2008年03月

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  2. 2008/03/17 動物園で子供観察
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  4. 2008/03/02 妖精の子は妖精

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動物園で子供観察

来年度の新入生を迎えるに当たり、各学年の教室移動及び新教室作りが、春休み初日に行われた。
父が中心の力仕事・大工作業チームと母による内装・清掃チームに分かれて作業するのだが、私はこれまで力仕事は避けてきた。

何故なら、私は、妖精だから。

いや、実際非力の私がいたところで足手纏いにしかならないし、筋肉痛や、また、手や指先を負傷しようものなら、本業に響く。
かと云ってこうした全体作業の時にまで、いつもの様にすまして母チームに混じっているのも気がひける。

こうした海の物とも山の物ともつかない私は、もう一つの仕事に就いた。

それは、「保育チーム」

親が学校の作業をしている間、低学年の子供達には保育が必要になる。
ウズメさん、さきすけさん、いいちこさん(いずれも仮名)、そして私の四人の引率の許、一年生は近場の動物園に行く事になった。

「学校では皆力仕事で大変なのに、動物園とは楽しそうですなぁ、結構な御身分ですなぁ」などと思うなかれ。一年生の子供達及びその弟妹の幼児、都合十五人をお預かりし、事故等が無いよう気を配りながら引率するのも、責任ある重要なお役目なのだ。

動物園ではウズメさんが中心になり、子供達が迷子にならぬよう、学校でお散歩に出掛ける時のように二人ずつ手を繋いで並ばせて移動する。
が、子供達のテンションは否応なく上がる。そのうち早く先に行きたくて走り出す子が出る。それにつられて他の子達も次々に走り出す。

こうした餓鬼どもを大人しくさせるのは簡単である。
やすめ、きをつけ。まえへならえ、なおれ。こうしてまず身体を縛る。そうして、列を乱した餓鬼は上から怒鳴りつけ、なんなら見せしめに拳骨の一発も頭上にお見舞いして、心を縛れば、餓鬼どもは大人しく云う事を聞く。私の子供の時分は、これが大人達の常套手段であった。

が、シュタイナー教育ではこうしたやり方はしない。これは子供達の自由を縛る行為以外の何者でも無い。

かといって、野放図に、子供達がそれぞれ行きたいように、やりたいように野放しにする事もしない。それは履き違えの「自由」である。

では、どうするか。「手を繋いで、皆で一緒に行こうね」などといった簡単なルール、約束事を子供達に渡してやればいい。やればいいのだが。これが簡単にはいかない。
所詮我々はシュタイナー教育の素人、少し気が緩むと子供達の列も乱れ、気付くとバラバラになる。

面白い事に、「次は狸に会いに行こう!」などと目的を持たせると、目的に向かう意識やそれぞれのペースが違うので、列は縦に拡散する。
かと云って今度は目的を持たせないと、周囲の色々な事に意識が向かい、列は横に拡散する。

後で思ったのだが、「皆で楽しく歩くこと」を目的にすれば良かったのかも知れない。
例えば、一人の子が歌い出した時、他の子達も自然に唱和し、その間は列は乱れず、楽しそうであった。
「子供が全員揃っているか」「安全か」「次のルートは」「時間は」など、そういった事で頭が一杯だったが、動物が出て来る歌でも歌いながら歩けば、もう少し違っていたかも知れない。

さて、シュタイナーは「四つの気質」に着目、重視していた。詳しくはまた改めて述べるが、「動物園」という場所は子供達の気質を見抜く上で、格好の手がかりになるのではないだろうか。

ある動物を少し見たらすぐに飽きて、どんどん次の動物を見に行きたがる、典型的な多血質の子。

一方、マイペースに動物をずっと眺めてなかなか檻の前から動かない粘液質の子。

粘液質の子がずっと見ていたオランウータンが、ふいに面白い動きをする。「わァ~、面白~い!」
歓声を聞き付け、「なになに?」と素早く戻って来る多血質の子は、動物の動きに「わぁっ!」と喜ぶが、すぐにまた別の動物に気持ちが移る。

列からどんどん先に行くのも多血質、または次の目的にどんどん向かいたがる胆汁質
「大人より先に行かないって約束だった筈だよ」と注意をすると、(あぁ、そうだった)という顔で列に戻る。短気な熱血漢の胆汁質の子は、今度は他の子が私より二、三歩先に行っただけで、
「大人より先に行っちゃ、いけないんだよ!」
と注意する。(オマエが今、まさに云われたばっかの台詞じゃん!)と、内心苦笑せざるを得ない。
だが、前方に何か発見すると、云ったそばから忘れてまた先に走り出すのだから、子供というのは面白い。こういう子は、胆汁質多血質の混合気質かも知れない。

