2008年08月

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  2. 2008/08/31 コックリさんはやめとけ
  3. 2008/08/26 人間の本質とは
  4. 2008/08/23 子供とおもちゃ(2)~ガラクタが育むもの~
  5. 2008/08/19 子供とおもちゃ(1)~ゴミを土産に~
  6. 2008/08/12 働く妖精
  7. 2008/08/08 学童祭り(2)・~夕涼み会の南国娘~
  8. 2008/08/06 学童祭り(1)・~お祭りは子供達の手作りで~

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コックリさんはやめとけ

学童サポートに入った、夏休みの或る日。
子供達に素人落語を披露した後、ラブラドールちゃん、ベガちゃん、モニカちゃん(いずれも仮名)の三年生女子トリオと一緒にお弁当を食べていた時の事である。

女子トリオの話題は、「怖い話」になり、

「あき乙女先生、怪談話せる?」

と、私に振ってきた。
落語にも怪談噺はあるが、私のレパートリーではない。
尤も、都市伝説やら実話モノやら、いくらか怪談は知ってはいるが、子供を徒に怖がらせるのも如何なものか。
が、あまりにせがまれるので、その中であまり怖くない部類の、「怖い」というよりは「不思議」な話を中心に幾つか語る。

それでも、ラブラドールちゃんなどは話が佳境に入ると、耳を塞いだり、近くの子の背後に隠れたりする。

私:「そんなに怖いんだったら、やめようか?」

ラ:「ううん、聞きたい!

・・・どないやねん。

元来、子供というのはこのように、好奇心の塊である。
それは、シュタイナー教育であれ公教育であれ変わりはないが、「知りたい」、「自分で試したい」、という、内面から湧き上がる衝動を大切にするシュタイナー教育で育った子供は、より好奇心が強くなる傾向にあるそうだ。これ自体は決して悪い傾向ではないが、周囲の大人が気を付けていないと、時として危険な事も起こり得る。

一例を挙げると、ドイツでは、ドラッグに手を出す青少年のうち、シュタイナー学校の生徒の割合は決して低くはないという。
危険は承知で、「実際に試してみたい!」という好奇心から手を出す例が多いそうだ。

こうした場合、何故子供がそれに手を出すに至ったか、その背後に目を向ける必要がある。

幼少期に周囲の大人に依存しきれなかった補いに、ドラッグに依存する場合や、今生の魂の課題の一つに、「中毒症からの離脱」がある場合など、色々あるだろう。

尤も、だからといってドラッグを「必要悪」と肯定しているわけではない。ドラッグに頼らずとも上記の補い等は出来るし、未然に防ぐ事も出来る。

さて、怪談をせがむ子供達。

別の時、ラブラドールちゃんが、「四年生になりたくないなぁ・・・」と呟いていた事がある。理由を聞くと、

「だって、四は『し(死)』でしょ?死ぬかもしれないじゃん!」

・・・いやいや、貴女の横に鎮座まします五、六年生のお兄さん・お姉さん達は、四年生で死ななかったから今もこうして存在してるんだっての。

とはいえ彼女は三年生、自分と世界に距離を置き出す年頃である。シュタイナー教育で云うところの「ルビコン世代」であり、孤独感や寂寥感を感じたり、子供によっては一人寝を怖がったりすることがある。
「死」について過剰に意識するのも仕方が無い。

そう考えると、彼女達が「怖い話」に関心を示すのも、年齢的に彼女達の内面に湧き上がる何かが、それを欲しているのかも知れない。

気付くと、四、五年生も加わり、怪談話で盛り上がり出した。そのうち誰かが「コックリさん」の話題を持ち出す。
「何それ!?どうやんの?」
と、興味津々の子もいる。これは危険だ、と判断した私、コックリさんについて語り出す。

そもそも「コックリ」とは(天狗)と書く。
狐や天狗の中には神の使いの高級神霊もいるが、邪霊に成り下がった存在も多い。この場合はそうした低級霊を指す。

また、「孤狗狸」というのは当て字、という説もある。明治にアメリカの降霊術が伝わったのがコックリさんの起源とされるが、当時は竹の棒の上に盆を載せ、盆の傾きによって占ったそうだ。
その盆が、「コックリ」と傾く事から「コックリ」さんと呼ばれ、「孤狗狸さん」という表記は後付け、というのだ。

が、そんな擬音は表現者のさじ加減である。
「コトリ」と傾くから「小鳥さん」とか、「カタリ」だから「騙りさん」とか、何でも良い。
やはり、低級霊の代表を羅列した「孤狗狸」・「コックリ」と表現したのは、それだけの意味が含まれているからだろう。

ともかく、子供達に、
「コックリさんで呼ばれて来るのは、低級な、邪な霊です!」
ということを伝える。

また、「コックリさん」がお帰りにならず、憑かれて気が触れた話や、死に至った話などもあるが、こうした話は都市伝説の域を出ないし、子供達を必要以上に怖がらせたくもない。なので、そのような話は避けて、自らの子供時代の体験を語った。

