2008年07月

  1. --/--/-- スポンサーサイト
  2. 2008/07/31 神秘の扉が開くとき②
  3. 2008/07/31 神秘の扉が開くとき①
  4. 2008/07/28 農業体験・九年生篇
  5. 2008/07/24 農業体験・自分篇
  6. 2008/07/16 夫婦ゲンカと不思議な縁
  7. 2008/07/13 聞け、十二年生の語りを!
  8. 2008/07/05 「12」は不思議な数!
  9. 2008/07/04 体験授業・倍数リズム

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神秘の扉が開くとき②

前回の記事の続き。

シュタイナーは、視えない領分について知覚する為には、必ずしも霊視能力は必要ではない、と云う。思考する事によって、そうした事への知覚は可能なのだそうだ。

さて、「視えない領分」と云っても、別に神仏や天使や魂、といったことばかりではない。現実にあるものが、思考や想像力不足の為、認識出来ない事もある。

例えば、何年か前、こんな話がメディアに取り上げられていた。なんでも、

「ウチの子に、給食の時、

『いただきます』と云わせないで下さい!


と、教師に申し出る親がいるのだそうだ。「給食費を払っているのだから、当然食べる権利がある。だから『いただきます』と云う必要は無い」という論理。
・・・してみると、なにかい。オメェ様が「いただきます」を云うのは、

オゴリでタダ飯食らう時だけか!?

そもそも給食費での負担は材料費のみで、給食を作る為の設備費、人件費等は税金で賄われているのである。子供がいない家庭でも、税金は支払っているのだ。

お金の問題だけではない。調理する人々や、漁師、農作物や家畜を育てる人々、家畜を屠殺する人々、配送業者や、食器、包装製造業者その他、一膳の給食の裏で、多くの人々が働いているのだ。

また、食材の家畜、魚介類は勿論生き物。植物にもエーテル体(生命体)があるのだから、農作物にしてもその命を頂いている事には変わりない。
そうして、それらを育んだ太陽、大地の恵み。シュタイナーによると、植物の生育には元素霊と呼ばれる妖精の働きが欠かせないそうだ。

そうした全てに感謝して、「いただきます」ではないのか!?

無論、妖精は実際に視えないが、上記の業者さんやお百姓さん達の働きも、一膳の給食を見ただけでは知覚できない。が、実際にその現場を見なくても、思考や想像力を働かせれば容易に分かる事だ。
「給食費を払っているのだから、『いただきます』と云う必要は無い」、こう主張する親にとっては、目の前の給食及び、材料費のみの給食費といった、目に見える物質のみが全てで、その裏で実際に働いている人々の存在は、妖精が視えないのと同様に、知覚出来ないのだろう。

普通に考えれば、一膳の給食の裏で多くの人々が働いているのが分かる。同様に、動植物や鉱物、または人間や自分自身について観察し、思考すれば、その裏で妖精や天使、自然霊といった、不可視の存在が働いている事が知覚出来るだろう。
今後、そうした事も含め、人智学、神秘学についても考察してゆきたい。

「いただきます」について、もう少し触れる。
教会や神社、お寺が経営する幼稚園では、食事の前にお祈りをするところが多いだろう。
が、近頃は、

「ウチの子に宗教的なお祈りをさせないで下さい!」

とクレームを付ける親御さんも少なくないとか。
短絡的に宗教的なものを十把一絡げに「怪しいもの」と判断し、大切な「心」の領域まで否定するのも如何なものか。
尤も義務教育においては、宗教色を排除する為、給食前のお祈りはしない。「公立」という立場上、それは至極当然のことだが、その上、上記の親のような輩が「いただきます」すら云わせるな、となると、むしろ殺伐とした食事風景になるのではないか。
「お祈り」まではさせずとも、せめて「いただきます」ぐらいは云って、気持ちよく頂きたいものだ。

因みに、娘・ぴーぽこ(仮名)が通うシュタイナー学校では、お弁当(給食は無い)の前に、こんなお祈りをする。

「静かな時間を持ちましょう。これらのものをもたらしてくれた大地よ、これらのものを育んでくれた太陽よ、愛する太陽、愛する大地、あなたがたが忘れ去られる事がありませんように、食べ物に感謝して、いただきます」
私とて、食前にいちいち全てに感謝して頂いている訳ではない。形ばかりで「いただきます」と云う事の方が多い。それでも、時々でも食卓の裏で働いている多くのもの~農家や業者さんのみならず、太陽や大地、また、妖精等~に思いを馳せると、自ずと感謝の念が湧いてくる。

・・・尤も、産地やら賞味期限やらの偽装がこれだけ横行していれば、感謝の前に疑念が湧き、素直に感謝しにくい御時世ではある。
が、食材自体に罪は無い。

川柳を思い付く。

「しょくざい(食材/贖罪)を ないがしろにして 老舗消え」

って、綺麗じゃない?今回は下ネタでもないし。

だが、残念ながら、面白くはない。



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神秘の扉が開くとき①

さて、このブログを続けるにあたり、私の我慢もそろそろ限界に近付いている。
何を我慢しているのかというと、

不思議な話をしたい!

という事だ。
だって・・・だって・・・

シュタイナーは不思議なんですもの!

