2007年12月

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  2. 2007/12/30 星への誓い~子供の領分~
  3. 2007/12/23 サンタ・クロースの現実とメルヘン
  4. 2007/12/17 教科書も無いが、道徳の授業も無い
  5. 2007/12/12 食育の破壊神
  6. 2007/12/09 発熱親子
  7. 2007/12/02 狸にやさしく

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星への誓い~子供の領分~

子供の突拍子もない発想は、時として大人の理解を超える。
その見本市の最たるものが、七夕の願い事であろう。

娘・ぴーぽこが通っていた幼稚園もシュタイナー教育を実践していたので、七夕の短冊は子供には書かせない(文字を教えていないので)。子供達一人ひとりの願い事を先生が聞き、それをそのまま代筆してくれていた。
大人の丁寧な文字で、子供達の願い事が書かれている為、シュールさ倍増の願い事も多々あった。

一例を挙げる。

おんなのだいがくせいになりたい(当時・年中:男子)

つまり、「女子大生になりたい」という事か。
これはまぁ、これだけ医学の発達した時代だから、性転換手術をすればなれなくはない。
後は大学受験に合格するだけである。

こんな願いもあった。

こもどおおとかげのめすになりたい」(当時・年少:男子)

四歳やそこらで「コモドオオトカゲ」という名称を知っているのもさることながら、「メス」限定かい。
性転換手術をすれば雌にはなれるだろうが、爬虫類にはなりようがない。

極めつけは、

すーぱーおどりこごうになりたい(当時・年少:男子)

くどい様だが、性転換手術をすれば「踊り子」にはなれるだろう。が、列車そのものにはどうか。
銀河鉄道999に乗って機械の体を手に入れたなら、「スーパー踊り子号」の一部品ぐらいにはなれるかもしれない。

他にも「お星さまになりたい」や、兎や猫等の好きな動物になりたい、という願いも多かった。この様に、子供の発想は自由自在である。
何故なら、この年代の子供はメルヘンの住人なのだ。だから他人にもなれるし、動物や機械、星にだってなれる。自分と他者との境界が曖昧模糊としているのだ。

メルヘンのお話で、「お花はこう云いました」と語ると、子供はスーッと花になる。そういう力を、子供は持っている。

私自身シュタイナーについてまだまだ勉強不足なので、これは飽くまで私個人の見解なのだが、こうした子供の力は、大人になってから「相手の身になって考える」という、想像力に結びつくのではないかと思う。
よく大病を患って初めて病人の気持ちが解る、等と云うが、こうした想像力があれば、大病を患うまでもなく、一寸風邪をひいた位でも、病人の気持ちに思いを巡らせる事が出来る。
つまり、「一を聞いて十を知る」という力だ。
これは私見なので、シュタイナーの本意とは違うかも知れないが。

ともかく、こうした子供の願いを、「人間はトカゲにはなれないのよ」等と否定するべきではない。
「○○ちゃんがトカゲになったら、お母さんはお日様になって、トカゲの○○ちゃんを暖めてあげるね」
等と、一緒にメルヘンを楽しむのが良いと思う。

さて、一年生ともなると、まだメルヘンの住人ながら、願いが現実味を帯びてくる。
シュタイナー学校に入学したぴーぽこのクラスの七夕の願い事も、多くはペットの昆虫の健やかな成長を願っていたり、スポーツ選手になる、楽器が上手になる等、突飛なものは無い。

そんな中、千早ふるちゃん(仮名・女子)の願い。

「かみさまになります」

こうでなくては!
彼女の願いを笑うなかれ、三十代半ばの私の将来の夢も、女神である。

また、祇園精舎くん(仮名・男子)の願い。

みんなのねがいがかないます

尊すぎるって!私も女神候補生としては、彼の心根を見習わなければならない。

これらの願い、「~ます」と、断言しているのに気付く。
これは担任のウール先生が、
「お星様にただお願いするんじゃなくて、誓ってみよう」
と提言し、クラスで取り組んだのだそうだ。