当時、「キューピットさん」というのが流行っていたが、結局やって来るのは「キューピット」を騙る「騙りさん」な低級霊なので、実質、「コックリさん」と変わりない。ともかく、子供の頃そんな事をやってみた私、

「将来、どんな職業が向いていますか?」

と伺ったところ、コインがこのように動いた。

  ・・・ゆ・・・

  ・・・う・・・

  ・・・れ・・・

  ・・・い・・・


・・・って、「幽霊」!?それは、「職業」なのか!?大学時代、「いや~、内定出たよ、幽霊の」と云ってた先輩や同期は、一人も居なかったっての。

ともかく、子供時代の私は、この答えに「死」の気配を感じ、戦慄したものだ。

「こんな怖い思いをする事もあるから、コックリさんはやらないように」
と、指導した。
が、子供は大人が語る内容より、それを語る大人の心中を読み取る。
コックリさんはやめておけ、という思いは本音だが、元来私は妖怪やら霊といったものが好きである。そんな大人がいくら注意を促しても、それが逆に子供達の興味をそそる結果となったようだ。

翌日、学童から帰って来た二年生の娘・ぴーぽこ(仮名)が、こう報告した。

「今日ね、学童でね、ラブラドールちゃんたちが、先生に注意されてたよ」

ベガちゃん、モニカちゃんも含む、例の三年女子チームである。何故かと問うと、

「コックリさんをしてたから」

・・・だから、試すなって・・・。
怪しいモノ好きな私がいくら云っても、説得力のカケラも無かった模様。



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人間の本質とは

さて、あなたの腕が切断されたとしよう。

・・・って、イキナリ何だ、「ジョニーは戦場へ行った」ばりの重い問いかけは!

いやいや、この問いを通して、シュタイナー教育や人智学で度々云われる「エーテル体」や「アストラル体」等について考察しようというのである。

改めて、切断された腕と、それ以外の身体、どちらがあなたの本体だと思うだろうか。
恐らくほぼ満場一致で、「腕以外の身体」と思うのではないか。

では、上半身と下半身ならどうだろう。

「下半身こそ我が本体だよ、だっはだははは」

そう云うオマエはせいぜい腎虚に気を配ることだ。これも多くの答えは「上半身」で差し支え無いだろう。

ならば、これはどうだろうか。

首と、胴体。

これは幾分答えが分かれるのではないか。例えば私は「首」が本体だと思ったのに対し、妻・みぽちは「胴体」と答えた。何故みぽちがそう思ったのかは後で述べるが、実際に数人に聞いてみたところ、意見は分かれたが、「首」という答えが多かった。

実はこの問い、数年前にあるラジオ番組で話題にしていたものだ。
その番組での趣旨はこうだ。人間は、より「脳」に近い部分を「本体」だと思う傾向があるが、果たして「脳」が人間の本体なのだろうか、と。

番組では、ある動物実験の結果が紹介されていた。
ニワトリとウズラの卵細胞の、将来「脳」になる部分を入れ替えたのだそうだ。
つまり、順調に成長すると、「ウズラの脳を持つニワトリ」と「ニワトリの脳を持つウズラ」になる、という事だ。

映画・「転校生」かっての!「オレがウズラで ウズラがオレで」か!?

そもそも私は動物実験自体好意的な目は向けられないが、ここではその是非はさておき、この実験の結果を述べたい。

最初は、これら二羽の鳥達は、孵化し、順調に成長していたそうだ。が、母鳥から受け継いだ免疫力が切れた頃、二羽とも急死したという。

何故なら、自己の免疫力が成長するに及び、移植された脳を「異物」とみなし、攻撃したからだ、という。生命を司っていると思われていた「脳」が、「免疫」に負けた、というのだ。

結果、「免疫」こそが生物の本質、という見方も出来るのではないか。そうなると、切断された腕も、残った胴体も、どちらも本体では、という話だ。

「えぇ~~~~~~・・・」である。そんな結論!?

「それは・・・どうなの・・・?」と思われる方も多いのではないか。

生命を単に物質的なものとして認識している限り、生物の本質が「免疫」だの、または「遺伝子」だのという結論にしか至らない。その結果には、「心」や「魂」といった要素が取り沙汰されていないのだ。

シュタイナーは、人間を四つの構成体に分けている。
まず、「物質体」。これは説明するまでもなく、肉体である。

次に、「エーテル体」。「生命体」とも云われ、生物を生物たらしめている要素だ。
冒頭の例えで云えば、切断された腕。これは物質的のみならず、エーテル的にも切り離される。だから、切断された腕は、次第に腐敗する。
つまり、切断された腕は、エーテル体から分離した時点で、ただの物質体になる。
肉体を成長させ、生命を維持させているもの、それがエーテル体である。

そして、「アストラル体」、つまり「感情体」。喜怒哀楽はここから発せられる。
冒頭の例で、妻・みぽちが、本体は首ではなく「胴体」と答えた理由は、

「心が胸の辺りにある様な気がするから」

確かに心を表す言葉は、「胸が痛む」、「胸が躍る」または「腹に据えかねる」など、胸や腹を用いた表現が多いし、実際、例えば恋の切なさ等を胸で感じた経験は、誰しもあるのではないか。
アストラル体は胴体にある、という訳ではなく、胸や腹に伝わった感情を、脳が知覚する、という事だろう。

