シュタイナーと不思議

  1. --/--/-- スポンサーサイト
  2. 2010/04/15 がっかり珍獣
  3. 2009/01/29 奇跡のことば、呪いのことば
  4. 2008/12/23 人間の本質とは(7)~人間のエーテル体と子供の記憶~
  5. 2008/12/19 人間の本質とは(6)~人間のエーテル体と記憶力~
  6. 2008/10/23 人間の本質とは(5)~動物の「エーテル体」とメタモルフォーゼ~
PREV→

スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

がっかり珍獣

春休みのある日、我々一家は、とある動物園に出掛けた。
その動物園の見所の一つは、野生下では絶滅したとされる珍獣・四不像(シフゾウ)である。

頭が猿、胴体は狸、足が虎で尻尾が蛇、と云えば、(ヌエ)であるが、これは幻獣や妖怪、自然霊の類で、所謂「動物」ではない。
ところが件の四不像は、こうした特徴を有している、というのだ。
つまり、4種類の動物の形姿を持ちながら、そのいずれとも異なる姿をしている。それが、「四不像」と呼ばれる所以なのだ。

こう聞くと、「一体どんな姿をしているのだろう?」と、いやが上にもこの珍獣に対する期待が高まる。
その姿とは、こうだ。

馬のような頭  ロバのような体と尻尾  

牛のような蹄  鹿のような角


…って、地味!ラインナップ、全て奇蹄目・偶蹄目だし!
いや、十分珍しいのだが、「四不像」などとものものしい名前を付けてハードル上げてるものだから、ヌエ的なものを期待してしまうではないか。それで実際に見ると、一風変わった鹿にしか見えないから、見た者はがっかりする。
がっかり珍獣である。

どれ位がっかりかというと、実は我々夫婦は、結婚前に一度一緒に見たのだが、それから10年以上経った今でも、当時のがっかりっぷりをありありと覚えている程なのだ。
然も妻・みほちに至っては、見た事自体忘れている。
いつまでも記憶に残るか、綺麗さっぱり忘却するか、両極端ながっかりっぷりなのだ。

さて、改めて上記のラインナップを見ると、馬・ロバ(奇蹄目)、牛・鹿(偶蹄目)で、いずれも有蹄の動物である。大雑把に分けると近い仲間(馬とロバに至っては、交配すら可能の近縁種)同士なので、四不像はその名や特徴の割には地味に見えるのだろう。
尤も全く多種の特徴を併せ持っていたら、それはもはや動物の域を離れて、件のヌエやグリフォン、スフィンクス、マンティコア等の幻獣になってしまう。
こうした各地の神話・伝説の合成獣や半人半獣の存在達について、シュタイナーは非常に興味深い洞察を行っているが、到底かいつまんでは説明出来ない。今回はそのごくごくさわり、有蹄動物についてシュタイナーはどのように視ているかの一端のみを紹介したい。

まずは、シュタイナーによる人間の三分割論をごく大雑把に述べたい。人間は、以下の様に考察出来る。

*頭部・・・静的:神経-感覚系:思考の要素

*胸部・・・律動的:律動-循環系:感情の要素

*腹部(手足含む)・・・動的:新陳代謝系:意思の要素

因みにシュタイナー教育のカリキュラムは、上記の観点から子供の成長段階に対応して組まれている。

そして、「動物」とは、これら人間の一部が特化して発展した形姿をしている、という。有蹄動物を見てみよう。

まず共通して特徴的なのは、蹄を持った強靭な四肢である。
捕食者からの逃走における敏捷性もさることながら、時として四肢は攻撃の武器にもなり得る。牛や馬に蹴られたらただでは済まないし、一見細長くて華奢に見えるキリンの脚でさえ、ライオンに致命傷を与えうる脚力を持っているのだ。
また、カモシカや山羊の仲間の中には、切り立った断崖を、あの不器用そうに見える蹄で、軽々と上り下りする種も多い。