為に、幾つかシュールな文章になったものもある。

「はやく なつになります」

「早く夏になりますように」の、「ように」を取った。夏の到来を請い願う少年の心情だが、「ように」を取ると、まるで気象予報士である。

「ラニーニャ現象に伴い、今年は例年より 早く夏になります」的な。

もしくは京都議定書についての有識者の意見、

「このまま温暖化が進むと、数十年後には今より一ヶ月も早く夏になります

また、こんな誓いも。

「おにわにたくさんむしがきます」

庭に虫が来て欲しいのだろうが、これではお悩み相談のようである。

Q:「お庭に沢山虫が来ます。どうすれば良いでしょうか?」

A:「殺虫剤を捲きなさい」

もしくは点取り占い。

「お庭にたくさん虫が来ます。  2点」

さて、我が娘・ぴーぽこの願いは、というと、

おかねもちになります

・・・・・・「みんなのねがいがかないます」、ように・・・。

たなばた 002

教室内の、7月の「季節のテーブル」。祭壇係の私は「織姫」を作成。
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サンタ・クロースの現実とメルヘン

ある知人は、子供の頃、サンタクロースは存在しない、と知って、とても失望したそうだ。
だから、自分の子供にその失望を味合わせたくない、との理由で、最初から
「サンタは居ない」
と教えたそうだ。

その方の「子供を失望させたくない」という思いは否定しないが、私からすると、非常に勿体無いと思う。
私自身も確かに失望した体験はあるが、それ以上にサンタを信じる、という体験は大きな宝だと思う。

第一、サンタクロースほど子供のメルヘン心を刺激するものはないだろう。尤も巷にはサンタクロースの像が溢れ、子供達が想像力を働かせる余地が無いのはいかにも残念だが、子供が身近に感じる事が出来るメルヘンには違いない。

以前も触れたが、メルヘンは子供の感情を育むし、子供の心を支える働きもある。
例えば「聞き耳頭巾」という話では鳥獣草木が会話をするが、概ね九歳位までの子供は、動物や植物、または鉱物にまで心を同化させてメルヘンに浸り切る力がある。
それ以後の歳になると「動物や木が話なんかする訳無い」と、メルヘンから離れていくが、その代わり子供それぞれの「個」が育っていくのだ。
「個」が育つ下地に、メルヘンは重要な役割を果たす。

シュタイナー学校で行われる「クリスマス・アドヴェント」でも、渦巻きの道を通ってリンゴろうそくに火を灯すのは、メルヘンの力が及んでいる三年生までである。

さて、先日一年生の娘・ぴーぽこに、サンタさんに何をお願いするかかまをかけてみたところ、

「教えない」

と、一刀両断。何故かと問うと、
「回送ちゃん(仮名・三年生女子)が、『人に話すと叶わなくなる』って云ってた」
・・・。それは初詣の願い事とかで、回送ちゃんはそれと勘違いしてるんじゃない、とかなんとか誤魔化して聞き出したところ、

「ヴァイオリン」

高額すぎるって!

何にせよこの学校では、高学年からヴァイオリンの授業があるから、それまでのお楽しみにして貰う。

この様に、ぴーぽこは勿論、三年生の回送ちゃんも、まだまだサンタさんの存在を信じている。
いや、私自身、未だに信じている、と云うか、サンタさんはいるッたら、いる!!

イタい人と思わば思え。ただ、私も馬鹿ではない、実際に赤鼻のトナカイが赤装束のメタボの疑いのある老人をソリに乗せ、空を飛んでやって来るなどとは思ってはいない。

そもそもサンタのあのスタイルは、絵本起源説や、アメリカの某飲料メーカーのテレビCMによって定着した、等、色々に云われているが、こっそり、子供に気付かれない様に来るのなら、あんな真っ赤な服では目立って仕方が無いだろう。
まぁ、赤装束は「殉教」を意味する司祭服が元となっているようだし、日本のサンタとも云うべき「歳神様」も赤い着物を着ているのだから文句を云っても仕方が無い。

