な場面が登場する。有名な「灰かぶり(シンデレラ)」では、手がかりの靴を無理からに履く為、意地悪な姉達はそれぞれナイフでつま先や踵を切り落とす。また、この二人の姉は、最後に鳥によって目を潰されてしまう。
映像化したらスプラッタな場面だが、それは飽くまで大人の見解。子供はこうした場面のスプラッタ性などではなく、そこに込められた叡智を受け取っているのだそうだ。

ここで、「桃太郎」という落語を紹介しよう。
お父っつぁんが坊やを寝かしつけようと、桃太郎の話を始める。
が、坊やは寝るどころか、

「『昔々』って、いつです?何時代?」

「『ある所』って、どこです?」

「『お爺さんとお婆さん』の名前は?」


などと、いちいち突っ込んでくる。
業を煮やしたお父っつぁんは、桃太郎の粗筋を一気にまくしたて、
「おめぇも大きくなったら桃太郎のように…なんだ、もう寝ちまったのかい、子供ってなぁ罪が無ぇな…アレ、起きてやがら。なんだ、目玉をギョロギョロさせやがって」
「お父っつぁんの話を聞いたら、寝るもんも寝られませんよ」
坊やは「桃太郎」という名作を、そんな風にあっさり語るとは何事だ、と説教し、物語の解説を始める。例えば、

「犬ってのは三日飼えば一生恩を忘れないんです。忠義に厚いんです。猿には知恵が、雉には勇気がある。『犬、猿、雉をお供に連れて』っていうのは、『仁・智・勇を身に付けて』ってことなんです」

といった具合に。一通り講釈を垂れたところで、
「分かったかい、お父っつぁん?…アレ、寝ちゃってら。まったく大人ってなぁ罪が無ぇなぁ」
というオチ。

無論、この落語には、「最近の子供はこまっしゃくれて理屈っぽく、一筋縄には行かない」というアイロニーが込められているので、実際に子供が「犬・猿・雉」を「仁・智・勇」と理詰めで解釈している訳では、当然ない。
が、子供は、猫やコアラやインコではなく、「犬・猿・雉」である必然性、それらに比喩されたものを、イメージを通して、無意識の奥深くで感じ取っているのだ。

こうした事柄を理解せず、表面的に解釈する大人によって、昔話の残酷な場面等が改竄される。
お婆さんを殺して婆ぁ汁を作り、それをお爺さんに食わせた「かちかち山」の狸が、最近の本ではお婆さんを殴って逃げただけ。まぁ、お年寄りを殴打するなど言語道断だが、その後狸が受けた執拗な報復を思うと、むしろ狸が哀れにすら思えてくる。
で、最後に狸も改心して、皆で仲良く暮らしましたとさめでたしめでたしって、何だそりゃ。

元来、古くから伝わるメルヘンや神話等は、人類の根源的な叡智を、比喩を通して語っているのだそうだ。
「こめんぶく あわんぶく」とグリム童話の「灰かぶり」、「浦島太郎」とケルトの伝承「フェヴァルの息子ブランの航海」等に共通性が見られるのも、その背後にあるものが人類に共通したものであるからだろう。各国の神話の共通性まで言及すれば、それこそ枚挙に暇が無い。
それと同時に存在している相違性は、それぞれの国や民族特有の背景を反映しているのではないか。

九歳頃までの子供、特に第一7年期に、こうしたメルヘンを繰り返し語る事で撒かれた叡智の種子が、大人になってから現実を強く生きる力として開花する。

特にグリム童話は「叡智の比喩」の宝庫なのだそうだ。
ルビコン世代(九歳)未満のお子さんをお持ちの方は、早速グリム童話をお子さんに語って頂くとよいだろう。
特に第一7年期のお子さんなら、例えば寝る前などの決まった時間に、同じ物語を一ヶ月(厳密に云えば28日間)繰り返して聞かせる事をお勧めする。