他の特徴としては、やはりあの腹であろう。植物の繊維を消化吸収する為、長大な胃腸を有している。牛や山羊等は、胃が四っつある事も知られている。
複数の胃を持つ種は、のんびり休んでいるように見えても、口はもごもご動かしている。反芻しているのだ。
反芻しない種でも、大抵は絶え間なく草や葉を食んでいる。
頭部を更に三分割すると、鼻は胸部(呼吸つまり律動の要素)で、口は腹部(消化や動きの要素)であることが分かる。
常に口を動かすのも、腹部の要素だ。

こうした考察を通して、有蹄動物は云うまでもなく「腹部の存在」であると云える。
シュタイナーは、これらの動物の代表を「牛」と呼び、頭部の代表・「鷲」、胸部の代表・「ライオン」と並ぶ「三大聖獣」としている。

「鷲」、「ライオン」、そして「牛」が一面的に有しているものを、調和・融合した存在が、人間なのだという。

してみると例の四不像は、いかに4種の動物の形姿を有しているとはいえ、その存在の本質は、「ザ・腹部」と云えよう。

さて、広大な動物園で、我々は四不像のエリアから若干コースがずれてしまった。
戻って見に行こう、と主張する私に、妻・みほちが反論。

「ヤだよ。わざわざ戻ってまでがっかりしたくない」

彼女は、かつて私と一緒に四不像を見てがっかりしたことは綺麗さっぱり忘れているくせに、それが「がっかり珍獣」であることは把握している。

「それがいいんだよ!手間をかけて見に行くことで、より『がっかり感』が増すでしょ。さぁ、がっかりしに行こう!」

私がそう主張するも、なおもみほちは難色を示し、

「ヤだって!四不像は、

 世界三大がっかり珍獣

のひとつなんだよ!」


なんだそれ!シュタイナーの「三大聖獣」ならぬ、「三大がっかり珍獣」?
参考までに「世界四大珍獣」といえば、「ジャイアントパンダ、オカピ、ボンゴ、コビトカバ」であるが、がっかり珍獣の残り二つって何なんだ?

「もう一つは、マーライオン

…って、そりゃシンガポールのモニュメントだ!「世界三大がっかりスポット」と交じってる上、実在する「珍獣」ですらないし。

「あと一つは・・・何にしようかな・・・?」

…って、それは世界基準じゃなくてオマエ・セレクションだったのかい!?