余談だが、オスのトナカイの角は冬に抜けて生え変わる。だからサンタのソリを曳くトナカイは、メスという事になる。(トナカイはメスにも角があり、メスの角は春に生え変わる)

こういった偶像的なサンタはともかく、四世紀頃、トルコ辺りに「セント・ニコラウス」という司教がいた。
貧しい人々を救済した事で有名だが、この「セント・ニコラウス」をオランダ語で「ジンタ・クラース」とか発音するらしい。それが訛ってアメリカに伝わり、「サンタ・クロース」となったようだ。
実際、ヨーロッパではニコラウスの命日である12月6日にお祭りがあり、クリスマス当日はしめやかに過ごすそうだ。

ともかく、サンタのモデルとなった聖人が、かつて存在した。それが、「サンタ・クロース」という、神様だか妖精だか天使だか、そういった存在になって、子供達を見守っている。

これはサンタに限った事ではなく、七福神のメタボでお馴染み、布袋和尚も、かつて中国に実在した人物である。
また、縁起物の「達磨(ダルマ)さん」や「福助」も、実在した。

ともあれ、そういう肉体を持たない存在としてのサンタさんに代わり、我々親が、子供達にプレゼントを渡すのだ、と、私は思っている。
子供達を慈しむ心。それが、サンタ・クロース。
そういう意味で、私は「サンタはいる」、と思っているのだ。

いずれぴーぽこもメルヘンから離れ、サンタの存在を疑い出すだろう。
その時はサンタ自体を否定せず、メルヘンからも少し脱却しつつ、こういった思いを上手く伝えたいと思っている。

去年のクリスマス、ぴーぽこは、「サンタさんへのプレゼント」と称して、キャンディを三粒、枕元に置いて寝た。
今年はキャンディに加え、折り紙で赤と緑のリースを作っている。
アメは舐めれば証拠隠滅できる。が、リースをどうするか。
捨てる訳にもいかないし、私が持っておく訳にもいかない。
クリスマスを目前に控え、頭を悩ますと同時に、プレゼントを貰うだけではなく、自分もサンタさんにプレゼントしたい、という、ぴーぽこの心の成長に感動もしている。

いや・・・「サンタさんへのプレゼント」と云えば聞こえは良いが・・・



・・・賄賂

教科書も無いが、道徳の授業も無い

定期的に行われる「学習発表会」は、特に低学年の子供達には良い刺激になるようだ。
まず、高学年のお兄さん、お姉さん達に、憧れが生じる。

「あんなに上手にヴァイオリンが弾けるんだ!」
「オイリュトミーであんな風に動けるなんてすごい!」
「外国語で詩が朗読出来るんだ!」

そして、それが身近な目標になる。自分もあの学年になったら、ああいう事が出来るようになるんだ、と。

実際、ぴーぽこは、発表会の度に上級生の真似をしては、「早くあれがやりたい!」と、眼を輝かせている。
具体的な憧れ、目標の存在が身近にいる。子供達にとって、実に贅沢な環境ではないか。

さて、そんな発表会で、私にとって特に印象深い発表がある。
それはぴーぽこが新入学前の去年の事、現6年生が5年生の頃の発表であったと思う。

そもそも、シュタイナー学校には、教科書が無い。
それぞれの子供達の「エポックノート」が、そのまま世界で一つの教科書となるのだ。つまり、教科書を自分で作る。

なので当然、教科書に公式が予め載っている訳ではない。
では、子供達は公式を、いかにして学ぶか。その答えが、当時5年生の発表にある。

子供達は、まず、長い板を持ち出し、簡易なシーソーを作った。
それぞれの両端に、体重が違う子が乗り、釣り合う場所を探す。
そうして、

「私達は中心(支点)からの距離と重さとの間に、法則があるのを見付けました」

と、発表。なんですと?「てこの原理」を自ら発見したですと?キミらはアルキメデスかね?支点を与えれば、地球を動かしてみせるかね?エウレーカ!!

