2008年09月

  1. --/--/-- スポンサーサイト
  2. 2008/09/25 人間の本質とは(4)~植物の「エーテル体」観察記~
  3. 2008/09/19 少し変わった運動会
  4. 2008/09/14 人間の本質とは(3)~「エーテル体」の知覚法~
  5. 2008/09/07 人間の本質とは(2)~「物質体」と鉱物の不思議~

スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

人間の本質とは(4)~植物の「エーテル体」観察記~

以前、エーテル体について簡単に述べたが(参照)、今回は特に「植物のエーテル体」について触れたい。

「『植物のエーテル体』って、『人間の本質』じゃないし、そんなん、もはや『育児生活』ですらないじゃん!」

と思うなかれ。鉱物、植物、動物あっての人間、全ては独立しては存在し得ないのだ。

また、「育児」についても然り。例えば、子供と一緒の散歩道。道端に生えている草花や、そこに集まる虫や小動物たち、そして視えないけど、彼らと共に存在している妖精たち。
そうした存在に、親が興味や畏敬の念を持っているか。

「あ、ほら、○○ちゃん、見てごらん。こんなところにも、きれいなお花が咲いているねぇ!」

親が路傍の小さな花に感動する。それが子供にも伝わり、ひいては子供の感受性や、周囲の世界に対する畏敬や興味が育まれる。
大人が色々な視点で自然に触れるのも、育児とは無縁ではないだろう。全ては繋がっているのだ。

さて、人間界・動物界・植物界・鉱物界から成るこの物質界で、エーテル体を持つ最も下位の存在は、「植物界」である。
前の記事で、エーテル体の働きを、大雑把にこう括った。

・物質体(肉体)に浸透している
・物質体を成長・維持させる
・物質体を自由に運動させる

上記の働きの中で、植物に当てはまらないものがある。「それは何でしょう?」などとミニクイズを出題するまでもなく、答えは明白であろう。勿論、「物質体を自由に運動させる」という点である。

高尾山の「蛸杉」は、修験道の山道を拓く折に邪魔になったというので、一夜のうちに自分で移動した、という伝説がある。
「クララが立った!」というだけでもあれだけの大騒ぎである。ましてや

「杉が歩いた!」という日には、乱痴気騒ぎは必至である。

「蛸杉伝説」の真偽はともかく、「木が勝手に移動する」という事が伝説になるぐらい、彼等は成長こそすれ、「自由に」動くことはない。

植物は、その点で鉱物的領域に止まっているが、飽くまで化学的視点のみで云うなら、それは細胞壁によって自由を拘束されているからである。これは理科の時間に習う事だから、周知であろう。

が、中にはこの領域から抜け出た存在もいる。
これも理科の時間に習った、有名な単細胞植物・ミドリムシはその典型であり、お馴染みだろうから詳述はしない。

ここで取り上げたいのは、シュタイナーと同時代を生きた日本の博物学者・南方熊楠の研究で知られる、

「年金」である。いや、違う。このように一発変換出来ないぐらいマイナーな存在の、

「粘菌」だ。

彼等は、一時間に数センチではあるが、まるで巨大なアメーバのように、動く。
南方熊楠は自由自在にゲロを吐けたので、喧嘩の時など相手にゲロをお見舞いしていたそうだが、もしこのゲロが粘菌の様に動いたなら、さぞかし厄介だったことだろう。

ともかく粘菌が動けるのは、細胞壁が無いからだ。そうして動きつつ、餌となるバクテリアを食べて成長するのだから、極めて動物的といえる。

やがて粘菌は活動を停止する。そこで彼等は細胞壁を持つ完全な菌類・・・植物になり、胞子を飛ばして生命を次世代に託し、枯れてゆく。

こうした成長、成長した肉体の維持、繁殖といった作用を、肉体に浸透して行っているものが、「エーテル体」なのだ。
一般的な植物においても、発芽し、地中に根を張り、地上に茎を伸ばし、葉を茂らせ、花を咲かせ、そして実を結ぶ。光合成なども含め、こうした植物の成長を促進するのが、植物の「エーテル体」なのだ。
そして、「枯れる」という状態は、エーテル体の分離に他ならない。

もし、植物達が、若い粘菌のように「細胞壁」という呪縛から解放されたなら、彼らの意識は少しだけ目覚め、自由な動きを獲得するのかもしれない。

また、「エーテル体」からは離れるが、こうした粘菌の生涯を進化論的に考察するのも面白い。
つまり、

・動物的なものが、成長するうちに植物に進化(あるいは、退化)したのか。
・または、植物が動物的な子孫を生み出したのか。

大きく、この二通りの視点が現れる。「卵が先か、ニワトリが先か」的な問いではあるが、考察は膨らむ。

例えば、後者の場合、「植物が動物的な子孫を生み出したが、更に次世代につなぐには、再び植物状態に退化する事を余儀なくされている」と云えるかもしれない。その意味では、粘菌は「動物になりたがっている植物」と云える。