結局、娘・ぴーぽこ(仮名)が見たいと云うので、わざわざ戻ってわざわざ見て、わざわざがっかりした。

が、最もがっかりしたのは、見たいと云ったぴーぽこその人であったろう。何故なら、上記の我々のやり取りを聞いていたぴーぽこは勘違いをし、

「・・・シフゾウって、いつもがっかりしてる象さんかと思った・・・」

・・・がっかり象!?それはそれで、珍獣だ。



参考文献:「宇宙的人間論」ルドルフ・シュタイナー著/高橋巌 訳 (春秋社)

~~~~~σ.σ~~~~~σ.σ~~~~~σ.σ~~~~~

★コメントの表示を承認制にしましたので、反映に時間がかかる事があります。御了承下さい。


ブログランキング
乙女への励まし代わりに↓をクリック
σ.σ
ブログランキング・にほんブログ村へ
こちらも↓
b_04.gif
スポンサーサイト

奇跡のことば、呪いのことば

「何かの本で読んだんだけど。シュタイナーによるとね、」と、ママ友・北政所さん(仮名)が話し出す。彼女の話は、いつも興味深い。

北:「シュタイナーによると、『奇跡』の言葉って云うのは、当たり前の事を云う事なんだって。で、その逆は、『呪い』の言葉。
つまり、例えば川に向かって『川よ、流れろ!』って云うのが、これが『奇跡』なんだって」


私:「じゃぁ、『流れるな!』とか『逆流せよ!』、『枯れよ!』と云うのは・・・」

北:「そう、『呪い』」

以上の話は又聞きなので、シュタイナーが実際にどの様に述べていたのかの裏付けは無いのだが、面白い話ではないか。

植木や鉢植えに優しい言葉をかけると元気に育つ、というのは、よく聞く話だ。
「元気にすくすく育ってね」「綺麗なお花を咲かせてね」
こうした言葉は「奇跡」の部類に入るだろう。

また、ある部族は、通行に邪魔な大木を、刃物を用いずに倒すそうだ。
どうするのかと云うと、皆して、その大木に罵詈雑言を浴びせ続ける。

「邪魔だ、このでくのぼう!」

「お前なぞ倒れっちまえ!」


一~数ヶ月こう云い続けると、その木は枯れて倒れるのだそうだ。気の長い話である。
無論、これは「呪い」の言葉であろう。

いくら私が夢見がちとはいえ、こうした事例から、「植物達も、言葉が解るのね!」とは思わない。
が、「言霊」という言葉が示す通り、言葉にはなにがしかの力が宿り、その力は言葉を理解しない植物にさえ作用する、という見方は出来ないだろうか。

言葉が、民族に作用した例もある。
かつてイヌイットは、氷上に裸で生活していたそうだ。
それを見たヨーロッパ人は驚いたね。だから云ってやったのさ、
「そんな生活をしていたら凍傷になりますよ!」
ってね。
それからさ、イヌイットの間に「凍傷」が蔓延し、彼等が毛皮を着る様になったのは。

・・・って、こんな文体で書いたら、安っぽいアメリカン・ジョークだって。

ともかく、17世紀頃にイヌイットの生活に触れたヨーロッパの探検隊の常識からすれば、裸で氷の上に寝ている彼等にこうした忠告を与えたのは「奇跡」、つまり当たり前の事だったろう。
が、イヌイットにとっては皮肉にも、「凍傷」をもたらした「呪い」という形で作用した。
まさにジョークの様な話だが、「凍傷」という概念がもたらされるまで、イヌイットは凍傷に罹らなかったそうだ。

同様の事が、日本における「ストレス」という外来語の例に見られる。
「ストレス」に該当する日本語が無い事から、元来日本人は「ストレス」を感じなかったのではないか、という説がある。
「ストレス」という概念をもたらされてから、日本は「ストレス大国」に変貌した、というのだ。

ともかくも、言葉の持つ力は強大で、それがネガティブな「呪い」である程、その作用は深く及び易い。

個人的な例として、私は歌が上手い方ではないが、幼少の頃、私が楽しく歌う度、母は苦笑交じりに「音痴だ」と云っていた。
私の父は歌が上手いので有名だったが、母は苦手であった。息子の私の歌い方が、父に似れば良かったのに自分に似てしまった、という自虐の思いで、そう云っていたらしい。
その言葉が繰り返されるうちに私に浸透し、未だに歌う時はこの言葉が思い出され、楽しく歌うのが困難なのである。まさに、「三つ子の魂百まで」とは、よくいったものだ。

してみると、親が子供に発する言葉は、思っている以上に影響を与えるのだろう。
感情的に発する、「バカ!」「早くしなさい、グズなんだから!」「どうしてそんな事も出来ないの!?」
また、何気無く云った、「あなた○○が下手ねぇ」「うちの子、出来が悪くって・・・」「○○ちゃんは良い子なのにねぇ・・・(比べてあなたは悪い子、といったニュアンス)等の、「呪い」の言葉。
これらを繰り返して発しているうちに、それらの言霊が子供の魂の奥に浸透してしまう、という事を、我々親はもっと自覚し、常日頃から言葉使いに留意すべきではないだろうか。

ところで私は、娘・ぴーぽこ(仮名)を寝かしつける時、シュタイナーの「こどものためのお祈り」を、毎晩繰り返し朗読している。
シュタイナーが「そのうち子供も詩を覚え、一緒に唱和するようになるでしょう」と述べている通り、今では「夜のお祈り」や「おひさまは植物に」といった、美しい「奇跡」の詩を、二人で暗誦してから眠りに就いている。
これらは子供は勿論だが、読んでいる大人の内部にも作用するように思える。子供に向けて読みながら、親も優しく暖かい気持ちになれる、これこそ「奇跡」であり、そして「奇跡」は当たり前の事なのである。

シュタイナーに限らず、「金子みすゞ」などの詩を読んであげるのも良いだろう。
美しく暖かい「奇跡」の言葉で綴られており、親自身も心から大好きな詩やお祈りを、毎晩繰り返し読んであげると、子供のみならず親自身にも、何かしらの作用がある筈である。

ところで、こうした「奇跡」でもなければ、罵詈雑言といった「呪い」でもない、通俗で猥雑な詩は、どんな作用を及ぼすのだろう。例えば、

「きのうとうちゃんと寝たときに 変なところにイモがある 『とうちゃんこのイモ なんのイモ?』
『ぼうやよく聞け このイモは オマエを作った種イモだ』」


といった、猥歌。・・・いや、ある意味で当然の事、つまり「奇跡」を歌ってはいるが。


※「霊学の観点からの子供の教育」(イザラ書房・刊)に、詩やお祈りが数篇紹介されています