ここで実験が始まる。一人の子がシーソーの端に立ち、もう一端に他学年のカラヤン先生(仮名)に釣り合う位置を探して立って貰い、カラヤン先生の体重を当てる、と云うのだ。簡単に例えると、こういう事だ。

              ●            ○(30kg)
      _________________
              40cm △  80cm

この状態で釣り合っている時、●の重さを求めよ、と。
この場合は「支点からの距離×重さ=支点からの距離×重さ」なので、●をxとすると、

x=80×30÷40=60、●の重さは60kgとなる、のか?理数系は苦手なので確信は無いが、多分こうなる。

さて、では実際、カラヤン先生の体重は?
子供達、計算を始める。

で、発見した法則って?

それには一切触れないまま、計算する子供達。
そして、計算によって導かれた答えと、実際にカラヤン先生が体重計に乗って出た数値は、2kg程違った。
微妙ではある。が、誤差の範囲と云えなくはない。

が、子供達はこの結果に納得いかない面持ち。

で、キミらが発見した法則って?

それには一切触れぬまま、発表終了。
って、キミ達、折角キミらが発見した「法則」とやらを発表しなければ意味が無いでしょうに!

ともかく、子供達がこの様に、実際に体や道具を使い、教科書に頼らず皆で思考して公式を見付ける、というのは分かった。
公式をまず丸暗記する、という、我々がやらされていたやり方とは全く違う。

さて、この発表会の直後、新入学予定の父母の会で、当時5年生のこのクラス担任のフローレン先生(仮名)が、発表の舞台裏を話して下さった。

子供達は発表直後、早速自ら反省会を行ったそうだ。何故、2kgもの誤差が生じたかを検証し、計算において迷った末に切り捨てた小数点を、改めて切り捨てずに計算し直したところ、より正解に近い結果が出て、残念がっていたそうだ。
この向上心は素晴らしい。

また、何故、例の「法則」を発表しなかったのか。これを発表するか否かが、事前に話し合われたそうだ。
子供達が出した結論は、こうである。

「自分達がこの『法則』を今発表してしまえば、下の学年の子達がこの『法則』を発見する喜びを奪ってしまう事になる、だから発表しない」

なんですと!?意図的に発表しなかったんですと!?

子供達は勉強を「やらされている」のではなく、本当に「知る・発見する喜び」を持って勉学にいそしんでいる事を再認識する。同時に、その喜びを後輩の為に残しておく配慮まで身に付いているのだ。

私だったら鼻高々に、
「どうよ、この法則、うちらが発見したのよ、アルキメデスの再来よ、もっとうちらを尊敬しても宜しくてよハハァ~ン、エウレーカ!!」
てなもんである。

現在、ぴーぽこら1年生の掃除のお手伝いを、この当時の5年生、現6年生がしてくれている。
ぴーぽこは、6年生は皆、優しくしてくれる、と云う。
6年生に限らず、上級生は総じて下級生に優しい。先日などは休み時間に、7年生達が1年生を相手に鬼ごっこをしていた。皆、本当に楽しそうな様子で。

シュタイナー学校では教科書も無いが、「道徳の授業」も無い。
そんな授業をわざわざ設けずとも、日々の生活、授業、遊びを通して、「優しさ」は身に付く。

食育の破壊神

私が初めてカーリー先生(仮名)を見たのは、娘・ぴーぽこが入学前、二年前のオープン・スクールの時であった。
推定年齢・10万70歳は超えているであろう、恰幅の良い老婆である。
その老婆が、働く子供達を叱咤激励していた。いや、「叱咤激励」と書くと聞こえが良い。どちらかと云うと、「女版・毒蝮三太夫」とも云うべき口汚さで野次を飛ばしているのだ。