さて。御存知通り、シュタイナーの業績は「教育」や「芸術」のみならず、農業、医学、建築、哲学、科学、社会学等、多岐に及んでいる。
こうした現実的な思想の他に、「心」や「魂」といった、視えない領域を扱う「人智学」や「神秘学」の分野でも、後世に多大な影響を与えているのも周知の事だ。

が、こうした視点は、ともすれば「疑似科学」、または「カルト的」との誤解を受ける事もある。
ブログでそうした記事を扱う事で、私自身が「不思議ちゃん」やら「電波系」と思われるのは一向構わないが、シュタイナー学校やシュタイナー教育自体がそうした誤解を受けるのは不本意なので、これまでそうした内容は殊更避けるか、慎重に扱うようにしてきた。

ここで誤解の無いように述べておくが、まず、シュタイナー学校に関わっている親や教師全てが、必ずしも人智学の徒ではない、という事だ。

普通にそうした思想を受け入れている親もいれば、「シュタイナー教育は良いと思うけど、人智学はよく解らない・・・」というスタンスの親もいる。
そうした傾向は特に西洋では顕著で、シュタイナー教師の中にも人智学否定派は少なくないいそうだ。人智学には東洋の哲学・思想との共通性も多く見られ、キリスト教徒からは受け入れ難い部分も多いからだろう。

また、人智学を生徒に教える事もしない。それを行えば生徒にとってドグマ的になる。「教育」の領分とは区別がなされているのだ。

・・・等と書き連ねていると、いかにも人智学とは怪しいものの様だが、確かに唯物論の視点に立てば、怪しきこと山の如し、である。
が、「物」が全てではない、例えば、自分は肉体のみの存在ではなく、「心」やら「魂」といった、不可視のものを内包した存在ではないか、という視点に立てば、実に興味深い学問で、そうした事柄を、実に

解りにくく

述べているのだ。「『解りにくく』って、ダメじゃん!」と思うなかれ。シュタイナーは、読み手が思考を通して理解するように、わざと難解に記しているそうだ。

現在の社会の諸問題の多くは、唯物的、物質至上主義的価値観に偏りすぎていることから生じているように思える。もっと「心」や「精神」等、視えない領分、精神的分野にも光を当てても良いのではないだろうか。
また、そうした視点を持つ事で、子育てや教育等の不安や悩みが軽減、または解消されることもあろう。
人智学は、そうした可能性を含んでいる。

そういう次第で、今後、人智学や神秘学について、私なりの解釈で記事にする事もあるだろう。
いちいち「怪しい話と思われそうだが~」やら「信じるかどうかは別として~」等と前置きをするのも煩わしいので、そうした視点を「あるもの」という前提で、話を進めて行きたい。
次回、具体例を挙げて、そうした視点について詳しく触れる。

ところで、よく「無宗教」と云われる日本人だが、むしろその方が人智学を受け入れやすいのではないだろうか。
「私は神様、信じません」と云う人に、

「ならば神社の鳥居や、路傍のお地蔵さんに、小便をひっかけてみなさい」

と提案したとする。って、マリー・アントワネットの時代じゃあるまいし、女性に立小便は無理か。まぁ、女性なら、何かそれに類する不敬なことでもやって御覧なさい。
無神論を自認する人々でも、多くは、

「流石にそれは・・・」

と躊躇するのではないだろうか。

こうした、「信じてはいないけど、なんとなく畏れ多い」という感覚は、大事であろう。それ位の距離感が、むしろ丁度良いかも知れない。
または、思考を通した上で、それでも人智学に懐疑的・否定的なのも良いと思う。
それより問題なのは、

「シュタイナーさんがそう云っているから~」

と、思考せずに妄信するタイプで、そうした方々は、せいぜい霊験あらたかの様に見えるただの壺を、大枚はたいて購入しないように注意すべきだ。

・・・って、私もさほど思考を通している訳ではないので、自戒したい。

いや・・・自戒するまでもなく、そんな壺が買える程の経済力は、目下のところ、無い。



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農業体験・九年生篇

シュタイナー学校では高等部に入ると、様々な職業実習カリキュラムが組まれる。
西洋の伝統あるシュタイナー・スクールのそうしたカリキュラムにはまだ及ばないまでも、我がシュタイナー学校は特に農業に力を注いでいる。

それには農学校で教鞭を執っていた宮澤賢治の教育理念の影響も大きい。
過去にも記事に書いたが、青梅に田畑を借りて自然農を実践したり、決して広くはない校庭を工夫して、各学年、常日頃から畑を作ったりしている。

そうした中、今年は高等部の九年生達が、宮崎県綾町の自然農実践場に、農業実習に行って来た。

その期間、二週間

羽化後の蝉の半生・二匹分である。(実際は、羽化後の蝉は一週間ではなく、一ヶ月近く生きるらしい、って、余談)

その間、農家に宿泊し、早朝から日の暮れるまで、農作業に従事する。大自然に囲まれてのこうした体験は、生徒達の内面に大きな影響を及ぼしたようだ。

二年生の我が娘・ぴーぽこ(仮名)は、無邪気に園芸や農作業を楽しんでいるが、九年生にもなると、自分達の学びを客観視出来るまでに成長している。この学校が、文部科学省管轄下の一般の学校に比べていかに珍妙なのかを、ちゃんと熟知しているのだ。
中にはこうした土いじりがさほど好きではない生徒も何人かおり、わざわざ青梅にまで出向いて田植えなどするのも、