~~~~~σ.σ~~~~~σ.σ~~~~~σ.σ~~~~~

廉価本「豊臣秀吉勇将録」(リイド社)に、「脇坂安治」「播磨軍記」の2編収録。
どうぞ御一読下さい。


ブログランキング
乙女への励まし代わりに↓をクリック
σ.σ
ブログランキング・にほんブログ村へ
こちらも↓
b_04.gif

人間の本質とは(7)~人間のエーテル体と子供の記憶~

娘・ぴーぽこ(仮名)が幼稚園の頃。
帰宅したぴーぽこに、
「今日はどうだった?」
と訊ねると、判で押したように
「楽しかった~!」
と答えていた。
「何が?」
と問うと、

「忘れちゃった~!」

早ッ!もう忘れたんかい。
この様に、印象的な事以外は、大概忘れている。

小学校に上がってからも、この調子。が、あまり根掘り葉掘り聞くべきではない
それが、二年生になった今、色々な話をするようになった。
「ウール先生(仮名・担任)は、こんな風にマッチを擦るんだよ」
などと、結構細かいところまで覚えている。

子供のこうした様子から、「エーテル体」がどのような状態にあるのかが観察出来る。前回述べた通り、エーテル体は記憶力の形成をも担っているのだ。

松井るり子さんの著書のタイトルに代表されるように、シュタイナー教育では「七歳までは夢の中」という視点がある。幼時の意識は完全に目覚めてはおらず、夢見の状態にあるのだそうだ。
また、シュタイナーは、動物の意識も夢見の状態、と述べている。(因みに、植物の意識は深い眠り・ノンレム睡眠で、鉱物の意識は最も深い眠りの状態だそうだ)

さて、誕生したばかりの子供。三島由紀夫は生まれた時の記憶があったそうで、寺山修司に至っては生まれる前の記憶があったらしい。
こうした人々は例外として、大概は0歳の頃は、記憶力はまだ十分に形成されていない。
私の0歳の頃の記憶は、当時の映像とその時抱いた気持ちが、断片的に残っているだけである。

この頃の乳児は、夢見のなかでもかなり深めな、レム睡眠とノンレム睡眠の狭間といった状態だろうか。
動物の中でも下等な動物の意識に近いと思える。例えば、ミミズなどの負の走光性を持つ生物は、光を「不快」と感じ、暗い方へと進む。
乳児の意識は自分と外界とが繋がっており、外的な印象を、快・不快で捉える。
横にお母さんがいる・・・快、オムツが濡れた・・・不快、といった様に。

家族などへの認識は、まだ「記憶」を伴っていないのではないだろうか。前回の記事で述べた様な、記憶力を持たない動物の認識力に近いのかも知れない。
尤も、両親を選んで生まれてきた「魂の絆」という点を考慮に入れずに、子供の親に対する認識を語ることは出来ない。

やがて子供は、言語を獲得する。2歳頃から5歳にかけて、子供の記憶力は、エーテル体によって飛躍的に形成される。
私が2歳の頃の記憶から考察すると、この頃の子供の意識は、断片的で前後の脈絡の無い夢を見ているようなものだ。
野生動物も、こうした夢見の状態にあると思われる。

冒頭に紹介した、幼稚園時代のぴーぽこのエピソードも、夢に例えることが出来る。
目覚めてからの印象で、怖い夢やエロい夢を見ていた事は確かだが、具体的に何が怖かったのかや、どうエロかったか、夢の内容は殆んど覚えていない、という事がある。
この頃の子供の記憶も同様で、誰とどんな遊びをしたかは覚えていないが、「楽しかった」という印象は保持していることが多い。