「ホラ、そこ、何やってんだい!シャンとするんだよシャンと!この馬鹿野郎!!」

といった具合に。
私は度肝を抜かれた。シュタイナー教育の現場には似つかわしくない。
妻・みぽちなどは「あの婆さん、何処で拾ってきたン!?」等と云っていたものだ。

入学して聞いたところによると、このカーリー先生、現在の学童体制が整う以前、この学校の学童を支えて下さっていたという。今でも時々学童のサポートに入って下さっているそうだ。
驚いた事に、意外な程親達からの信頼が厚い。
いささか口汚くはあるが、それ以上に子供達を見守る眼力、洞察力は確かなものであり、それは子供達への慈愛に裏付けされたものらしい。
現に子供達もよく懐いている。ある高学年の男の子等は、カーリー先生と軽く云い合いをした時に、露骨に不愉快な表情を浮かべていた。いくら子供とはいえ、赤の他人に対して出せる表情ではない。恐らく家族にしか見せない表情を、心許せるカーリー先生に対しては見せているのではないだろうか。

このカーリー先生、事ある毎に子供達におやつを差し入れして下さる。
さて、シュタイナーは百年前から、今で云う「食育」に通じる事も述べている。
食材をただの物質として扱うのではなく、それが形成される過程にまで目を向け、そのエネルギーも込みで意味のあるものと説いているのだ。
例えば大麦等の穀物は太陽のエネルギーを浴びて形成される。それらを食べる事で、我々の中にも太陽のエネルギーを取り入れる事が出来る、というのだ。

また、我々の頭部に当たるのは、植物においては根である。だから頭部の形成力が弱い人は、積極的に根菜を摂る事で補える。
この辺り、シュタイナーは色々と面白い考察を行っているので、またいずれ詳しく紹介したい。

「エネルギー」と云うと分かりにくいかも知れないが、例えばこうだ。
日本では古くから浄化の為に、「盛り塩」というのを行う。これは浄化のパワーがある「海」の塩を置く事で、その周囲を浄化する。
ところが、これが科学的に精製された塩では浄化の役には立たない。それはただの塩化ナトリウムという物質にすぎず、せいぜいなめくじが避けて通るだけの事だ。

この様にシュタイナーは、食材にもそれぞれのエネルギーがあると述べているので、シュタイナー教育を目指す人は極力ジャンクフードを避け、自然食を求める傾向が強い。

さて、以前の学習発表会での事。
進行役のキャベツ先生(仮名)が、来賓席のカーリー先生の紹介を行う。ざっと略歴を紹介した後、
「カーリー先生は子供達の食育を大事にして下さっていて、今日も子供達に沢山のおいなりさんを差し入れて下さいました」

会場に拍手が起こった次の刹那、カーリー先生、すかさず大声で、

「それと、コーラの飴もね!」

・・・我が耳を疑う。「食育」と云ってる傍から「コーラの飴」って。食育とはおよそ対極のジャンク・フードである。
「コーラの飴」、「甲羅の飴」、つまり「べっ甲飴」か?等と勝手に解釈しようとする私。そこに再度、

コーラの飴、コーラの飴

と、云い切る。
キャベツ先生も自ら「食育」と紹介した手前か、「コーラの飴」はスルーの方向で。
躍起となって

「それとコーラの飴だよ、コーラの飴!」

と連発するカーリー先生。
「食育」「ジャンク」もさる事ながら、「おいなりさんコーラの飴」という取り合わせも如何なものか。まさに「清濁併せ呑む」の精神。

数日後、その日は一寸したイベントの日。
校庭で夏の日差しを浴びて力仕事にいそしむ父達を尻目に、私は室内で母達と共に食べ物の仕込みを行っていた。
そこに、カーリー先生登場、
「皆で食べな!」
と、テーブルに無造作にのキャンディを広げる。
「いただきま~す!」と青色2号の塊を頬張る私に向き直ったカーリー先生、
「あんた!あたしゃ前からあんたに聞いてみたかったんだよ!」
改めて見ると、化粧が厚い。シャドウのキリリと入った目で私を見据え、

「あんた、男か女か、どっちだい!?」

私が生物学上はオスに分類される事を告げると、

「あぁ、ぶら下がってるほうかい!!」

って、何だ、その分類法!ぶら下がってるって、何がだ!?・・・おいなりさんか。
更にこの破壊の女神は、

「あたしゃ酔っ払うとち○こま○ことかそんな話ばっかだよ!」

て、聞いてねーよ、そんな事!真ッ昼間、神聖な学び舎で、何を大いばりで口走っとるか!