また、上記の例で、「それは・・・どうなの・・・?」と思う違和感も、アストラル体によって発せられる。
それを思考したり分析したりする、それが第四の構成要素、「自我」
自分を自分たらしめるもの、それが「脳」という器官を通して、「自分」というものを知覚する。

「愛とはなんぞや」、「人生とはなんぞや」、こうした問いも、自我によって発せられ、「脳」という物質的器官によって思考されるのだ。

上記の動物実験によって、「脳」は所詮「免疫」によって支配される一器官である事が実証された。
が、それで「免疫が生物の本質」と結論付けるのは早計に過ぎるだろう。それでは実験台になったニワトリもウズラも浮かばれない。

かつて、フランスの化学者・アントワーヌ・ラヴォアジエがギロチン刑に処せられた時、

「ギロチンで本当に即死するのか」

を、自らの身をもって実験した。
首を落とされても意識のある限りまばたきを続け、その時間を助手に記録させる、という方法である。

結果、首が胴体と離れてから数秒の間、ラヴォアジエの首はまばたきを続け、「ギロチンで即死しない」という事を実証してみせた。

これは死後の痙攣である、という見解もあるが、それならラヴォアジエ以前にもまばたきをする首があった筈で、やはりこれは痙攣などではなく、彼の意志によるまばたきだろう。
つまり、「エーテル体」が分離するまでの肉体・「物質体」が、自我によってコントロールされていた、といえるのではないか。

「物質体」である肉体に、心魂的な「エーテル体」・「アストラル体」・「自我」、それらが密接に結びついたものが人間存在であり、それらを統合してコントロールしているものは「自我」。
こうした、心魂的な視野を持つ事で、人間の本質により近付けるのではないか。

「エーテル体」「アストラル体」「自我」については、今後更にそれぞれについて考察してゆく。

それにしても、私がラヴォアジエだったら、どうしようか。まばたきなどでは「痙攣だ」などと云われかねないので、いっそ肉体をフルに活用してみようではないか。

やす・きよの漫才に、どつかれて眼鏡を落とした横山やすしが、手探りで

「メガネ、メガネ」

と探すネタがあるが、これをやろうではないか。
首を落とされた胴体が、手探りで、

「首、首!」

と、探す。もしくは、落とされた首を胴体が抱いて、「腹話術」をやる。
・・・って、この場合、喋るのは首?それとも腹?


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子供とおもちゃ(2)~ガラクタが育むもの~

前回も書いたが、シュタイナー教育において、理想的な玩具の条件はおおまかに云って、次の二点に集約される。

①・自然素材であること

②・極力シンプルであること


「自然素材」が良いというのは何となく分かるが、「シンプル」というのはどういう事だろうか。

娘・ぴーぽこ(仮名)の通うシュタイナー学校のオイリュトミー教師・キリギリス先生(仮名・ドイツ人)が、以前、こんな話をなさった。

当時、キリギリス先生はドイツのシュタイナー学校で教鞭を執っていた。その頃、日本の大手玩具メーカーの方々が、視察に来られたという。
なんでも「シュタイナー教育のおもちゃは、子供の想像力を育む」という噂を聞き、それがどんな玩具なのかを調査に来たのだそうだ。

彼等は薄桃色の布やカーテンに包まれた、幼児部の部屋に通された。見回しても玩具らしいものは見当たらない。
「おもちゃは何処ですか?」と訊ねる彼等に、「これがそうです」と示された物は。

流木や木片、石ころや貝殻等々・・・。見ようによっては、ガラクタの山

日本人玩具メーカーの方々は、失望して帰ったという。

何故、こうしたガラクタが、子供の想像力を養うのか。

ぴーぽこがシュタイナー系幼稚園に通っていた頃、幼稚園から五角形、将棋の駒形の木片を貰って来た事があった。小汚い、タダの木片である。それに、先生が描いてくれた、シンプルなうさぎさんの絵。

その日の入浴時、バスタブに木片を浮かべて喜ぶぴーぽこ。
彼女にとって、それは「うさぎさんが乗った舟」なのだ。
勿論、そこには帆や櫂も無ければ動力機関も客室も、操舵室も、何も無い。

いや、無いからこそ良いのだ。木片であるからこそ、子供のイメージで、どんな舟、船にもなり得る。
筏やヨットにもなるし、遊覧船や豪華客船、人間魚雷・回天にだってなるのだ。
・・・いやいや、回天は物騒だって、うさぎさん、玉砕覚悟だって。

ともかく、リアルな船の玩具では、それがリアルであればあるほど、そこに子供が想像力を働かせる余地は無い。
木片だからこそ、帆をイメージして帆船にしたり、煙突をイメージして蒸気船にしたり、様々に想像が広がるのだ。