私は4歳の頃に、よりはっきりした記憶と意識を持ったが、発達の段階としては就学適齢期、つまり6~7歳頃にこの段階に立つのが望ましいのではないだろうか。
夢の中でも、比較的一貫性のある夢がある。「自分」をより意識しており、以前見た夢と同じ場面が出てくると、「あ、ここ前にも来た」と感じることが出来る。夢の中においての記憶を、その後の夢の中でも保持しているのだ。
「今、自分は夢を見ている」と意識することすらある。
就学前後の子供の意識は、こうした夢の状態に近いのではないか。

人と暮らす犬や猫、人と関わりを持つ類人猿なども、この夢見の状態にあるのではないか、と、私は思っている。
前回、シュタイナーの思想に則って「動物には人間においての『記憶力』がない」と述べたが、実のところ、こうした動物には「記憶力」に近い何か~記憶力の萌芽、と呼べるような~が、育っているのではないか、と見ている。

この段階のエーテル体は、人体や記憶能力の形成が、ほぼ終わりかけている。
大切なのは、この時点までのエーテル体は、まだ誕生していない、という事だ。
シュタイナーによると、エーテル体はこうした活動を、エーテル的な膜に覆われた状態で行っている、という。
乳歯から永久歯への生え変わりを区切りに、エーテル体は、生命が卵から孵化したり母胎から産まれ出るように、エーテル的な膜から「誕生」し、自由を得るそうだ。

それ以後、子供は目覚めた意識としっかりとした記憶力を持つようになる。が、7~8歳頃の意識は、まだ完全に目覚める途上にある。目覚まし時計で急激に目覚めるのではなく、ゆっくりと、まどろみつつ次第に目が覚める時の意識と云えよう。

目覚めるに従い、記憶力がはっきりしてくる。冒頭に紹介した、現在のぴーぽこが、この状態に当たるだろう。

人間が目覚めた意識を持っているのは記憶力を担ったエーテル体が自由に活動しているからで、エーテル体が記憶力を形成途上の、つまりエーテル体が「誕生」する前の幼児や、人間的な意味での記憶力を持たない(もしくは萌芽状態の)動物は、夢見の意識状態にある、と云えるのではないだろうか。

つい先日、冬休み初日の日曜日。パートから帰宅した妻・みぽち、夕餉の席で、かくのたまえり。

「そういえば、ぴーぽこの学校、

冬休みいつからだっけ?


・・・オマエのエーテル体は、大丈夫か?