シュタイナーによると、そもそもグリム兄弟が編纂した童話とは、中世に吟遊詩人達が、大人に向けて「比喩を通して」語った叡智の物語が原点なのだという。

固さや柔らかさの比喩に、「ちんぽ」だの「金玉袋」だのを持ち出す当ブログとは訳が違う。


※…0~7歳。シュタイナーは人生を7年周期に区分した。


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お祈りロック

元「ボ・ガンボス」のVo・どんとの急逝以来の衝撃だったのが、忌野清志郎の訃報であった。
仕事中、彼のアルバムを聴きまくりたい衝動にかられたが、問題がある。
ゴールデンウィーク中なので、小三の娘・ぴーぽこ(仮名)が、日がな家にいるのである。決して広くはないアパート、私が聴くということは、必然的にぴーぽこにも聞こえる、ということだ。

シュタイナー教育においては、子供(特に幼児)には、極力デジタルな音を聞かせないように配慮するのだが、問題はそれではない。いや、それも無論配慮すべき問題ではあるのだが、私にとっての問題は、「子供にロックを聴かせたくない」という事だ。

ロックを有害視しているのではなく、子供にはしかるべき年代に、自らロックと出会って欲しいからである。そもそもロックは親から与えられるものではないし、ぴーぽこの年にロックなど猫に小判、勿体無いというものだ。
が、杓子定規に構えても仕方がない。常日頃聴かせる訳ではない、故人を偲んで、その人が残した音楽を聴く、特別な日があっても良いのではないか。

ただ、もう一つの問題は、清志郎の歌詞に時折見られる、アダルトな比喩である。
どこかの地方に伝わる歌でも、「きのう父ちゃんと寝たときに ヘンなところにイモがある」などというのがあるが、この「イモ」が何の比喩か・・・って、清志郎の歌を猥歌と一緒にするなっての!

だが、ここまで下世話ではないが、彼の歌詞にこうした表現が散見されるのは事実である。
例えばRCサクセション「雨上がりの夜空に」の、「エンジン」や「バッテリー」、「ポンコツ」などは何の比喩なのか。
また、HIS「スキー・スキー(スキーなの)」の、「あなたの板」、「私の丘」とは?
RC「スカイ・パイロット」に至っては、「おまえのGスポット」って、ド直球。

だが、清志郎の歌が聴きたい、今すぐに!
いいや、もしぴーぽこに何か聞かれたら、
「『雨上がりの夜空に』はクルマの歌!『スキー・スキー』はスキーの歌!『スカイ・パイロット』はヒコーキの歌!!」
と答えることにして、所蔵している清志郎関係のCD、MDをかき集める。

さて、私は忌野清志郎のファンではない。
彼以上に影響を受けたアーティストは何人もいるし、MDも含めて持っているアルバムは6枚やそこらである。こんな私が「ファン」を名乗ったら、本当のファンに失礼というものだ。

だが、改めて彼のアルバムを聴いてみると、思っていた以上に彼の歌が自分に浸透していた事に、改めて気付かされた。

例えば、妻・みぽちがコーヒーを淹れてくれる度に、「君が僕を知ってる」が、頭の中で流れていた。
原発関係のニュースや話題に接すると、「サマータイム・ブルース」が、第二次大戦や核の話題では「LONG TIME AGO」(タイマーズ)が流れた。

優等生を演じていた高校時代に出来なかった事を「トランジスタ・ラジオ」で追体験したり。
自分が世界から孤立し、誰からも理解を得られないと感じていた日々、「わかってもらえるさ」に支えられたり。
飲み会でジン・ライムを頼む時、必ず「雨上がりの~」が流れた、って、これはピン・ポイントすぎる例だっての。こんな細かいことまで云い出せば、それこそ枚挙に暇がない。