「この(風変わりな)学校だから、仕方がない」

と諦念、軽くやっつけ仕事気味にこなしていたそうだ。
それが、この体験で意識が変化した、と、農業実習報告会で語っていた。

それぞれが名状し難い感動を得たであろう事は、向こうでの様子を報告・発表する生徒達一人一人の語り口調や目の輝きから明らかだ。
中には、将来何らかの形で農業に携わりたい、との衝動を得た生徒もいた。

思えば大自然の中で農業をして暮らすのは日本人の原風景、それを感性鋭い思春期にじっくり体験した事や、現地で農業を行っている大人達の、誇り高い勇姿も、大きな影響を与えたのではないだろうか。

実習を終え、久々に東京に戻った彼らは、視界の至る所に人工物が見える事に違和感を覚えたと云うのだから、いかに現地が自然豊かな場所で、彼等がその自然に包まれる体験をしてきたかが分かろうというものだ。

自然農は、農薬を使用しない。生徒の一人・かま猫くん(仮名)は、害虫を駆除しつつ、カマキリや蜘蛛等、害虫を捕食する生き物の存在が、農業の強い味方と感じたようだ。そこに、自然と人間の共存、つながりを見たのではあるまいか。

同様に害虫駆除を行ったカッコウさん(仮名)は、虫が苦手。害虫駆除など荒行も同然だったろう。嫌いな毛虫をちまちまと駆除しつつ、農薬について思うところがあったそうだ。

確かに農薬を散布すれば、そんな薄気味悪い連中を一匹一匹相手にせずに済む。
が、容易にそれを行う事で、人体は無論、生態系にどんな影響を及ぼすのか、改めて思いを馳せたそうだ。

話を聞きつつ、思い出す。
母方の実家は農家で、私が幼少の砌、伯父の家に遊びに行くたび、田んぼで蛙やオタマジャクシ、ドジョウやヤゴに、タガメやゲンゴロウ等を捕って遊んでいたものだ。
数年前、久々に伯父の許を訪れた。懐かしさに駆られ、蛙でも捕ろうと、田んぼへ出る。

晩秋とはいえ、まだ蝉の声響く南国。以前は、少し歩くたびにバッタやらの虫やアカガエル等がぴょいぴょい飛び出したものだ。が、そこには蛙はおろか、虫さえまばらで、生き物の気配が薄い。
以前は泥をざっとザルで掬うだけで、必ず捕れていたドジョウ達は、今はどうなっているのだろう?

伯父に聞くと、

「・・・そういえば最近、ドジョウもおらんごと(いなく)なったなぁ・・・」
・・・って、「そういえば」じゃないっての!明らかに農薬の影響でしょうに!
が、素朴で善良な伯父は、それをさほど問題視していない。それより稲の収穫量が収入を大きく左右する為、生活の為に農薬を散布する。
それが、水稲栽培発祥以来共存し続けてきた田んぼの生態系を大きく崩し、果ては土壌そのものも汚染している事には関心を払わない。
いや、分かっていても農薬を使わざるを得ない農家も多いだろう。

効率や結果重視の社会、虫食いの無い、見た目の良い作物を選ぶ消費者、その他、「農薬」から色々な事が浮き彫りになってくる。

報告会終了後、何人かの生徒に、発表の感想と共に上記の事をかいつまんで話した。
にこにこと話を聞いていたカッコウさん、話が「子供の頃、よく田んぼで蛙を捕っていた」というくだりで、微妙に笑顔をひきつらせ、

 「えェッ!?」

と、二、三歩後退、文字通り、引く。虫嫌いの彼女、どうやら蛙も苦手らしい。
それにしても、あたかも「私の正体、実は蛙なんです」と聞かされたかの如きリアクション。

もし私が、悪い魔女の魔法で蛙の姿にされたなら。

彼女に「魔法を解いて!」とは、申し訳なくてとても頼めない。



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農業体験・自分篇

午前中、日陰の田んぼはひんやりとして気持ちが良い。
青い槍の葉には、変態後間もない小さなシュレーゲルアオガエルが、じっととまっている。

日向の方に進むと、泥水は俄かにぬるくなる。充分に育った大きなトウキョウダルマガエルが、炎天下の田んぼで跳ねている。

この日は田んぼの草取り。娘・ぴーぽこ(仮名・二年生)に直接体験をしてほしくて、上級生のポンパドールさんや狛犬くん(いずれも仮名)が個人的に参加している米作り体験に、我々親子も今年参加しているのだ。

田んぼを管理されているぽっぽさん夫妻は、農薬や化学肥料を一切使わないので、初夏になると雑草が伸び放題。中には、いかにも

「私は稲ですよ、雑草じゃありませんよ」

と云いたげに、稲に寄り添って生えている雑草もある。
フォアグラさん(仮名・ポンパドールさんの母)はそんな雑草を見付けては、

「こんなにカムフラージュしてまで生きようとしてるのを見てると、抜くのが可哀想になっちゃうね」

確かに。
が、これら雑草は抜いて捨てられるのではない。そのまま泥中に埋められるのである。
それが土壌生物や土精・グノーム等によって分解され、稲の肥料になる。そう考えると、これら雑草も無駄にむしり取られるのではなく、自然の循環の中に組み込まれるのだ。

さて、今回驚いたのは、ぴーぽこが何の躊躇もなく裸足になり、さっさと泥田に踏み入った事である。
前回は裸足で入るのに抵抗があったのか、靴下をはいたまま入っていたものだ。それが、どうした心境の変化があったものか。