また、可愛い動物が好きなある女の子に、何度か「ほら、あそこに兎がいるよ、可愛いね」等と話し掛けたところ、その子は私を「可愛いものに共感が出来る仲間」と見なしたものか、その後ヒミズやイタチ、川鳥のヒナ等、可愛い動物を見付ける度に静かに私に近寄り、穏やかな声で「ぴーぽこちゃんのお父さん、可愛いヒナがいるよ、ほら」などと教えてくれた。
他人に気を配り、繊細な優しさを持った、憂鬱質ならではの言動ではないだろうか。

尤も気質は混じり合っており、これらの事だけで子供の気質を決め付けられる訳ではない。クラス全員の子供達の気質全てを正確に見抜くのは、熟練の教師でも至難なのだそうだ。

動物達より子供達を見ている間に、夕方が近付く。
一年生は授業でよく散歩に出掛けるが、これら子供達をいつも立派に引率している担任のウール先生(仮名)の偉大さを、改めて感じ、感謝を深めた一日であった。

帰宅後、娘・ぴーぽこ(仮名)は早速妻・みぽちに、印象深かった動物について話し出す。

ぴーぽこ:「おかーさん。あのさ、ゴリラみたいな動物で、バウムクーヘンっているでしょ?」

みぽち:「??・・・・・・もしかして、オランウータンのこと?」

ぴーぽこ:「そうそう」

って、なにがシレッと「そうそう」だ!

バウムクーヘン

オランウータン

合っているのは七文字中、わずかに「ー」と「ン」のみ・・・。


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カッコウに憧れて

ある日、一年生の娘・ぴーぽこ(仮名)が、俄かにこんな事を云い出した。

「おとーさん。うち、八年生まではこの学校に行きたい」

いや、授業料さえ払い続けられれば、十二年生まで行かせるつもりだが。
聞けば、十二年生まで勿論行きたいが、最低でも八年生までは絶対に行きたい、という事らしい。
だが、何故「八年生」なのか。
実はこの数日前、八年生による演劇の発表会が行われたのだ。

「うちも八年生になったら、あれ(演劇)をやりたい」

と云うのだ。

八年生に限らず、シュタイナー学校では授業の一環として、よく演劇を行う。
シュタイナー教育と演劇についての詳細はまたの機会に改めるが、ともかく八年生の演劇は、特に重要性を持つ。
八年間に渡る小・中学部を卒業し、九~十二年生という高等部に進学する、その節目として、子供達の手で演劇を作るのだ。

さて、今年の八年生の演目は、

「アルパカが贈る三つのお話」

アルパカって。南米に生息する、偶蹄目らくだ科の毛だらけの草食獣が、どんな物語を贈るというのか。
聞けば「アルパカ」とは、宮澤賢治の徒名だとか。宮澤賢治が農学校教員時代、「アルパカに似ている」という理由で、生徒達が親しみを込めて賢治をそう呼んでいたいたらしい。特に、口元がアルパカ。そんなピンポイントな特徴で、付いた徒名が、アルパカ

この劇は、宮澤賢治の三つの作品、「猫の事務所」「ポランの広場」「セロ弾きのゴーシュ」により構成されている。

会場は、何年か前に「モンゴルの学び」で校庭の端に建てた、「ゲル」と呼ばれるモンゴルのテントの様な移動式住居。
さして広くもないゲル内に、生徒や教師、親や来賓の方々がぎっしりとひしめきあって座る。まるで桟敷、芝居小屋と云うよりは見世物小屋、
「親のォ~因果がァ、子に報いィ~・・・」
との口上で蛇女でも出てきそうな塩梅である。

さて、開演。物語は宮澤賢治と生徒達の授業風景から始まる。てっきりオムニバスで演じるのかと思ったが、「賢治が生徒達に、自作の童話を聞かせる」というコンセプトで、上記の三作品が展開されてゆく。見事な構成である。

演技もなかなかのもの。特に「猫の事務所」の「かま猫」がしくしくと泣き出すところは私のツボであり、思わず私もしくしく泣きそうになる。と云うか、一寸泣いた。
また、「ポランの広場」の粗筋を語る賢治役の子の一人芝居や金星音楽団・楽長の熱演ぶりも素晴らしい。男子ながらに母鼠を演じる編入間も無い生徒も、すっかり板に付いている。