こうした視点で動物界・人間界へと考察を進めるのも面白い。いずれ「シュタイナーの進化論」について書く機会があれば、改めて記事にしたい。

さて、我が家には何鉢かの観葉植物があるが、その中で、名を失念したものがある。仮に「ナントカ草」というミもフタもない名で呼ぶが、このナントカ草、丈夫なので、その分世話を怠りがちになる。
気が付くとしおれており、大慌てで水を遣って数分後に見ると、もう青々と復活している。

「オマエはカップ麺か!」

と、突っ込みたくなる回復力。

ある日、またしおれていたので、急いで水を遣り、今度はじっと観察する事に。
すると、しおれていた葉が、ゆっくり、じわじわと葉をもたげてゆくではないか。
また、時折、ピ~ン・・・と跳ねるようにして持ち上がる。まるで落ちてきた水滴を受けたような動きで、そうした外的な作用に似た動きを、内的な作用によっても行うことに、驚いた。

この時、植物の葉や茎に浸透した「エーテル体」の存在を感じたものだ。

早速娘・ぴーぽこ(仮名)を呼び、じんわりと復活してゆくナントカ草を見せる。

ぴーぽこ、暫し観察しつつ、こう呟いた。

「・・・怖い!」

家でも学校の授業でも、ぴーぽこにとって「園芸」は既にお馴染みなので、植物も「成長している」、という事は知っている。
が、実際にゆるゆると動いているのを目の当たりにしたのは初めてである、怖がるのも仕方ない。

「草や木も、生きているんだね」とだけ云うと、ぴーぽこなりに納得したのか、暫し二人してナントカ草を観察したものだ。

・・・二年生のぴーぽこはともかく、大の大人の私が、昼日中から葉っぱが動くのを呑気に眺めているのも如何なものか。そんな暇があったら仕事しろ、という話である。

が、よくしたもので、私は目下さほど売れてもいないので、これぐらいの時間的余裕はある。
これが、週間連載を抱える売れっ子作家なら、なかなかこうはいかない。売れていないことに乾杯、である。

・・・と云うか、もう少し売れたい。


ブログランキング
乙女への励まし代わりに↓をクリック
σ.σ
ブログランキング・にほんブログ村へ
こちらも↓
b_04.gif
スポンサーサイト

少し変わった運動会

運動全般苦手だった私は、子供の頃「運動会」を呪っていた。もう、台風でも来て学校ごと吹き飛ばしてくれればいいのに、とまで思っていた。怨嗟と云ってもいい。

が、二年生の娘・ぴーぽこ(仮名)は、足が早くもないのに、運動会を楽しみにしている。
それは、ぴーぽこが通うシュタイナー学校の運動会が、私の子供時代のそれと少し様相が違っているからだろう。

数年前まで、運動会は学校近くの原っぱで行われていたそうだ。宮澤賢治の理念にも基くこの学校、土砂降りの中、普通に運動会を行っていたと、今でも語り草になっている。まさに「雨ニモ負ケズ」である。
が、原っぱが駐車場になったり、生徒数自体増えたりで、今では近所の市営グラウンドを借り切って行うようになった。そうなると、雨の日はグラウンドを貸して貰えない。
その為か、残暑の中無事運動会が行えた昨年、開会式での学校代表・T.T.T.先生(仮名)の挨拶、

「晴れたねぇ!良かったねぇ!!
・・・終わり」


って、早ッ!!貧血で倒れる隙も与えない。

さて、今年は涼しい薄曇、前日の雨でグラウンドも適度に湿り、まさに運動会日和であった。
開会式後、全学年一斉に行われる「手つなぎ鬼」でプログラムが開始される。
一年生から十二年生(つまり高三)まで、百人あまりの生徒達が入り乱れての鬼ごっこは、まさに圧巻。

その後のプログラムは至って普通、学年ごとの徒競走や学年種目、大玉ころがしやリレーなど、紅白二チームに分かれて行われる。(競技や子供達の様子の詳細については改めて記事にしたい)

「点数や順序で子供達を評価しない」というのがシュタイナー学校の原則だが、かといって徒競争で「皆が手を繋いで、一斉にゴール」という馬鹿げた事はしない。

ではどうするのか。

普通にやるのである。皆、全力で走る。順位は勿論付くが、ただそれだけの事で、賞も何も無い。
因みにぴーぽこ、徒競走はビリであった。が、それはただそれだけの事である。

と云うのは、これが普通の運動会との一寸した違いで、紅白二チーム対抗戦ではあるものの、点数は付かないのだ。

例えば「大玉ころがしは、紅組の勝ち!紅組20点!」等と点数が加算され、最終的に「紅組、合計350点!白組、280点!よって今年は、紅組の勝ち!!」となるのが普通である。
が、この学校の運動会では、それが無い。紅白どちらが勝ったか、といった勝敗は、各競技その時だけのものなのだ。

思えば私が子供時代、足が遅かった私は徒競走等では決まって「ビリから二番」であった。足が遅い子はからかわれるし、それによってチームの足を引っ張った日には、足の速い連中からなじられもした。それは、運動会を呪う気にもなろうというものだ。