また、シュタイナー教育ではお馴染みの、「ウォルドルフ人形」。

ウォルドルフ人形 001

画像から分かるように、顔にはシンプルな目と口がちょんちょんとあるだけである。そこには表情も無い。
それが為、子供はその時の心情によって、人形の中に様々な表情がイメージできる。
楽しい表情、悲しい表情、嬉しい表情・・・。

尤も、表情がある人形が「良くない」という訳ではない。子供が気に入って、愛着を持てるのが一番だ。
にこにこと優しい笑顔のお人形も、それはそれで良いものだ。ただ、そのお人形はいつも笑っており、子供の心情を反映しにくい、というだけの事だ。
無論笑顔にも、嘲り笑い、悲しみ堪えた泣き笑い、竹中直人の「笑いながら怒る人」など色々あるが、子供にはそんな微妙な機微は分からない。

ともかく、玩具はそれが不完全であればあるほど、子供の想像力、創造力が膨らむのだ。

因みに、画像のウォルドルフ人形は、妻・みぽちの手作り。

ここまで凝ったものではなくても、また上手な出来栄えではなくても、親が玩具を手作りするのも良いだろう。

私が幼少の砌、母がおもちゃを作ってくれたことがあった。
父の存命中は、「おもちゃ」といえば「買うもの」だったので、それを手作りしようというからには、父の入院中もしくは他界後の、経済的に恵まれていない頃のことかと思われる。

私の為に何かを作ってくれている母の姿が、妙に嬉しかった。針金を鉛筆に巻きつけ、バネを作る母の手元を眺めつつ、

(こうしたら針金がバネになるのかぁ・・・)
(・・・バネを使って、何が出来るんだろう・・・)


と、ワクワクした気持ちになった事を覚えている。

シュタイナー教育でも、親が子供の為に、ワクワクしながら何かに取り組むと、その気持ちは子供に伝わる、という。
欲しかったおもちゃを買って貰った時も勿論嬉しかったが、この時の記憶はまた格別な思い出として私の記憶に残っている。

前回の記事で、幼い私の心にトラウマを刻印してくれた母だが、同時にこうした宝のような思い出も、残してくれている。

こうして母が作ってくれたのは、ビックリ箱

ただ問題は、その製作工程の一部始終を見ていたので、

ちっともビックリしなかった、という事だ。



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子供とおもちゃ(1)~ゴミを土産に~

実に数年振りに、アシスタントの仕事に出向いて来た。
某・有名少女漫画家のスタジオで、私と妻・みぽちが初めて出会った場所だが、そんな思い出話はどうでもよい。

懐かしい顔や新しい顔、アシ仲間とお弁当を頂いている折、ふと思い立った。

「あの、食べ終わったら、皆が使ってる割り箸、貰ってもいい?」

「え!?」

一瞬、場が凍りついた様に感じたのは、私の気のせいか、否か。
いやいや、童貞中学生じゃあるまいし、女子の使用後の箸を舐めようというつもりは無い。

事情を説明すると、皆、快く割り箸を提供してくれた。
事情とは、こうだ。

二年生の娘・ぴーぽこ(仮名)、上級生の子達が割り箸鉄砲を作っているのに影響され、自分でも作ってみたくなった様子。
家の割り箸を持ち出し、

「これで作っていい?」

良かぁない。格別エコに熱心という程ではないが、それにしても新品の割り箸を使うなど、私が許しても、ケニアの環境保護活動家のワンガリ・マータイさんが

「モォ~ッタイナイ!」

と云って許さないだろう。

使い終わった割り箸を洗って、それで作りな、と話したところ、

「今日のご飯、割り箸を使いたい」

だ・か・ら!自宅で割り箸って、そんなワンガリ・マータイさんが

「モォ~ッタイナイ!」

と云いそうな事は出来ないっての!行楽に出かけたりした時に使った割り箸を云々と説明して、ようよう諦めさせた。
が、ただでさえ我々はイン・ドア夫婦。然もこの猛暑と多忙の中、お弁当持ってお出かけ、等という機会も無いまま、現在に至っている。

そこで、アシ仲間の使っている使用済み割り箸を貰い、洗って乾かし、それをぴーぽこにあげようと思ったのだ。

シュタイナー教育において、子供にとってどんな玩具が理想的か、詳細は次回に譲るが、大まかに云って次の2点に集約される。

①・自然素材であること

②・極力シンプルであること


極端に云って、ドングリやら小石等で十分、下手な知育玩具より余程想像力や感性が養われる。
大人にとってゴミ同然の物でも、子供にとっては宝である事も多々ある。
大人は、まずそれを理解する必要があるのではないだろうか。

私がぴーぽこと同い年ぐらいの頃、工作の本を読んだ。その中で、トイレットペーパーの芯を使った工作に、格別心惹かれた。
当時、田舎の我が家で使用されていたのは所謂ちり紙、便所紙。「トイレットペーパー」などハイカラですらあったので、その芯など手に入れるべくもなかった。