この学校らしいのは、「セロ弾きのゴーシュ」で子供達が着ていたそろいの黒いベスト。これは子供達が手仕事の授業で、自ら製作したものなのだ。

芝居小屋は役者、観客とも、熱気に包まれる。いや、狭い中に芋を洗うように人が入っているのだから、実際暑い。早春というのに汗が滲む。
どれぐらい暑かったかというと、熱気のあまりヴァイオリンの調弦が狂い、若干演奏の音がずれた程だ。

だが、調弦の問題で、「演奏の実力が遺憾なく発揮」とまではいかなかったものの、劇中の音楽が全て子供達の生演奏なのだから凄い。
セロ(チェロ)も無論生演奏、ゴーシュ役の生徒の演奏も聴き応えがあった。特に猫とのやり取りの場面で、シューマンの「トロメライ(トロイメライ)」を弾きかけ、途中から曲が「インドの虎狩り」に変わる演出は見事。
また、合間合間にそれぞれヴァイオリンやフルートの独奏もあり、最後は作品中に登場するベートーヴェンの「第六交響曲(田園)」を、全員で演奏して幕が閉じる。

来年度から、彼らは高等部。シュタイナー教育では小・中学部の八年間を、一人の担任がずっと受け持つ。そして、その担任教師の手を離れ、高等部に進むのだ。
現・八年生は、この学校の第三期。草創期という事もあり、担任のサザエ先生(仮名)は途中からこの学年を受け持った。
だが、劇終了後のサザエ先生の挨拶の言葉やその表情から、八年間以上の思いを込めて子供達に接してきたのだろう、と感じた。

ぴーぽこはまだ一年生だが、こうして上の学年の姿を見て、憧れて、成長してゆくのだろう。

そんなぴーぽこが特に気に入ったのは、「セロ弾きのゴーシュ」の「くゎくこう鳥(カッコウ)」。カッコウ役の女生徒が、チェロに合わせて羽ばたきながら「カッコー、カッコー」と鳴き続ける場面である。可愛らしく、面白く、私も気に入った場面の一つである。

ぴーぽこは、「八年生になったら、カッコウをやりたい!」と云い出し、帰宅するや布を纏って羽ばたきながら、「カッコー、カッコー・・・」
やがて笛やウクレレ、鉄琴など、家中のあらゆる楽器を駆使して「カッコー」の音をとりだす。
仕舞いには、楽譜のつもりだろう、紙に五線譜のようなものを書き、音符の代わりに延々と

かっこ かっこ かっこ かっこかっこかっ

こかっこかっこかっこかっこ・・・


と記す。ゲシュタルト崩壊現象でも起こしそうである。

わざわざそれを見て、また「カッコー、カッコー、カッコー・・・」

カッコウの台詞「ぼくらならどんな意気地ないやつでも のどから血が出るまではさけぶんですよ」(『セロ弾きのゴーシュ』より)

まさに喉から血が出そうな勢いで、「カッコー、カッコー、カッコー・・・」

私も付き合わされ、羽ばたきながら「カッコー、カッコー、カッコー・・・」

ゴーシュの台詞「えいこんなばかなことしていたらおれは鳥になってしまうんじゃないか」(『セロ弾きのゴーシュ』より)

・・・ゴーシュの気持ちがよく分かった。


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妖精の子は妖精

吾輩は妖精である。

いや、人間なのだが。
以前、上級生の母・小リスさん(仮名)に、「あき乙女さんて、妖精っぽいですよね~」と云われた事を書いたが、その後日譚。
ある日、小リスさんが本屋で立ち読みした本によると、この世には魂の起源が、妖精とかそういった存在である人がいるとのことで、そうした人々の外見的、また性格の特徴が書かれてていたそうだ。

「それが全部あき乙女さんに当てはまるのよ~。だからあなた、やっぱり妖精よ」

・・・って、貴女、なに怪しげな本を読んでるんだ!?
が、私も生来妖怪やら妖精やらが好きである、早速本屋で同書に目を通すと、確かにそれら特徴の悉くが、私に当てはまる。思わず購入してしまった程だ。

無論、その本の内容を頭ごなしに信用してはいないが、自分が実は妖精だ、と思って残りの半生を送るのも乙なもの。

問題は、「私って、実は妖精なの」などという台詞をうら若き乙女が発した場合、「あ~、夢見がちな不思議ちゃんね・・・」と、軽く厄介者扱いされる程度で済むが、三十代半ば、自称・乙女の倒錯野郎が発したなら、「不思議」を通り越して「不気味」でしかない、という事である。

さて、過日、娘・ぴーぽこが通うシュタイナー学校で、「謝肉祭」が催された。
今年から、初めての取り組みとして、一~四年生の子供達は、学年ごとのエポック授業の中で取り組んだお話の登場人物に仮装してその日を過ごす事になった。つまり、