・・・ともかく、この破壊神・カーリー先生とは、仲良くなれそうな予感。

発熱親子

欠席知らずだった娘・ぴーぽこ(仮名)も、先日発熱し、ついに学校初欠席と相成った。
頭痛、及び熱のせいか膝関節の痛みを訴えるぴーぽこ。これだけなら下手に薬等に頼らず、自然治癒力に任せるところではあるが、左耳にも痛みを訴えた為、病院に連れて行く。

と云うのも、私自身、子供の頃の発熱が原因で、右耳の聴力を失っている。
方耳が聞こえなくても多少の不便はあるが、日常生活は普通に送れるものだ。また、こうしたプチ障害を持つ事で、健常では得難い経験もしたので、別段方耳が聴こえない事が負い目にはなってはいない。
が、それは飽くまで当人の感想であり、母親はそう簡単に割り切れるものではないらしい。未だに「親の自分がもっと早く気付いて対処していれば、息子の耳は聴こえなくならなかったかも知れない」と気に病んでいる。「気にする事は無い」と再三云ったが、おいそれと切り替えられないのが「親」という生き物なのだろう。

こういった経緯もあり、ぴーぽこの耳の痛みにはナーバスになった。
自分自身の事は割り切れるが、娘の事となると、私の母同様そうはいかない。ともかく「人事を尽くして天命を待つ」、親として可能なだけの事をし、その上でぴーぽこの方耳が聴こえなくなったら、それは受け入れるしかない、と腹を括る。
不幸中の幸いなのは、私が聴こえないのは右耳、ぴーぽこが痛がっているのが左耳。仮にぴーぽこの左耳が聴こえなくなっても、私が右側、ぴーぽこが左側に立てばお互いの話が聞き取りづらい、ということは無い。
大袈裟かも知れないが、実際方耳の聴力を失っている身としては、ついついそこまで考えてしまう。

そこまで覚悟をして出た診察結果は、「急性中耳炎」、数日分の薬を貰い、事無きを得た。

熱も大分ひいて回復に向かっていたある夜、ぴーぽこが「痛い、痛い」と嗚咽しつつ目を覚ます。
ぶり返したか。痛む箇所をさすってやらねば。・・・痛むのが、耳だったら・・・と、再度不安がよぎりつつ、「どこが痛いの?」
ぴーぽこ、涙を流しつつ、

「しっぽ」

寝惚けるにも程がある、オマエに尻尾など生えていない!
自分が森の小動物ではない事を自覚するや、すぐにスヤスヤ白河夜船。尻尾で釣りする夢でも見たか?

以後回復したぴーぽこと入れ替わる様に、今度は私が発熱。
丁度編集さんから電話があり、熱が出ている事を告げると、
「病院には行きました?え!?行ってない!?行った方がいいですよ!インフルエンザの予防接種は受けました?え!?受けてない!?受けた方がいいですよ!」
と、至極尤もなアドバイスを頂く。

そもそも我がシュタイナー学校では、予防接種を受ける人の方が圧倒的に少数なのだ。病み上がりの親に、
「熱出てたんだって?大丈夫?インフルエンザ?」

「病院行ってないから分かんな~い」

という母同士の会話は日常茶飯事。
予防接種を受けようが受けまいが、インフルエンザに罹る時は罹るし、罹らない時は罹らない。罹ったら罹ったで、そこには罹るだけの意味がある、と考えている。
無頓着なのではない。勿論日常的な予防はするし、健康への意識も高い。
ホメオパシー(※1)、針灸や整体(特に『野口整体』※2)等の根本療法に、必要とあらば西洋医学のお世話にもなる。どちらか一辺倒ではなく、症状に応じてそれぞれを取り入れる柔軟性も持っている。

シュタイナーは病気についても様々な考察を行っているが、健康ならウィルスがいても罹患しない、と述べている。植物も健康なら虫に食害されない。
また、戦時下で負傷兵の傷口に蛆が涌いたという話を聞くが、蛆が食べるのは化膿したり壊死したりした細胞のみであり、健康な細胞は食べないそうだ。