さて、当時病弱だった私、時折本土の病院に入院していたのだが、大分回復して点滴も外れたある日。自力でトイレに行って驚いた。

なんと、トイレが軽く改装され、トイレットペーパーが導入されていたのだ。

然も、隅にはトイレットペーパーの芯が五、六本、放置されているではないか。

お宝である。宝の山である。

私は宝を手にし、意気揚々と病室に帰りましたとさ。昔話なら、これで「めでたしめでたし、とっぺんぱらりのぷぅ」、である。
が、現実はそうはいかない。
「なんでそんなものを拾って来るのか」
と、母に叱られた。

こちらにしてみれば、滅多に手に入らないお宝、憧れの工作材料である。
が、母にしてみればただのゴミ、然も便所から拾って来るなど言語道断、といったところだろう。

当時の私は何故怒られているのか理解出来ぬまま、折角のお宝を悉く取り上げられた。
それをトイレに戻しに行った母、病室に帰って、再度怒り出す。
通路途中の休憩スペースでくつろいでいたオバさん二人、お宝いやさ大人にとっては汚いゴミを嬉しそうに持ち帰る私の姿を見ており、「変な子供だ」と笑い合っていたそうだ。
「何故そんな恥ずかしい事をするのか、世間に笑われるような事をするな」と、二度怒られた。

こちらは工作をしたかっただけである。
無論、大人にとってのゴミが、子供にとっての玩具、お宝になる事が有り得るとはいえ、その素材の安全性や衛生面に、大人は気を配り、適切に指導する必要はあるだろう。

が、この様に、親に頭ごなしに怒られた事や、「世間」とやらにあざ笑われた経験は、子供にとって不条理な事実として認識され、それらが積み重なると「大人」や「世間」といったものが尊敬出来なくなるばかりか、むしろ軽蔑するようになる。
これは私の経験から得た見解に過ぎないが、シュタイナー教育においても同じような内容が述べられている。

・・・って、シュタイナー教育における「玩具」について述べるつもりが、いつの間にか自分のトラウマ話になってるっての。

さて、スタジオから大量の使用済み割り箸を持ち帰った私、

「ぴーぽこさん、実はお土産があるのですよ」

「え!?なになに?」

期待に眼を輝かせているぴーぽこを見て、(しまった・・・)と思う私。「お土産」などと云って、過度な期待をさせてしまったのではないか。

お土産、割り箸。然も使用済みって。

ゴミじゃん。

差し出されたゴミいやさ割り箸を見たぴーぽこ、一瞬不審そうな表情。

「??・・・何??」

が、すぐに表情に喜色が浮かび、

「・・・割り箸!?・・・あ!割り箸鉄砲!! やったぁ!

・・・安上がりな娘だな。



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働く妖精

誰しも、幼い頃、親や先生等に、妖精が登場するメルヘンを読み聞かせて貰った経験があるのではないだろうか。
また、親になって、幼い我が子にそうしたメルヘンを読み聞かせた方々も、少なくはないだろう。

シュタイナー研究家で、多くのシュタイナー著書を翻訳もされている西川隆範氏によると、シュタイナー教育においては、妖精の存在を否定している大人が子供に妖精が登場するメルヘンを語るのは、虚偽的行為になる、という。大人は、妖精の存在を宗教的に妄信するのではなく、精神科学的探求を経て確信する必要があるのだそうだ。

・・・って、どんな探求をせよと!?

などと、常識人ぶったツッコミを入れるのはよそう。なにしろ私、幼少の砌より妖怪やら妖精といった存在に格別の興味を持っていた事は、これまで何度か記事でも書いた通りだ。

そもそも妖精など存在するのか。
北欧では、地域によっては今でも妖精との交流が行われているそうだ。
例えば道路を作る時、「そこに道路を作ってよいかどうか」を、その地域の妖精・自然霊に、霊視能力者を通して伺いを立てる。もし妖精によって拒否されたら、迂回して道路を作るのだそうだ。

こうした風習を一笑をもって付すなかれ。日本においても似たような風習はある。
例えば、地鎮祭。尤も日本では、土地の神・精霊に伺うのではなく、「ここに家を建てますのでひとつ宜しく」って、それじゃ事後報告だって。
ともかくこうした祭事は、かつての自然霊や土地神などとの交流の名残りであろう。

さて、シュタイナーが優れた科学者でもあった事は周知だが、同時に霊視能力者でもあった。彼の眼には、妖精も視えていたそうだ。
が、シュタイナーは非常に慎重であった。

「妖精さんが視えるなどと云っても誰も信じてくれないだろうし、自分の思想全体がキワモノ扱いされてしまう」

と思ったかどうか、彼は永年そうした領域については沈黙を守った。
そうして、こうした存在について観察や科学的考察を重ねた挙句、機が熟した頃を見計らって、講演等の場で発表した様だ。

私など、妖精を視た日には喜び勇んで吹聴することだろう。

さて、古来より、数々の妖精伝説が伝わっている。エルフやニンフあたりは有名で、可愛らしい、又は美しい妖精の代名詞でもある。
中には人間にとって性質の悪い者もおり、例えばロシアのヴォジャノーイなどは妖精というより妖怪、人を川に溺れさせて命を奪うのだから、日本の河童に近い存在と云える。