シュタイナーによると、幼児は親を模倣する存在だ、という。それは表面的なことに止まらず、内面まで模倣する、という。
例えば、私がぴーぽこに、シュタイナー的なシンプルな木のおもちゃを与えた。が、私自身が海洋堂製作のリアルな食玩・動物フィギュア目当てにチョコを食っていたりすると、そういう姿を見せなくても子供は無意識にそれを模倣し、木のおもちゃに満足せず、リアルなおもちゃを欲しがる、といった具合に。
幼児期を過ぎたぴーぽこだが、模倣の力は九歳頃まで作用する。

私は前回・今回とも裸足で入ったのだが、前回は内心、ミミズに怯えつつ、おっかなびっくり入っていた。だが、泥の感触が心地よかったので、今回は初めからミミズを気にせず、ノリノリで入ったのだ。
そんな私の内面が、ぴーぽこに反映されたのかも知れない。

ぴーぽこが通うシュタイナー学校では、毎年高等部は農業実習に行く。今年は九年生が、二週間にも渡って宮崎県・綾町の農家に宿泊し、じっくり農業に取り組んできた。
こうして僅か数回参加しただけの私でも農業への興味が強まったぐらいだから、九年生達にとっては更に大きな影響があったことだろう。(この、九年生農業実習については、また改めて記事にしたい)

さて、作業は順調に進み、午前中には終了した。昼食を取りつつ、午後山遊びに行くか、川遊びにするかを相談。すると、現地のぽっぽ旦那さんより、こんな情報が。

「近くに綺麗な川がありますよ。映画の『妖怪大戦争(平成版)』のロケ地にもなった・・・」

なんですと?・・・「妖怪大戦争」!?

この映画をさほど高く評価してはいないが、妖怪好きな私、パンフレットは無論、DVDまで持っている。
フォアグラさんやモンローさん(仮名・狛犬くんの母)は、私の瞳が如実に輝いたのを見て取って、午後は川遊びに決定。

映画で、主人公の少年が妖怪・川姫や河童の川太郎と出会う場面。薄暗く不気味な淵であったが、実際に行ってみると清々しい小川で、避暑の家族連れも多い。中には水着で泳ぐ人達も。

我々一行は、シュタイナー学校以外からの参加家族も数組。子供達は早速川遊びに興じる。
裸になって泳ぐ男の子達、濡れてもいい服に着替えて、彼らとバシャバシャ水をかけ合う女の子。
小魚を捕ったり、綺麗な石を拾ったり・・・。
テーマ・パークも結構だが、人工物の無い自然の中でも、子供達は実に楽しそうに遊ぶ。

楽しいのは我々大人も同様。銘々ズボンやスカートをたくし上げ、冷たい川に足を入れる。
ディマジオさん(仮名・狛犬くんの父)など、川に着くなり短パン一枚になり、ざんぶと川に飛び込む。
う・・・羨ましい・・・。こんな事だと知っていたなら、水着を用意してきたのに・・・!
こんな私の「泳ぎたい」オーラを察知したフォアグラさん、

「私の(着替え用の)短パン、貸そうか?」

始めは遠慮したものの、水の誘惑には抗えず、図々しくも彼女の短パンを貸して頂く。
服を脱ぎ、髪をほどき、子供達からお約束の水かけ攻撃に嬌声を上げつつ入った川の、なんと心地良いことか。
泳いだり潜ったりしつつ、遊びに興じる子供や親達の背後にスイ~ッと回りこみ、水中から足首を掴んで驚かす。
長い髪を水草の様に揺らめかせてそんな悪戯をしている私に、モンローさん達は口々に、

「妖怪が出た!」 「水の妖怪だ!」 河童だ!!」

などと好き勝手な事を云う。

・・・違うの。私は妖怪ではなく、水の妖精・ウンディーネ。

いや、まぁ、百歩譲ってこの際「妖怪」でも良い。

だが、「河童」じゃなくて、「川姫」の方向で。



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夫婦ゲンカと不思議な縁

「シュタイナー教育」を持ち出すまでもなく、子供の前で夫婦ゲンカをするべきでない、という事は、育児の基本である。
が、ケンカになりかけて、「・・・この続きは、子供が眠ってからね!」と相談し合える夫婦は、その時点で冷静、ケンカ自体を回避できよう。

問題は、解っていても感情が先走る場合で、そう簡単に感情をコントロール出来るものではないから、子供の前で夫婦ゲンカをしてしまう、という事態が起こる。そうした場合、それをどう補うか。

あるドイツ人・シュタイナー教師によると、子供の前で夫婦ゲンカをしてしまった場合、
「和解するところまで見せるべき」
とのこと。和解の場面も見せる事で、「最後にはお互い、解り合えるのだ」という希望を、せめて示すべきなのだ。
よく、「仲直りした夜、夫婦は寝室で燃える」と聞くが、当然そこまで見せる必要は無い。

ドラマ等で、夫婦間に不穏な空気が流れ出すと、「二階に行ってなさい!」と、子供を追いやる場面があるが、我が家においては、それは通用しない。
何故なら我が家はアパートの一階、二階には赤の他人の世帯が住んでいるからだ。

そもそも2DKでは、ケンカが勃発したが最後、子供に避難所は無いのだ。

かつて、娘・ぴーぽこ(仮名)は、我々の怒号が飛び交う中、泣いたり、不安そうにしていた。そんな娘の様子に、その都度反省するものの、それでも愚行はくり返される。

少し前のケンカの最中、ぴーぽこは隣室で、嬉々として何やらお絵描きだか工作だかを始めた。
ややあって、まだ口論を続ける我々の間に、たった今作った旗を振りつつ割って入るぴーぽこ。
旗には蜜蝋クレヨンの優しい色で、

「けんかは やめ」

と書かれてあった。
こんな健気な姿を見せつけられたにも関わらず、先日も夫婦ゲンカ勃発。同様に旗を振るぴーぽこ。
今度の旗には、

「うるさい」

と書かれていた。子供もしたたかに成長している。


そんな我々夫婦だが、一頃よりはケンカの頻度は減っている。
と云うのも、私は前世で、高貴な姫君であった。

・・・って、イキナリ何だ、「前世」って!?電波かっての!!