また、シュタイナーによると子供にとって必要な病気もあると云う。
例えばおたふく風邪やはしか、水疱瘡等の幼児が罹り易い病気。
子供は母の胎内で、身体を形成する。生れ落ちてから、形成が不十分なところを補う必要があるが、それをこれらの小児病に罹る事で、熱の力等を利用して、形成しなおす。そうして、より強い内面なり免疫力なりを、自分の内部で作り変えてゆくそうだ。
だから少なくともこれら小児病の予防接種を行う、という事は、子供がその身体を作る事を妨げる行為に他ならない、という。

私自身、理屈では分かったような分からないような感じではあるが、自分の幼少期の発熱時を思い起こすと、確かに自分が蛹にでもなったような、羽化を前に身体を作り変えている、という感覚は分かる。

余談だが、私が方耳の聴力を失ったのも、そうした人生を歩む事を自らの魂が選択し、発熱によってそのような身体に作り変えた、とも云える。病気や障害を前向きに捉えれば、という前提があるので、これを一般的に当てはめる積りは無い、飽くまで「私自身の場合」である。

シュタイナーが重視しているのは、人体のリズムに則した健康な身体作りなのだ。ゆえに、安易に予防接種を受ける・子供に受けさせる親は、シュタイナー学校では少ない。
尤もその分、より子供の健康状態に配慮する姿勢が問われるのも事実。

病気を単に忌むべき災いで済ますのではなく、その裏の意味や恩恵にも目を向け、対処してゆく事が大事だ、というのが、シュタイナーを通じて私が感じた事である。

さて、私の熱は予想以上に長引いた。
ぴーぽこが熱で苦しんでいた時、添い寝してぴーぽこの横顔を見詰めながら、
「気の毒に・・・代われるものなら、代わってあげたい。。」
と思ったものだが、その祈り通じてぴーぽこはすぐ回復し、代わりに私が発熱したのなら、それは本望だ・・・

こう書くと、いかにも良い親っぽいだろう。
だが、こんなに長引くんなら、今後身代わりは真っ平御免だっての。


※1・・・同種療法。欧米ではかなり一般的だが、「疑似科学」、「プラシーボ効果」などの評価もある。私自身や周囲の効果を見る限りは、割と効果があるように思えるのだが。

※2・・・野口 晴哉が創始した整体。私自身詳しくないので詳述は避けるが、体癖論や愉気法等、独自の理論・方法論に基いている。

狸にやさしく

子供というのはミニクイズが好きな生き物で、先日も娘・ぴーぽこ(仮名)が、こんな出題を。
ぴーぽこ「おとうさん、今日学校で、何の動物を見たでしょうか?」
私(真面目に)「猫?」
ぴ「違う」
私(冗談で)「じゃぁ・・・?」

「 当 た り 」

・・・って、正解かい!?
私としては、ぴーぽこの「狸なんている訳ないじゃん」というツッコミを想定してのボケだったのだが、それがよもや正解とは。ボケ殺しである。

それにしても、ここは23区外とはいえ、まがりなりにも東京都内、最寄り駅周辺はそれなりの繁華街、そこから住宅街を挟んで徒歩10数分のこの学校に、狸が出るとも思えない。
また、狸の様子を聞くと、昼日中つがいで現れて、子供達が見守る中、暫し逃げずにくつろいでいたという。
元来、狸は夜行性、性質は臆病なものだ。急に驚くと失神し、「死んだか」と思って近付くと、息を吹き返して逃げ去る、そこから「狸寝入り」という言葉が生まれたぐらいのものだ。そんな威風堂々とした狸は聞いた事が無い。

考え得るのは帰化・野生化したアライグマ。これを狸と見紛うた。アライグマは可愛い外見ながら凶暴である、子供にとって危険度は高い。

担任のウール先生(仮名)との連絡帳を通して聞いてみると、矢張り狸に相違ない。以後、本来子供の様子をやりとりすべき連絡帳に、半分近く狸の話題を書く私。

・・・私も狸を見たい!会いたい!