また、日本の「家鳴り」、「クネユスリ」や「座敷童」、「倉ぼっこ」といった妖怪達と西洋の妖精・ボブゴブリンとの共通性等書き出すと、話がマニアックになって、もはや「シュタイナー」でも「育児生活」でも何でもなくなるので、ここは割愛するが、ともかくこうした視えざる存在達は、洋の東西を問わず、広く親しまれ、時に畏れられている事には疑いはない。

一口に「妖精」と云っても、妖怪的なものまで含めるとその種類はあまたあるが、シュタイナーが言明しているのは、所謂「四大元素霊」と呼ばれる存在だ。

つまり、

①土の精・グノーム(ノーム) ②水の精・ウンディーネ 

③風(空気)の精・シルフ ④火(熱)の精・サラマンダー


である。
四大元素霊について言及したのは、16世紀、ヨーロッパの科学者・錬金術師のパラケルススである。
この世界は四元素~地・水・火・風~によって構成される、という思想で、それぞれに精霊が宿っている、という。

因みに東洋ではこの「四大」に「天空、又は無」を意味する「空」を加えて「五大」、更に「識」(意識)を加えて「六大」によって構成される、との思想もあるが、これなどは非常にシュタイナー・神秘学の匂いがして興味深い。

シュタイナーは、自ら知覚した妖精たちを、便宜上パラケルススが提唱した四大元素霊の名で紹介した。
「便宜上」というのは、彼等がそれぞれ「地・水・風・火」の特性を備えているからであり、シュタイナーが述べる妖精の実像と、一般的な四大元素霊のイメージにはいくらかの相違点があるからだ。それら相違点については、今後述べてゆきたい。

さて、シュタイナーによると、彼ら元素霊は鉱物界、植物界と関わりを持つ。特に植物の生育には、彼らの存在は欠かせず、重要な役割を担っているという。
また、動物界や人間界と関わっている者もいる。
善良な者もいれば、邪悪な妖精もいる。

妖精や妖怪の多くは気儘に暮らしているが、シュタイナーが「妖精」として取り上げているのは、主に前述の、役割を担って「働いている」四大元素霊たちである。彼らは天使の眷属のような存在なのだ。

この四大元素霊と一致はしないが、日本でも似たような存在はいる。妖怪、自然霊と呼ばれる者の中でも、天部の神仏の眷属として働く者たちである。
例えば天狗、龍、狐や蛇といった存在たちで、元素霊同様善良な働き者もいれば、邪悪な低級霊もいる。
役割こそ違え、彼らも元素霊に近い存在ではなかろうか。

今後も折に触れ、彼ら妖精たちについて、更に詳しく考察してゆきたい。

そういえば、以前、ドイツ人シュタイナー教師・小籠包先生(仮名)と会食した折、妖精・グノームについて質問した事があった。
彼は開口一番、

「君はそれを、真面目に聞いているのか、それとも

フザけているのか?」


心外だな!こちとら大真面目だっての。「本気」と書いて、「あき乙女」と読む。
彼にそれを告げると、丁寧に質問に答えてくれた。そして最後にこう付け加えた。

「ヨーロッパでは、シュタイナー教育や育児について質問される事はあっても、妖精について聞かれる事はまず有り得ない。だから始めに、真面目に聞いているのかどうか確認したのだ」

・・・いや、日本でもそんな酔狂な質問をするのは、私以外そう多くはないだろう。


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学童祭り(2)・~夕涼み会の南国娘~

前回の記事の続き。

外部参加の子供達(主に幼児)によるスイカ割りとお神輿担ぎが、最後のイベント。決して広くはない校庭だが、小さい子供達が神輿を担いで練り歩くには十分。
この可愛いお神輿で、学童祭りの幕引きとなる。

外部参加の方々が帰ってから、内部の親子による学童祭りの第二部・夕涼み会が始まるのだ。

まず、各自お祭りのチケットを確認し、やり残した遊びや食べ損ねたものがある子が食べたり遊んだりする時間。
そして、後片付け。子供達で準備したお祭り、当然後片付けまで自分達の手で行う。我々親も、お手伝い。

片付けが済んでからが夕涼み本番である。

まずはスイカ割り。子供達皆が出来るように、何個ものスイカが用意されている。

私はこの後の神輿担ぎやフォークダンスに備え、例によって妖精スプリンクラーと化し、くるくると校庭に水を撒いていたので、スイカ割りの様子は余り見られなかった。
二年生の娘・ぴーぽこ(仮名)は、早くに順番が回って来た様で、その勇姿すらも見損ねてしまった。