だが、まぁ、私は子供の頃からそうした不思議、というか怪しい世界が好きだった。
大事なのは、今、こうして生きている現実なので、前世があろうが無かろうが、さほど重要ではない。ただ、そういう事が好きな、夢見がちな乙女のたわ言とでも思って、前世否定派・肯定派に関わらず、話半分に読んで頂きたい。

さて、前世で高貴な姫君だった私、夫唱婦随の良妻賢母だったようだ。
この時の夫が、現在の妻・みぽちであったらしい。
かつての夫婦が、悠久の時を経て、男女の立場が入れ替わり、今世で再び結ばれたのだ。

・・・だから私は無意識に、妻・みぽちの三歩後ろを歩くのか。

また、私は芸者さんだった事もあるらしい。この時の馴染みの客も、妻・みぽち。

・・・って、オマエはどれだけ私の人生に介入してるんだっての!!

思えば、初めて妻・みぽちを見た瞬間、

(見付けた!!)

という印象を抱いた。ずっと忘れていた探し物が、不意に目の前に現れたような感覚である。人に対してこうした不思議な印象を持ったのは、後にも先にもこの時きりだ。

また、妻・みぽちも、私と出会う少し前、何故か金髪のヤンキーと付き合っている夢を見たそうだ。
当時私は、金髪のパンクス。パンクとヤンキーは、イモリとヤモリ、もしくはカブトムシのメスとカナブン程に違うのだが、みぽちにとっては一緒くたである。現に、初対面の私に、「ヤンキーの人ですか?」等と聞いてきたぐらいだ。
してみると、これは予知夢というべきか。

前世があるかどうかは別として、こうした不思議な縁は、確かに存在する。縁は導かれるものだが、その先を決定付けるのは、本人の意思。こうして他力と自力で結ばれたからには、相手の短所を互いに補い、新たな関係を築いていこう、という気になった。

また、妻・みぽちの心情を変化せしめたのは、私の正体が妖精、という珍奇な説が浮上した事による。(詳細はこちら
流石に前世等に肯定的な我々スピ夫婦でも、こんな突拍子もない話は頭ごなしに信じてはいない。(少しだけは信じているが)
が、みぽちは、

「そうか・・・妖精か~!」

と、何故か晴れ晴れとした笑顔。
つまり、私が妖精だとか、人外の存在だと思えば、私の欠点に対しても諦めがつき、腹も立たない。また、私に対して、過度な期待、要求もしなくなった。ものは考え様である。

以来、我が家に夫婦ゲンカの火種が、消えた訳でこそないが、随分減少した事は確かだ。

ぴーぽこの学校の母・ジャクソンさん(仮名)は、必要以上に旦那に厳しい。彼女にこの、妖精話をしたところ、彼女はこう語った。

「う~ん、みぽちさんは、心が広いなぁ。でもね、あきちゃんは『妖精』って云われるとそんな気がするから納得出来るけど、うちの旦那を『妖精』なんて思えない!

どっちかって云うと、児泣き爺ィとか・・・妖怪!?


厳し過ぎるって!そもそもお宅の旦那さんは、禿げ頭ですらない。

「じゃあ、妖怪だと思えばいいじゃん。そしたら、腹も立たない」

「え~ッ、余計腹が立つよ・・・『妖怪のクセに喋るな!!』って」

話しているうちに、彼女は本当に人生の伴侶が妖怪に思えてきたらしい。

「えッ・・・って事は、私は妖怪と結婚したってこと!?・・・非道すぎる・・・許せない!!

あ、じゃぁ、うちの娘達は、半妖ってこと!?・・・可哀想すぎる・・・!!


・・・誰か、彼女の暴走を止めてくれ。



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聞け、十二年生の語りを!

最高学年の十二年生による、卒業論文発表会は、まさにシュタイナー教育の集大成と云うべきものであった。ここにその全貌を紹介したいが、猫のたまわく、

「二十四時間の出来事を漏れなく書いて、漏れなく読むには少なくとも二十四時間はかかるだろう」(夏目漱石著・『吾輩は猫である』より抜粋)

猫ごときに指摘されるまでもなく、五人の生徒一人につき一時間の発表、合計五時間分をくまなく書くのは至難の業だし、そもそも内容の全てを記憶しているわけではない。
丁度、生徒の一人が「印象派」について研究していたことに因んで、この発表会の印象を徒然に紹介したい。

まず、それぞれの研究テーマを紹介しよう。各個人の名称は、例によって仮名である。

「鉄の歴史とたたらの技法」・・・・・・白浪くん
「印象派の絵画と音楽」・・・・・・・・・バジルさん
「天文学の歴史と人間の意識」・・・ステッグくん
「芭蕉布と沖縄の歴史」・・・・・・・・・リコリスさん
「ローソクと歴史と科学」・・・・・・・・・ロッキーチャックくん