※・・・何故聞くべきではないのかは、近く「早期教育」をテーマにした記事で述べたい。


~~~~~σ.σ~~~~~σ.σ~~~~~σ.σ~~~~~

廉価本・「豊臣秀吉勇将録」(リイド社)に、「脇坂安治」「播磨軍記」の2編収録。
どうぞ御一読下さい。


ブログランキング
乙女への励まし代わりに↓をクリック
σ.σ
ブログランキング・にほんブログ村へ
こちらも↓
b_04.gif

人間の本質とは(6)~人間のエーテル体と記憶力~

これまで述べた通り、エーテル体は物質体に浸透し、成長や生命活動を担っている。
他にも担っているものは色々あるが、人間のエーテル体の特徴的な性質として、「記憶力の形成」というものがある。

シュタイナーによると、物質界において、記憶能力は人間のみが持っており、動物には記憶力は無いのだそうだ。

と云うと、多くの反論が出るだろう。
「ウチのウエスティ・ホワイト・テリアのエリザベスちゃんは、賢い子ざぁます!ちゃんと色々な事を覚えているざぁます!」
ご尤も。犬に限らず、あらゆる動物に知的行動は見られる。うちの熱帯魚ですら、私が餌をあげようとすると、定位置に寄ってくる。これは、熱帯魚達が「この生き物(私)がこの辺りに美味しいものをばらまいてくれる」という事を「記憶」しているからではないのか。

動物達のこうした「記憶」は、人間の「記憶」とは違うのだそうだ。「動物に記憶力が無い」というのは、「動物に物を覚える能力が無い」という意味ではない。
シュタイナーの言葉をそのまま借りると、「記憶という言葉を、植物界と動物界における諸経過のために使用しようとするのなら、人間のためには別の言葉を用意しなければならなくなる」(訳:高橋巌)のだそうだ。

次の様な場面を見てみよう。
一匹のヤマネコが、獲物を発見した。自分より小さく、ネズミやリスよりずっと食べ応えがありそうだし、動きもとろい。獲物としては申し分ない。
ところが白黒の斑模様のこの獲物、ヤマネコに気付いても逃げようともせず、奇妙な行動に出た。
逆立ちをしたのである。
が、この若いヤマネコは、この後自分に降りかかるべき災いを知らず、獲物に向かった。

この獲物とは、云うまでもなくスカンクである。ヤマネコに起きた悲劇について、詳述は要らないだろう。

数ヵ月後、このヤマネコは、再び森の中でスカンクと邂逅する。
あの、独特の斑模様を見ただけで、ヤマネコの脳裏にかつての不快が蘇る。彼は、この獲物を襲うべきではない事を、学習したからだ。
それでも空腹に耐えかね、諦めきれずにいるところに、スカンクはあの忌まわしき威嚇行動~逆立ちし、臭腺をこちらに向けて狙いを定める~を取る。
ヤマネコは、この後何が起こるかを、身をもって体験している。残された選択肢は、スカンクにあの強烈な臭液をお見舞いされる前に、その場から退散することだけである。

こうした場面を見る限り、動物にも「記憶力」がある様に見える。実際、動物達に「学習能力」があることはいくつもの事例を通して明らかだ。
が、シュタイナーの云う「記憶」とは、そうした事は含まない。

上の例で云えば、ヤマネコはスカンクや、忌まわしき体験を、「記憶」として「保持」しているのではない。スカンクという対象物によって、不快の感情が再認識されるのだ。

シュタイナーが定義する「記憶」の、最も単純なものの例として、例えばあるO.L.が散歩中、以前セクハラ係長が発した下品極まる下ネタジョークを思い出して、うすら寒い気持ちになったとする。
彼女は、散歩という、セクハラ係長とは関係ない状況下で、映像としての彼の姿や、いかにも「ウケるだろ!?」といった口ぶりで、その口から発せられた「ホッキ貝が勃起かい」という、だから何!?な駄洒落、或いは一瞬凍りついた部下達が、仕方なく愛想笑いを浮かべざるを得なかった状況等を、思い出すことが出来るのだ。
これが、単純な「記憶」の一例であろう。

もし、件のヤマネコにこうした意味での「記憶力」があったなら、毛づくろいなどしながら、「まったく、あの時はひどい目に遭った。返す返すも忌々しい小動物である」と、スカンクの一件を思い出すことが出来るだろう。
が、動物にはそれが出来ない。
「何故『出来ない』と云い切れるのか?もしかしたらヤマネコはそう考えているかも知れない。ヤマネコの内面を、我々は知ることは出来ないではないか?」
こうした反論も当然あろう。シュタイナーは、こうした問いに対して、そうした事は超感覚的にも認識出来るが、動物を観察することでも動物にそれが出来ないのは明らかだ、いう意味のことを述べている。