前半は子供達がお祭りを取り仕切っていたが、後半は子供達が十分楽しめるように、親の出番も増える。
子供達が割ったスイカを、傍らで切ったり、お盆に並べたりする母達。

低学年から順番にやるので、後になるに従って、スイカの割れ具合も激しくなる。
竹の棒を使っているとはいえ、流石に五、六年生辺りになると、力が違う。

運ばれてくるスイカは、もはや「スイカ割り」ではない。「スイカの惨殺死体」である。
スイカの背後から、鈍器で撲殺。そんな塩梅。

そんなスイカの死骸を喰らいつつ、次なるはお神輿担ぎ。
この時我々は、決定的なミスを犯す事になる。

と云うのも、次に行われるフォークダンス。
昨年は、上級生母・ラムさん(仮名)のアコーディオン生演奏で、マイムマイムを踊った。今年は私も、ウクレレで参加する事に。
曲目も増え、今年は「立川音頭」という、立川市民にのみお馴染みの音頭もやるそうだ。
生憎小金井市民の私、立川音頭は知らないので、こちらはボンゴを叩いてリズムを取る事に。

更に、五、六年生の有志の女子四~五人が、リコーダーやヴァイオリンで一緒に演奏する事になった。
ここに、今年はピアニカのラムさんとウクレレ/ボンゴの私に、リコーダー、ヴァイオリンの女子達という、異色の親・子共ユニットが結成された。

だが、揃って練習する時間など無く、ぶっつけ本番である。
せめてテンポの確認や軽い音合わせをしようと、神輿担ぎの傍らでリハを始めた。

これが、間違いであった。

神輿そっちのけで我々の前を囲む子供達。ホーミーで呼び寄せられた家畜か、という勢いで、群がる、群がる。お神輿を担いだ子供達が、この人垣の背後を粛々と通る。
子供達、こっち見てなくていいから、お神輿を見なさい!

つか、オマエらも神輿を担げ!!

・・・次回もこうした機会があるなら、リハは陰でひそやかにやるべし。

そうして、夕涼み会のクライマックス、皆で輪になってのフォークダンスである。

シュタイナー教育では、親、大人が楽しんでいる姿を子供に見せる事を重視している。
これは単純に享楽的、という意味に止まらず、困難に直面しても、それを乗り越えることを楽しむ、人生そのものを大人が肯定的に捉えている姿、という事だろう。

私の場合は、単純にその場を楽しむ。
折角のお祭り、ハレの日である。ウクレレ演奏するからには、妖精の魔法を使わぬ手はない。
留めていた髪を下ろし、ピンクのハイビスカスのレイを、一本は首にかけ、もう一本は頭に巻いて、

南国娘に大変身よ!

いや、魔法と云うか、軽度のコスプレだが、演奏メンバー・六年生のディアナちゃん(仮名)は私の姿に度肝を抜かれたようで、

「えぇっ!?」

と、目を丸くして絶句。ややあって、
「ちょっと・・・可愛いっぽいんですけど・・・」

可愛いですと!?・・・もっと云って。

だが、一部の大人は容赦無い。
暑いからかタオルを頭に巻く上級生母・アマテラスさん(仮名)。娘のブライトちゃん(仮名・演奏メンバー)は、そのスタイルが著しく気に入らないらしく、
「ママ!それやめて、キモいから!」
するとアマテラスさん、私を指し示し、

「こっちの方がよっぽどキモいでしょ!」

って、私を引き合いに出すな!

上級生母のキッコロさんなどは、私の前を通り抜けざま、

「よく似合ってるわよ、オジサン!」

きぃっ、悔しいったら。日本じゃ珍奇でも南洋じゃ美人なのよ!
・・・いや、洋の東西を問わず、どこに出ても珍奇か。

妻・みぽちに至っては、そんな私を無言のまま、生温かい目で一瞥。
なにもこんな事は、今に始まった訳じゃない。レイは幼稚園のお祭りでの、ウクレレ隊の定番スタイルだったではないか。
尤も私以外のメンバーは、全員ママ達だったが。
それでも当時私は、レイのみならず、ロングスカートをはいて(然も妻・みぽちの)、フラダンスまで披露したではないか。それにくらべれば今回はまだ随分マシである。

だが、妻・みぽちはその後行方をくらまし、フォークダンスが終わるまで、ついに姿を見せなかったという。


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学童祭り(1)・~お祭りは子供達の手作りで~

学童保育の夏休み恒例の、「夏祭り」。
二年生の娘・ぴーぽこ(仮名)が通うシュタイナー学校の、夏期学童の企画であり、外部のお客さんを招いて行われる。

親達による軽食コーナーもあるが、なにしろメインは子供達による様々な出店。
一年生から七年生(今年の参加最上級生は六年生)の生徒達が縦割りで、幾つかのチームに分かれ、それぞれ出店の準備をする。

ぴーぽこは、色水チーム。の水を混ぜたり薄めたりして、スーパーの傘袋の様な、縦長のビニール袋に入れていく。
参考までに、ぴーぽこの作品。

いろみず

各チームはそれぞれA・Bのグループに分かれ、交代で店番をしたり、他の出店で遊んだりする。

軽食以外の出店は、基本的に子供達の手によって作られる。大人はそれを見守り、必要な時のみ、サポートする。

当日、学童の教師サポートに入った私、的当てチームのサポートをすることになった。
事前の打ち合わせで、学童の先生曰く、

「的当ては、男の子チームなんです」

なんですと!?手弱女のような私が、男の子チームをサポートですと!?