彼等の発表は、ただ論文を読み上げるものではない。それに沿って自分の言葉で発表し、また、研究内容に伴う取り組みを各自行い、発表した。

実際に布(芭蕉布は原料が高価だった為、麻布)を織ったリコリスさんは、模様がずれないよう、綿密に計算したそうだ。これが大変だったらしいが、男子諸君の苦労は更に涙ぐましい。

砂鉄を熱し、鉄を精製した白浪くん。稲村ヶ崎に砂鉄が多いと知るまでは、多摩川で何時間もかけて、一日僅か数グラムの砂鉄をちまちまと集めたそうだ。南米のガリンペイロでも、こんな根気はあるまい。

ステッグくんは、ニュートン式反射望遠鏡を作成。その凹レンズを作る為、ガラスを磨き粉で、ひたすら磨きに磨いたと云う。

ロウソクを作ったロッキーチャックくんなどは、ロウソクの材料確保の為、「ご自由にお持ちください」の牛脂を集めるべく、ストアーの精肉売り場巡りをしたそうだ。ストアーで輪ゴムやビニール袋をごっそり持って帰るオバちゃんでも、牛脂を根こそぎは流石に持って帰らないだろう。

彼等のこうした努力は、効率重視のスピード社会においては「ムダな労力」と一笑に付されるだろう。
が、こうした、一見「ムダ」に思えるような経験、試行錯誤に費やした時間や過程こそが、生きてゆく上での力を育むのだ。
高度経済成長期前後からの、プロセスを辿らず、すぐに結果を求めたがる風潮が、現在、この国の生命力を弱めている一因であろう。

ともあれ、彼らは自らの、一見「ムダ」に見える努力を客観視する余裕がある為、その苦労話を諧謔をもって、笑いに転換する術も心得ている。
ステッグくんの望遠鏡総制作費は結構かかったそうで、同じ金額を出せば更に高性能の望遠鏡が買える。
物質的価値観で見ると、「作るより買ったほうが早いし、安上がり」、という事になるが、

「そんな事は関係ありません!」

って、負け惜しみかい!?いやいや、こう断言し、会場を笑いに包んだ彼の言葉は、手作り望遠鏡への誇りと愛着を示しているのだろう。
それは、他の生徒達も同様、それぞれの作品は何物にも変え難い宝物に違いない。

印象派・ドビュッシーのピアノ曲・「レヴァリー夢」の演奏や、オイリュトミーを披露したバジルさんにしても、そうだろう。
演奏等はその場限りのもので、物質としての「形」は残らない。が、そこに至るまでの過程~ピアノの練習での努力や苦労、喜び、感動等~は、彼女の中に存在し続ける。

彼女が発表の途中でオイリュトミードレスに着替えるべく中座した間、他の四人の生徒がオイリュトミーの説明をする事で、場を繋いだ。
進行役のロッキーチャックくん、

「ステッグくん、オイリュトミーはどうですか?」

って、なんだ、その茫漠とした問いかけは!?
彼のこうした天然っぷりや語り口調はそれだけで独特の可笑し味を持っており、白衣を纏ってのロウソク作りの実演は、研究発表というよりあたかも「実験コント」である。
同じく白衣を着て、実験を手伝う白浪くんに対し、

「助手くん!」

って、オマエはどこの博士だ!?また、細かいハプニングも頻発し、彼の発表は終始笑いに包まれていた。

よく「笑いあり 涙あり」という煽り文句があるが、この発表会は大袈裟でなく、そうであった。
沖縄の歴史を語るリコリスさん、話が戦争や、島人達が本土によって虐待されたくだりに及ぶと、感極まったのか涙を流し始めた。
研究を進めるうちに、こうした歴史に胸を痛めていたそうだが、この感受性の豊かさはどうだろう。彼女の人間への深い愛を感じ、こちらまで泣きそうになる。
溢れる涙で続行が困難になった彼女に、バジルさんが出てきて飲み物をそっと手渡し、落ち着かせる。
そのさり気ない優しさに、生徒同士の確かな絆を見るようであった。

各生徒が上記のテーマを選んだ動機は、本や家族の影響や、過去の体験等、極めて私的で個人的である。
が、その後の発展はどうであろう。

例えば「鉄」一つ取っても、世界と日本の鉄の歴史や文化、鉱物としての鉄の、化学的解説や地理的産出地、その精製法、鉄製の実用品や芸術品、そして人間と鉄の関係等、文系・理系・技術・芸術織り交ぜて展開され、それを借り物でない、自分の言葉で発表してゆく。

また、例えばロウソクの材料を考察し、ロウソクが「鉱物界(石油)」・「植物界(ハゼの実)」・「動物界(獣脂)」全てと関わっていることに気付いた、との補足があった。
この様に、各自論文は完成させても、更なる発見や疑問が残り、今後もそれが尽きる事はないだろう。
この発表会は、恐らく論文の完成披露ではなく、更に発展する思考の通過点なのではないだろうか。

全生徒共通してこうした発展性が見られ、あたかも自分に向けられた愛が親兄弟、友人隣人、社会、そして世界、宇宙へと発展し、再び自分へと帰結する、そうした印象であった。

総じて高度な内容であり、発表を聞きにいらした大学教授の中には、彼等が高校生である事を忘れ、大学生の発表を聞いている様な錯覚を持たれた方もいらしたとか。

知識と実体験の思考への高まり、諧謔、生徒同士の確かな関係、人間愛をも垣間見たこの発表会、まさにシュタイナー教育、ここに極まれり、という印象を持った。

私が彼等の年代の頃は、どうだったろう。あまりの次元の違いに、愕然とする。
高校時代、男子数人集まれば、決まって開催されたのが「童貞サミット」である。
議題は「どうすればモテるか」「どのアイドルが最高か」等、童貞のたわ言で、たまに真面目な人生論を提案しても、多くの場合、棄却される。
挙句、

「片想いしているクラスの女子と、美人女優に同時に告白されたら、どっちを選ぶ?」

などという、到底起こり得ない状況を想定し、皆で大真面目に論じ合ったものだ。

当時の私に云いたい。

「そういう心配は、モテてからしろ!」



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「12」は不思議な数!