因みにシュタイナーは、犬と主人を例に出して説明している。要約すると、犬が主人との再会を喜んだり、主人がいなくなって寂しそうにしているのは、犬の記憶力に拠るものではなく、主人との絆が、犬の感情に作用しているからだ、といった内容だ。

動物は「覚える」ことは勿論出来るが、それはシュタイナーが云うところの「記憶」とは別物である。
知覚した事を保持し、知覚の対象から離れても再度その事を知覚できる、これがシュタイナーが定義する「記憶」ではあるまいか。
そして、そうした意味での記憶を有するのは、人間だけ、と区別する事で、人間の本質に近付いて行けるのではないか。

「なに云ってるざぁます!ウチのウエスティ・ホワイト・テリアのエリザベスちゃんは、家族も同然ざぁます!区別なんて出来ないざぁます!」
いや、それは結構な事である。むしろ他の種族を家族同様に思う心は尊い。
が、「区別」する事は、記憶力を持たない動物を軽んじ、差別する事には繋がらないし、矛盾も生じない。
人智学の視点で自然界を考察すると、動物や植物、鉱物に対して、感謝や畏敬の念を覚えずにはいられないだろう。

「それにつけてもウチのウエスティ・ホワイト・テリアのエリザベスちゃんに記憶力が無いなんて、胸糞悪い話ざぁます!」
まだ云うか。記憶力が無いイコール馬鹿という事ではない。そもそも、犬や猫、類人猿に限らず、イルカやカラスなど、高度な知能を持っている動物はいくらでもいる。ただ、そうした高い知能と人間の持つ「記憶力」とが、別物だ、ということだ。

実際、動物達はそれぞれ、人間の遥かに及ばぬ能力を持っている。全ての能力において人間に劣る、という動物は存在しないのではないか。
人間は、そうした特化した能力を諦め、犠牲にして、記憶力や思考力等を獲得し、発達させた、という見方も出来る。

この様に「記憶」について考察するのは、教育や育児~特に幼児や低学年の~に、有益であろう。
が、それについては、このシリーズの中で改めて、エーテル体との更なる関係を交えて考察したい。
それによって、幼児期や低学年期のシュタイナー教育への理解を深めていければ、と思う。

「ウチのウエスティ・ホワイト・テリアのエリザベスちゃんはクリッカー・トレーニングを実践しているから、そんな教育方法を理解する必要は無いざぁます!」
いや、人間の教育論だから。
と云うか、何なんだ、このキャラ。


ブログランキング
乙女への励まし代わりに↓をクリック
σ.σ
ブログランキング・にほんブログ村へ
こちらも↓
b_04.gif

人間の本質とは(5)~動物の「エーテル体」とメタモルフォーゼ~

エーテル体の働きの一つに、物質体(肉体)を成長させる、というものがある。これは、暫しメタモルフォーゼ~変容~を伴い、劇的に行われる事がある。
それは、特に動物界において顕著だ。

微生物の様なゾエアが、カニやエビといった甲殻類に成長したり、柳の葉の様なレプトケファルスが、ヘビの様な姿のウナギに成長したりと、枚挙に暇がない。

身近な例としては、オタマジャクシの成長を観察した事がある方も多いのではないか。
両生類のメタモルフォーゼは、実に劇的だ。
イモリやサンショウウオといった有尾目は、まだよい。特に外エラがあるまま幼生成熟したメキシコサラマンダー(ウーパールーパー、アホロートルとも)などは、
「あら~、すっかり大きくなっちゃって・・・でも、やっぱり小さい頃の面影が残ってるわねぇ・・・」
などと、親戚のおばさんのような言葉をかけたくなる。

が、無尾目、つまりカエルはどうだろう。音符のようなオタマジャクシが、あの姿に成長するのである。

面影のカケラも無い。

このメタモルフォーゼは、姿形のみにとどまらない。

まず、食性が変わる。
草食だったオタマジャクシは、足が生えた頃から雑食化してゆき、カエルになったら完全に肉食になるのだ。
また、オタマジャクシはエラ呼吸、カエルは肺呼吸と、呼吸法まで変わる。その為、カエルに変態しかけている、または変態したばかりのカエルは、しばしば溺れ死ぬことさえあるのだ。
こうした変化は勿論、内臓にまで及ぶ。

更に劇的なのは、ハエ(双翅目)や蝶(鱗翅目)、カブト虫(鞘翅目・甲虫目)などといった、一部の昆虫たちである。
彼等は幼虫と成虫の姿が全く違うばかりか、その間に「蛹」という時期があるのだ。

幼虫が脱皮を重ねて成長してゆき、十分に成長したところで、幼虫最後の脱皮が行われる。幼虫の皮が裂け、内部から蛹が登場する。これだけでも既に劇的なメタモルフォーゼである。