一年生・・・「メルヘン・昔話」~天使や小人、お姫様など~
二年生・・・「動物寓話」~キツネや小鳥、小鹿など~
三年生・・・「職人」~パン屋や自動車整備工、鋳物職人など~
四年生・・・「北欧神話」~オーディン等の神、フリッグやフレイヤ等の女神、巨人など~

このラインナップの中で、三年生・「職人」って。現実的過ぎないか?
無論、これにも理由がある。
これまでも何度か触れてきたように、一年生までの子供にとって、「メルヘン」は必要である。
同様に、各学年の子供の心の成長に必要な物語を、シュタイナー教育では行う。
例えば二年生にとって、何故「動物寓話」が必要か、という事について述べようと思ったが、長くなるので、またの機会に譲ることにする。とにかく、それぞれに、ちゃんと意味があるのだ。

ともかく、これらの中で、自分が何になりたいかを子供達自身が決める。
何をやる事にしたのか、ぴーぽこに訊ねたところ、

「妖精」

流石、妖精の子は妖精、という事にしておこう。
問題は妖精のコスプレいやさ仮装をどうするか。イメージを分かり易く云えば、戸川純の「蛹化の女」のステージ衣装。
・・・分かりにくいか。
ともかく、背中に背負う昆虫の羽をどうするか苦心していたが、同じ一年生の千早ふるちゃん(仮名・小人役)が持っている妖精衣装セット(羽とチュチュ)を貸して貰えた。それに、我が家にある100円ショップで買ったステッキとデコレカチューシャを付ければ珍妙な妖精の一丁あがり、である。

当日は授業の一環、という事で、当然親は教室には立ち入れないので、詳しい様子は分からない。
四年生の神話劇や、三年生のパン屋さんに招待されたりしたらしい。
また、そのいでたちで学校中を回り、中・高等部や事務室、校内で作業している親達に披露していたので、各学年の子供達の仮装は一通り見る事が出来た。

一年生の親達は、お迎え時に教室内に招待された。
ずらりと並ぶ、仮装した子供達は圧巻。魔女に扮装した担任のウール先生を筆頭に、王様とその家来、お姫様に狩人。妖精、天使に小人達と、まるでメルヘンの世界に迷い込んだ気分。
特筆すべきはリアル・双子の「赤鬼青鬼」。「強い青鬼」と、「お花が好きな赤鬼」なのだとか。
また、可愛い「笠子地蔵」もいた。この辺りは分かるが、ある男の子、

「間(ま)のいい猟師」だって。

数ある昔話の中からそれをチョイスするとは、実に通好みである。このセンス、大好きだ。

今回の謝肉祭で思った事は、「人間はある境界の中でなら、なりたいものに何にでもなれる」という事だ。
例えば私が横綱になろうと思っても、到底なれるものではない。
それぞれが生まれ持ったもの、獲得した才能や性格、また、社会からの要求としては、学歴や選挙、資格など、簡単に「何にでも」なれる訳ではない。

また、例えば三年生の子が「動物になりたい」と思ったとしても、それも不可能だ。いくら「新撰組に入隊したい!」と思ったところで、残念ながら、今は幕末ではない。
が、その子が「神様をやりたい」と思ったなら、今は無理だが、来年にはなれる。この様に、人の可能性は、現在と未来においてのみ開かれている。

このように、人間にはそれぞれの世界、境界があり、それを超えたものにこそなれないが、その中においてなら、自分が「なりたい!」と思うものに、何にでもなれる。子供達は今回の仮装を通して、そうした体験をしたのではないだろうか。
先生達がこれを企画した意図は伺っていないので分からない。以上の事は、あくまで私個人の感じたことであり、私見に過ぎない。

してみると、私という妖精は、境界を越えて「人間」として生まれてきたのだろうか。・・・って、まだ云うか、自分。
小リスさんの中でも、私は「妖精」という事になっている。
先日の保護者・朝の会で、「今日は力仕事があるけど、男手が無いから日をずらそう」という事になった。猫娘さん(仮名)が私に向き直り、「男手、あるじゃない」
私は仕事上、手や指先を大事にしているし、実際非力なので、殊更に力仕事は避けてきた。
件の本によると、妖精の生まれ変わりの特徴の一つに、

「重労働を避ける傾向があ」る、という。

小リスさん、猫娘さんに向かって、

「いいの、この人は、人間じゃないから

・・・基本的人権までは剥奪してくれるな。


※過去記事「若者と希望」冒頭部参照

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