前回紹介した、シュタイナー学校の体験授業の続きである。
後半は、三年生の、九九を覚えてからの取り組みを体験した。

まず、3、4人ずつ、9のグループに分かれ、各1~9の数が割り振られる。

私は「2」のグループ、妻・みぽちは「9」グループ。
「2」と「9」と云うと遠過ぎる様だが、輪になっているので、「9」、「1」を挟んで、「2」、という並び。

この微妙な距離感。あたかも我等の夫婦関係を象徴している様である。

さて、「1」のグループは、打楽器でメトロノームの様にコッ、コッ、コッ・・・と、リズムを刻んでゆく。
そのリズムに合わせ、各グループの数の倍数を、手を叩きながら唱えてゆく。

例えばこういう風に。以下、「コッ、コッ、コッ」というリズムを「 ・ ・ ・ 」と表現する。
」のグループなら「 ・ ・  ・ ・  ・ ・  …」、
」のグループなら「 ・ ・ ・ ・  ・ ・ ・ ・ 10 …」。

次に、それを何グループかで同時にやる。例えば「」と「」のグループが同時にやると、こんな風になる。

「 ・ ・  ・   ・ ・  10 ・ 12 ・ ・ 15 …」

公倍数の「15」では、両グループから同時に声が上がる。

最終的に、これを全グループが同時に、81までやるのだ。

「2」の段の私、リズム感もまぁまぁある方なので、ノリノリでリズム・キープ的に、

「 ・ 2! ・ 4! ・ 6! …」

とやっていたが、全員でやると、「… 9 10 ・ 12 ・ 14 …」という具合に、どの倍数でもない「11」や「13」等の素数ではどこからも声が上がらないので、一瞬調子が狂う。

また、「7」、「8」、「9」辺りのグループは、出番が少ない代わりにリズムに乗りにくいので、苦戦している。
「9」グループの妻・みぽちは、やる気があるのか無いのか判然とせぬ面持ちである。後で聞くと、

「必死だった。でも暑いから、早く帰りたかった」

・・・って、本当にやる気があるのか無いのか

分からない奴だな!


「あ~、でも途中で法則を発見してからは楽だった」

つまり、9の倍数は、「、1、2、3…」と、下一桁が一目下がりになるのだ。

完全リズム無用!小賢しきこと山の如し、である。

この取り組みは、以前、学習発表会で三年生がやっているのを見たが、実際自分達でやってみると結構難しく、適度な緊張感と集中力を要し、なかなか面白かった。

思うに、これは高学年の数学にも繋がって行くのではないだろうか。

11、13、17等の、どのグループからも声が上がらない「寂しい数」は、「素数」。
一方、2グループ以上から同時に声が上がる数は、「公倍数」。

無論、素数や公倍数を学ぶ時、直接的にこの体験を思い出しはしないだろう。が、心の奥底でこの時のリズムと結びつき、素数や公倍数といった概念がスーッと体に浸透してくるのではないだろうか。

シュタイナー教育では、こうした、「表面的には忘れても、心の奥で、過去に学んだ様々な事が、互いに結びついてゆく」という事が多い。綿密に伏線が張られたドラマの様である。

因みに、この取り組みをやってみて気付いたのは、公倍数の中でも24(2、3、4、6、8の公倍数)、36(2、3、4、6、9の公倍数)等、多くのチームから同時に声が上がった数が幾つかあったが、それらは「12」の倍数なのだ。

学習発表会で、四年生が「12は不思議な数」という算数の詩を諳んじていたが、確かにそうである。

1年は12ヶ月。十二支に12星座(『へびつかい座』は、無視!)。
十二神将(宮毘羅、伐折羅他)十二(梵天、帝釈天、閻魔天他)、オリュンポスの12(ゼウス、アテナ、アルテミス他)12使徒(マタイ、ヨハネ、ユダ他)等、洋の東西を問わず「12」という数をよく目にする。

また、一日は24時間、一時間は60分、一分は60秒。
人間の平均的体温は36度台、平均心拍数は72
除夜の鐘で消し去る煩悩の数は百八
これらの数は、12の倍数。1ダースも12で1単位。

更に十二因縁、十二運、ホロスコープの12宮。十二単に冠位十二階、古代ローマの12表法。二十四節気、武田二十四将、三十六計、三十六歌仙等、倍数まで合わせると枚挙に暇がない。
してみると、「12」という数は、何か人間にとって密接なリズムなのではなかろうか。

シュタイナーは「数」が象徴する意味についても言及している。それによると、「2」は「開示」の象徴、その背後の一元性と「開示」の二元性とを結ぶのが「3」、「4」は「創造」の象徴なのだとか。