更に劇的なのは、蛹の内部だ。一部の器官を除き、彼らの内部はドロドロの状態になり、成虫としての体が再構築されるのだ。
恐らく、青写真としての成虫のエーテル体があり、その働きかけによって、物質体としての蛹がかくも劇的なメタモルフォーゼを遂げるのではないだろうか。

これに近い事が、実は人間でも起こっている。
水疱瘡、はしか、おたふく風邪といった小児病がそれである。って、いや、別にはしかに罹っている間に体内がドロドロになっている訳ではない。

子供の身体は、母親の胎内で形成される。子供は、大好きな母親の胎内で、体を提供してくれた母と共に、物質体としての「肉体」を作り上げるのだ。
実に尊い事ではあるが、こうして母親が提供してくれた体は、いわば「モデル」であり、必ずしも子供の魂に合致した肉体ではないのだそうだ。
子供は産まれてからおよそ七年をかけて、愛すべき母が提供してくれた体を、自分の魂に相応しい体に作りあげるのだという。
その為に、小児病の力を借りて、体を再構築するのだそうだ。例えば発疹により、皮膚はより強くなる、といった様に。

小さな我が子が、熱に苦しむ姿を見るのは、本当に辛いものだ。
が、その時子供の体内は、あたかも蛹の内部で成虫としての形姿が再構築されているかのように、自分に相応しい体を作り変えている、メタモルフォーゼの最中なのだ。

この様に、子供のエーテル体は、肉体の成長やメタモルフォーゼの為に多くの力を注ぐ。歯が生え変わる頃、その作業を終了したエーテル体は、胎児が母体から産み出されるように、「誕生」する。

さて、私の学生時代、自分の体についての関心事と云えば、ちんぽのメタモルフォーゼについてであった。
いや、下ネタでお茶を濁そうというのではない。男のお子さんをお持ちの母親の中には、息子さんのムスコさん、つまり「お孫さん」についての悩みを抱える方も少なくない。
どうも旦那さんには相談しづらい方が多いようで、私も何度となくママ友に相談されたものだ。いわばスピリチンポ・カウンセラーである。
ここで、ついでながらそのことに触れよう、というのだ。なお、「シュタイナー育児」のブログで「ちんぽちんぽ」と「ちんぽ」を連発するのも如何なものかと思うので、以後「お孫さん」と呼びたい。

さて、ちんぽいやさお孫さんのメタモルフォーゼといえば、包皮を被っているか、ムケているか、という事だ。件の関心事とはそれで、大学時代などはムケている者は「エリート」、仮性包茎は「部下」という、得体の知れないヒエラルキーすら存在していた。

乳幼児の男の子を持つママ友からの相談事もそれについてが多く、

「息子の『孫』を、今のうちからむいてあげた方がいいのかしら、そっとしておいた方がいいのかしら?」と。

かつて喜納昌吉 は「泣きなさい 笑いなさい」と歌ったが、私はこう答えたい。

「むきなさい 洗いなさい」

ただし、入浴時のみに止めておくべきだ。(むいたり洗ったりは子供が痛がらない範囲で。亀頭はこすらず、ぬるま湯でそっと流す)
つまり、清潔を保つ習慣さえつけておけばそれで十分、形状がムケているかいないかなどは重要ではない。

こうした母達の悩みや、男子の包茎ヒエラルキーが起こるのは、「ムケた『孫』が良い」という思い込みがあるからで、それは男性誌などによくある包茎矯正器具や○○クリニックといった業者が作り出した幻想に過ぎない。
そもそもそうした業者のよくあるコピー、

「包茎ボーイじゃモテないぞ!」

って、服着た上から包茎かどうかなぞ分からないだろっての。
それとも何か、自己申告か?
「俺、ムケてるゼ!」って、そんな事吹聴する男がモテるとは思えない。
また、ムケてはいるが、さしてモテない友人も知っている。

真性またはカントン包茎は別として、仮性なら問題は無いし、それが自然であることは、ミケランジェロの「ダビデ像」が教えてくれている。

尚、私のそれはメタモルフォーゼを遂げてはいないが(仮性)、ノン・シャラン。




ブログランキング
乙女への励まし代わりに↓をクリック
σ.σ
ブログランキング・にほんブログ村へ
こちらも↓
b_04.gif

  Template Designed by めもらんだむ RSS

special thanks: Sky Ruins, web*citronDW99 : aqua_3cpl Customized Version】


上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。