そんな私の願いは、日を置かずあっさり叶う。生徒のオイリュトミー発表会の日、親達が外で待機していたら、「狸!狸!!」の声。
見ると、確かに紛う方なき狸が一匹、門前の道路を普通に歩いて、藪へと消えていった。あたかも、野良猫の様なナチュラルさで。オマエは野生動物だろ、もっと夜走獣らしく振舞いなさい、なんだ、そのスナック感覚の出没っぷりは!と、説教の一つもしたくなる。

ともあれ本当に狸はいた。

シュタイナー教育においては、子供の「直接体験」を重視する。
土や石、木や草花、虫などの生き物に直接触れ、見、嗅ぎ、自然の音を聞く。食べられるものは食べてみたり、とにかく五感を使って自然に触れる。
この時、例えば植物の名前ぐらいは教えるが、「○科に属する○年草で~」などといった知的な事は教えない。それらは高学年の「植物学」で学べばよい。
それより、「この花をこうして舐めると甘いよ」とか、「この葉っぱで笛が出来るよ」「こうすると花の首飾りになるね」という遊びが、子供にとって、重要なのだ。
このように動物、植物、鉱物に触れた子供の心は、次第に「世界」に対して開かれてゆく。

してみるとこの学校を取り巻く環境は、有難い事に実に恵まれている。
通学路の緑道は澄んだ小川が流れ、鯉やハヤ、時にはオイカワ等が泳ぐ。
水鳥も多く、鴨の親子は無論、シラサギやカワセミ、先日なぞは鵜までいた。
子供達は熊笹の葉で笹舟を作っては、この小川に浮かべる。
また、シャガやムラサキシキブ、曼珠沙華などの季節の花、春は桜に秋は紅葉と、長くなるので割愛するが、私がモンゴメリだったらこの緑道の描写だけで10ページは軽い。

また、緑道から学校を挟んだ向こうを流れる多摩川の景観、私がモンゴメリなら2、30ページは軽い。
改めてこのような自然豊かな環境を鑑みれば、狸がいたとて不思議ではないかも知れない。ただ、臆病で夜行性の狸は、普通不用意に人前に姿を現さないだけだ。

数日後、親の「朝の会」の最中に、学校の干し柿を、狸が今まさに食べている、との報告が入った。私と数人の母達は、不謹慎にも朝の会を抜け出し、子供達が作った干し柿を吊るした場所に向かう。
現場では、件の狸が当たり前のような顔で、下段の干し柿をはむはむと頂いている最中。手を伸ばせば届く距離まで近付いても逃げようともせず、半熟の柿を食み続けている。

その狸の姿を見て、胸が痛んだ。
背中から脇腹にかけての体毛が殆んど抜け落ち、地肌が露呈している。背中の一部などは赤くただれている。皮膚病だろうか。また、毛の抜け方から、副腎の病気によりホルモンバランスが崩れた可能性もある。
目も、よく見えていない様である。
無事にこの冬を越せるだろうか。

ともかく生徒達が吊るした干し柿を拝借している狸を、母達は誰一人追い払うでもなく、優しく見守り続けた。
衛生上、狸の爪が届く範囲の柿は、子供達には諦めて貰うしかない。
それより、この狸が、これから本格的に到来する冬の寒さを乗り切る事を願うばかりだ。

ぴーぽこら一年生は、皆狸が大好きで、外での授業中に狸が出るとそれは大喜びで見ているそうだ。
狸も心得たもので、子供達が見守る中、毛づくろいなどしては(たいして毛も残ってはいないが)やがてどこかに去って行くという。
身近で野生動物を目にする、という貴重な「直接体験」、この狸の存在は、きっと子供達に自然への優しさや慈しみ、といった事を教えてくれるように思えてならない。

それにつけてもこの学校、最近鼠や猫も現れた。そこに持ってきて、狸。
順不同だが、ときたら、今にカッコウもやって来るに違いない。
って、それじゃ「セロ弾きのゴーシュ」だっての。

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