持っているアルバムこそ少なかったが、それら数枚のアルバムを、何度も繰り返し聴いていた。そして、それら清志郎の歌詞やリズムの一部は、私に浸透していたのである。

シュタイナー学校では、朝の詩を唱えてから学びが始まる。また、私はぴーぽこを寝かしつける時、シュタイナーのお祈りのことば(『夜のお祈り』、『こどものためのお祈りのことば』等)を毎晩繰り返し、一緒に唱えている。こうした「光」と「愛」に包まれた言葉を繰り返すことで、それらが子供のエーテル体に浸透し、成人後の力になるのだろう。
そうした詩や祈りの言葉に出会わなかった私にとっては、様々なロックが、私の力となっていた。

シュタイナーは音楽を、調和の「アポロン的」なものと、熱狂の「ディオニュソス的」なものとに大きく分類していたそうだ。簡単に云うと、前者の代表がクラシック、後者がロックなのだとか。(無論シュタイナーの存命時には『ロック』は無く、現代の視点での解釈である)
更に云えば、シュタイナーの詩や祈りなどは「アポロン的」、ロックの歌詞は「ディオニュソス的」とも云えるかも知れない。

ところで、私にとって「ロック」とは何ぞや。
ロックを定義付けする時点でその態度は既にロックではないが、敢えて云うなら、私にとっては「再構築への欲求を秘めた破壊衝動」である。
破壊にはディオニュソス(酒、演劇、豊穣の神)の熱狂が伴う。そこに再構築の光や予感がなければ、その熱狂はルツィフェル(ルシファー。退廃、迷妄等に誘う悪魔)的なものに陥るのではないだろうか。

さて、清志郎の音楽を聴いたぴーぽこの反応。
流石に冒頭で挙げた、アダルトな比喩に関しては完全スルーで、HISの「渡り鳥」に羅列された鳥の名前を、いちいちメモし出す。まぁ、子供の反応としてはそんなものか。

だが、相手はルビコン世代の子供である、客観的な視点も育っている。
同じくHISの、「おやすみ もうすぐ逢える」という曲。おそらく遠距離恋愛でもあろうか、夜、恋人同士の夢が、開いた窓から抜け出して互いの部屋に行き来できるように、窓の鍵をかけずに眠る、といった内容の、浪漫溢れる名曲である。この歌を聴いたぴーぽこ、しかつめらしい顔で云った。

「・・・でも、それじゃぁ泥棒も入ってくるよね」

いや、お説御尤もではあるが。
この身も蓋も無い破壊力。オマエが、ロック。

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一緒にケーキ

去るクリスマス・イヴ。
ケーキの材料を買った帰りの道すがら、娘・ぴーぽこ(仮名)に話す。

「今年も去年みたいな『ツリーケーキ』を作ろうか?」

「う~ん・・・それもいいんだけどさ、」

と、いっちょ前の口をきく七歳児。

「今年はリースみたいなケーキにしない?」

「あ、面白いねぇ!・・・じゃぁスポンジをドーナツみたいに形抜きして・・・」

といった塩梅で、二人して「リース・ケーキ」のアイデアを出し合う。

さて、料理を子供、殊に幼児に手伝って貰うのは、時として苦行である。
なにしろ連中は、手際が悪い上に、自分の能力値を超えた作業をやらせろと駄々を捏ねる。
それが特に夕方の忙しい時に、短時間でさっさと済ませたい時など、煩わしいことおびただしい。私もかつて「それは『お手伝い』ななくて、『邪魔』してるだけ!」などと叱りつけ、ぴーぽこの心を傷付けた事も何度かあった。

その都度反省し、最近では親子一緒に、楽しく料理をする様になった。
尤もそれは、私の心の持ちようもあるが、ぴーぽこが器用になったことや、聞き分けが良くなったことに負うところが大きい。