が、普段接触の少ない中学部の男子と接する良い機会。

的当てチームのリーダーは、六年生のボンボヤージュくん(仮名)。私の出る幕が殆んど無いぐらいしっかりした子で、きびきびと皆を率い、準備を進める。係の割り振りも、低学年の子ならこの仕事は出来るだろう、等と、しっかり全体を見て行う。見事なまでのリーダーシップである。

特に一、二年生の子供達は働く事が楽しい様子で、小さい身体でちょこちょことボンボヤージュくんの指示に従っている姿がなんとも可愛らしい。
少し上の学年の中には、働く気があるのか無いのか、ダラダラと準備をしている子もおり、内心(大丈夫かいな・・・)と懸念したりもしたが、いざお祭りが始まると、外部参加の幼児を優しく誘導したりして、しっかり働いている。

さて、子供達が頑張って用意した的当てコーナー、流石に「ソツが無い」、とまではいかない。幾分ツッコミ所があるのが御愛嬌と云うか、むしろ子供らしくて良い。

まず、的当ては、9分割して穴をあけた段ボールの的に、ゴムボールを投げ、的(穴)に当てるのだが、各穴には番号がふられており、当てた番号によってそれぞれの景品が貰える。(外れても残念賞が貰える)
その番号が、1~7

的は9分割なのに、番号は7まで、じゃぁ、残り二つは?
残り二つの的には、それぞれこう書かれていた。

「ざんねん」・「ハズレ」

的に当たったのに「ハズレ」って。

尤も「ハズレ、ざんねん」にも景品がある。景品にパジェロもある某・ダーツで、タワシが当たるようなものだ。

この的が、思ったより小さく、なかなか当たらない。たまに当たっても、「ざんねん」や「はずれ」だったりして、残念賞の景品・折鶴や紙ヒコーキだけが次々とはけてゆく。

折り紙インフレーションの発生、である。

一方、上位の景品・割り箸制輪ゴム鉄砲等は、デフレ・スパイラルの嵐。

然もよく見ると、折り紙細工は結構雑な作品が多い。彼等の器用さを思えば、明らかにやっつけ仕事である。
が、割り箸鉄砲はなかなかの出来栄え。恐らくこちらの製作に力を注ぐあまり、大量の残念賞作りが間に合わなかったのだろう。
また、全体的に、折り紙細工は女子の方が丁寧な傾向がある。メンバー総男子の的当てチームの子供達が、どんな調子で大量の折り紙を折ったのか、想像すると微笑ましい。

また、的のボードは二つあり、一つは幼児専用、的のすぐ前から投げられる。
もう一つが小学生以上用なのだが、各学年によって、投げる位置を変える。当然のハンデで、一年生は的の近くから投げられるが、六年生や大人は遠くから、という事になる。

「その印はどうしますか?」

と、子供達に投げ掛ける。靴で地面に印を付けてもすぐにぐちゃぐちゃで分からなくなるだろうし、チョークで線が引けるような土壌でもない。棒切れでは動いてしまうし、投げる時足元が邪魔だ。

子供達がどう創意工夫するか見ていると、ジョウロの水で、ラインを引く。

乾くだろ!

が、子供達は乾きかけるとまた水で線を引き直す。こうした労力を惜しまない。

他にも幾つか、(こうすればもう少しスムーズになるのでは?)と思える点もあったが、敢えて多くは語らない。子供達はそれらを自らの体験によって、次回へとつなげてゆくだろう。
シュタイナー教育では、例えば算数の公式を、機械的には教えない。自分達で、それを発見する喜びを大切にするのだ。
彼等の出店には大きな失敗こそ無かったが、「失敗する」という体験をも、シュタイナー教育は重視する。

ともかくも、子供達はそれぞれ連携して、自主的に出店をきりもりした。
低学年の子達は、頼もしい上級生の姿に憧れ、自らもきっとその様に育ってゆくだろう。

後半になると客足も落ち着いたので、私も現場を離れ、軽食を頂いたり、他の出店を回ってみたりした。くじびきやヨーヨーすくいを楽しみ、いよいよお菓子すくい。
お菓子すくいはまずサイコロを振り、出た目によって小さいおたまか大きいおたまを渡される。それで、ザルにつまれたお菓子をすくうのだ。

お祭りも終盤近くとあって、お菓子の残りも少ない。ここは大きいおたまをゲットし、残りのお菓子を根こそぎさらってやろうと、大人げ無く目論む私、36歳。

(6よ、出ろ!)

と念じてサイコロを振ると、見事、出た目の数は、、これぞ妖精の底力。

ところが、「どうぞ」と子供に手渡されたおたまは、小さい方。え!?「6」なのに?

聞けば、奇数が大・偶数が小だって。数の大きさで決まる訳じゃないのね・・・。

どちらかというと物欲は薄く、食への執着も少ないと思っていた私だが、意外なところで自分・再発見。

・・・私はどうやら、大きなつづらを選ぶタイプだ。


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