してみると、それらを内包する「12」という数は、
「二元性による『開示』と、その背後の一元的な働きとを統合し、三元性を見出し、それを宇宙的創造へと導き、発展させる数」
と云えるのではないだろうか。
・・・って、いかにも難しい考察をしたかの様に書いてみたが、なんのことはない、それぞれの意味をそれらしくつなぎ合わせただけである。

・・・もういいや、12は不思議な数って事で。

そういえば相撲の四十八手も12の倍数だ。
性戯にも四十八手があるが、誰が、何の為に性戯の体位を四十八種類にまで分類したのか。然も「ひよどりごえ」と「田植えどり」、「出船後とり」などは似たような体位で、わざわざ三つに分類する意味が解らない。
ただ、相撲には「神に奉納する神事」「興行」、性交には「子作り」「肉体的享楽」という、「神聖さ」「俗っぽさ」の両側面がある点は共通している。

ふと、なぞかけを思い付く。
「お相撲とかけまして、性交と解きます。え~、そのこころは。二人が裸で取り組みます」
「山田くん。座布団全部持って行って!」

自分に駄目出し。



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体験授業・倍数リズム

前にシュタイナー教育での、掛け算の芸術性について触れたが、今回は「リズム」をテーマに、シュタイナー教育の掛け算を述べたい。

先日、学校で、親の為のシュタイナー教育・体験授業が催された。前に紹介した「倍数の円」も、この時描いたものだ。

この日は、子供達が日々行っている学びを親達が体験するとあって、朝から子供達も大はしゃぎだったそうだ。
授業終了後、娘・ぴーぽこ(仮名)も嬉しそうに、

「何やった?『3飛び』はやった?」

と聞いてきた。なんだ、「3飛び」って。あぁ、あれか。

皆で輪になり、数を数えながら歩く。この際、数は心の中で唱え、3の倍数の時だけ声を出し、同時にジャンプする。

・・「3!」・・「6!」・・「9!」・・「12!」・・

という具合に。
子供達には「3の倍数で飛ぶ」等と理論で教えるのではなく、あくまでリズムを通して、自然に行う。
全員のリズムが揃っていないと、ジャンプのタイミングがてんでバラバラになってしまうだろう。

例えば我々が子供時代に体験した、
「前へ~、進め!1・2!1・2!・・・ぜんた~い、止まれ!」ピシッ!
という軍隊名残りのやり方は、子供の体を縛る行為に他ならない。
一方、皆で呼吸を合わせるリズム遊びは、「調和」へと繋がるだろう。

さて、親達も実際にこのリズム遊びをやってみたが、私は調子に乗って、

(1、2、)「さ~ん!」 (4、5、)「ろ~く!」 ・・・

と思い切りジャンプしつつ唱えたので、終わった時には息を切らしていた。
子供達は、朝からこれをやり、そうしてエポック授業に入ってゆくというのだから、子供の体力恐るべし、である。

これが「3飛び」である。

また、同様に、

・「2!」・「4!」・「6!」・・・

と、2の倍数でパン、と手を叩きつつ唱える、というリズム遊びもやった。

シュタイナー教育は「リズム」を重視する。呼吸や脈、また、睡眠周期等、人間は「リズム」を内包した存在である。
頭だけで九九や計算式、公式を覚えるのではなく、体全体を使ったリズム遊びを通して、子供達は体中に「数」というものを染み込ませるのだ。
こうした倍数のリズム遊びが、掛け算に繋がってゆく。

以上は掛け算を導入する前から、日常のリズムの時間に行われている。

この後、体験授業は、掛け算をマスターした後の三年生が取り組んだ、非常に難易度が高く、また興味深い取り組みへと展開されてゆくのだが、これは次回、じっくり紹介したい。

ともかく、この様な「リズム」や、前に紹介した「芸術的」なやり方を通して掛け算を学んでいるぴーぽこは、相も変わらず、掛け算九九を楽しそうに暗誦している。前にも書いたが、私はこの九九の暗記が苦痛であった。

私が小学二年生の頃、算数の時間に教師が生徒全員起立させた事があった。
銘々、九九を暗誦せよ、と。九の段まで全て云い終わった者から、着席して良し、と。

すわ、えらい事になった。私はこの時、まだ七、八の段が曖昧であったのだ。
が、40人を超える生徒一人一人の暗誦が、正確かどうか聞き分けるのは、聖徳太子でも無理だろう。
私はボソボソと唱える振りをしてやり過ごそうとしたが、決して優等生ではなかった私、あまりに早く着席したら教師に怪しまれはしまいか。
かといって、遅すぎると人数が減り、一人一人の声が聞き分けられてしまう。怯えつつ、どうにか機を見計らって着席したものだった。

この事をぴーぽこの担任・ウール先生(仮名)に話したところ、

「二年生の頃ですよね・・・随分、気を遣わなくていいところに気を遣っていたんですね・・・」

その表情は、同情的ながら、安っぽい哀れみでは決してない。
私を見つめる眼差しは、私の心の奥、過去の、小学二年生の頃の私に向けられているような気さえする。

刹那、私の中の子供・・・インナーチャイルドが、「先生!」と叫んで彼女の胸に抱きついた、そんな思いであった。当時の私の心情に理解を示してくれた事で、当時受けた心の傷が、随分癒された思いである。

無論、実際に抱きついた訳ではない。そんな事をしてセクシャル・ハラスメントで訴えられでもしたら、勝訴できそうな気がしない。



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