子供は元来お手伝いが好きなものだが、それも子供にとっては重要な「遊び」なのだ。親と一緒に、いかに「お手伝い遊び」を体験するかは、子供のその後の成長に、少なからず影響するだろう。
それはなにも「大きくなったら家事を手伝わせてやろう」「老後には面倒見て貰おう」といった下心からではない。
幼少期の「お手伝い」を通して、「自分」という存在が世界に受け入れられ、必要とされている、という感覚に繋がる様に思える。
子供の頃に、あまりにも邪魔者扱いされ、大人からお手伝いを拒否される体験をしすぎると、長じてから(自分は社会に必要とされていない)という、自己否定の思いを持つ一因になるのではないだろうか。

さて、親子でのケーキ作り。と云っても、オーブンの無い我が家、既製品のスポンジにデコレーションするだけではあるが。

イラつくことなく、子供に手伝って貰う工夫、その一つは、

・後の工程を先にやらせる

これは普段の料理の時にも応用できる。今回の場合、最後の仕上げで必要なデコレ用のミカンの房の薄皮剥きや、イチゴのヘタ取りを、最初にやって貰う。その間に、こちらは必要な道具の準備や下ごしらえなどを着々と進めるのだ。
こうすれば多少子供の手際が悪くても、「まだ終わらないの?早くして!」などと急かす必要は無い。

流石に二年生のぴーぽこは、思ったより早く、また丁寧にその作業を終わらせたので、次のお手伝いを依頼。ここでイラつくことなく、子供に手伝って貰う、次なる工夫、

・仕上がりを期待しない

スポンジケーキの真ん中を、丸い形抜きでリース状に抜いて貰う。最初から「綺麗に形抜き出来なくても、また少々中心からズレても、まぁ、いいじゃない」と思っていれば、例え子供が失敗してもノン・シャラン。また、大人が一緒に行うのでも良いだろう。

が、普段のフォルメン線描の授業の成果か、ぴーぽこは割と正確に形を抜いた。上手く出来れば出来たで拍子抜けである。

そして、生クリームの泡立て。
我が家には電動の泡立て器があるのだが、敢えて使用せず、手動。
これには理由があるのだが、ここでそれについて述べていては、ただでさえ越中ふんどしの様に長いこのブログが、更に六尺ふんどし程の長さになってしまうので、またの機会に譲る。

泡立て器で生クリームをかき混ぜる私に、ぴーぽこは当然「うちもやりたい!」と申し出る。が、手動の泡立て器は、それほど生半可なものではない。

イラつくことなく、子供に手伝って貰う工夫、

・子供が飽きたら、はい、おしまい

特に真面目な方は、「途中やめしない子に育てたい」との理由で、一度始めたお手伝いを最後までやり遂げさせようとするのではないだろうか。
が、子供にとってはお手伝いも「遊び」であり、飽きた時点で遊びは終了なのである。
大事なのは子供がお手伝いを「楽しむ」ことであり、そこに「責任感の育成」を付与しようとすると、却って逆効果になるのではないだろうか。
「責任感の育成」は、別の成長過程で、違ったやり方で行えばよい。

無論、ぴーぽこは独力で泡立てるには至らず、交代しつつ泡立て完了。一緒にデコレーションしつつ出来た、

「リース・ケーキ」が、これ。

ケーキ
右は抜いた生地で作った、サンタさんへのミニケーキ

この後、折角のイヴなので、妻・みぽちと家族三人で外食へ。然も、食べに行った先が、

油そば

って、イヴだというのにおシャレ度ゼロの我が家。
この油そばがかなり腹持ちが良く、帰宅後、折角楽しみにしていたケーキが、ロクに食べられないという体たらく。

翌朝、朝食用のパンを切らしていたのに気付く。

「パンが無ければケーキを食べたら良いじゃな~い!?」

・・・食ったさ、アントワネットよ。


※「ツリー・ケーキ」についてはこちら

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廉価本「豊臣秀吉勇将録」(リイド社)に、「脇坂安治」「播磨軍記」の2編収録。
どうぞ御一読下さい。


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