が、この学校ではそうした事は無い。賞や点数など無くても皆頑張るし、遅い子や失敗した子をなじったりもしない。

よく誤解されるが、シュタイナー教育は「競争をさせない」のではない。勿論競争を奨励もしないが、子供達は自主的に競争するし、それを禁止する訳でもない。
子供達が自ら競争するのは自然なことで、大事なのは大人が競争させる訳でも、その結果を点数などで評価する訳でもない、という事だ。
大人は「運動会」という場を提供するだけで、子供達はその中で切磋琢磨し合う。これは、「競争」のごく真っ当なあり方ではないだろうか。

ぴーぽこが、例え徒競走の練習でビリであろうと、それでも運動会を楽しみにするのは、こうしたやり方が子供達の心に無用な劣等感を植え付けないからであろう。
少しの違いが、子供達に大きな違いとなって現れる事は、多々あるのだ。

親達も、我が子の学年や紅白どちらのチームかに関わらず、競技中の子供達に声援を送る。自分の子供の競技だけ見る、という親は稀で、多くの親は他学年の子供達にも声援を送るのだ。

よく運動会の朝、「親の席取り合戦」が行われる、という話を聞くが、この学校ではそうした事は起こり得ない。運動会終了後、学年毎に親子・先生一緒にお弁当を食べるから席を確保する必要も無いし、それぞれが譲り合って観戦するので、場所の独占も起きない。

「一、二年生の競技が始まるよ~!一、二年生の親はこっちにおいで、見やすいよ~!」

といった具合に、流動的に譲り合うのだ。

そうして声援していた我々に、親理事・おごじょさん(仮名)が、
「あなた達、リレーに出ない?」
と声を掛けてきた。

聞けば、急遽決まった特別プログラムで、親チーム対教師チームの対抗リレーを行う、というのだ。我々親は無論、教師達も初耳だったらしい。こうした場当たり的な事も、この学校ならではである。

子供達の姿に触発された私は、二つ返事で出る事に。
男女に分かれてトラック半周するのだが、普通に母の列に並んでいた私に、おごじょさんが一喝、

「あんたはあっち(父の列)でしょ!!」

そういやそうだ。
そんな次第で、私は四番目に走る事に。私に鉢巻を貸してくれた高等部の女子生徒が「がんばって下さい」と云ってくれたのが妙に嬉しく、本当に頑張って全力疾走、前の走者のリードを保って次の走者にバトンを渡した。

結局勝負は教師チームの逆転勝利であったが、運動会で走って、初めて心から「楽しい!」と思えた。

終了後、多くの人達に「足速いね~!」と云われたが、冒頭書いたように昔は遅かった。いつの間にか少しは速くなったものか。
ぴーぽこも「速かった」と云ってくれたが、「でも、お父さんも子供の頃はず~っとビリの方だったんだよ」と教えると、少し驚いた表情を見せた。
足が遅いぴーぽこにとって、少しは希望の光になれば、と思う。

私の走りは余程印象的だったのか、妻・みぽちも
「色んな人に『旦那さん、意外と足速いですね』って云われたよ」
と報告。更にこう続けた。

「でも、皆必ず『意外と』って付けるんだよねぇ(薄笑い)

つまり、何か。私が漫画家だから、スポーツとは無縁と思われているのか。単純に「速い」のではなく、

「普段動かない漫画家にしては速い」

という事だった模様。

「このカタツムリは、軟体動物にしては早い方だねぇ」

そんなんか・・・。



ブログランキング
乙女への励まし代わりに↓をクリック
σ.σ
ブログランキング・にほんブログ村へ
こちらも↓
b_04.gif

人間の本質とは(3)~「エーテル体」の知覚法~

私が「エーテル体」について書くというのも、危険なことである。
何故なら、私自身それを正確に知覚・理解している訳ではないからだ。
その上で敢えて書こうというのだから、自らの英断を褒め称えたい。
いや、むしろ無謀、蛮勇かも知れないが、ノン・シャラン。

まず、実際に「エーテル体」を知覚する方法を思いついたので、紹介したい。その方法とは、こうだ。

板の間に二時間正座して、反省するがよい!

・・・何だ、「反省」って。反省はどうでもよいが、ともかく暫く正座をする。すると、やがて足が痺れるであろう。その時、エーテル体に何が起こっているか。

圧迫された部分のエーテル体が、一時的に肉体から分離しているのである。
こうした状態の時、近くに悪戯者がいて、足の痺れを察知したなら、間違いなくあなたの痺れた足を、突付いたりくすぐったりしてくるだろう。と云うか、私だったら、必ずやる。それはもう、容赦なく、突付く。これを避けるには、

「あ~・・・足が痺れた・・・」

などとは云わず、

「あ~・・・足のエーテル体が分離した・・・」

と云って、悪戯者を煙に巻くと良い。尤も私には通用しないが。

やがて、次第に痺れが治まってゆく。一時的に分離していたエーテル体が、再び物質体(肉体)に浸透したのだ。
そして、やっと足の指先等が、自由に動かせるようになる。
足の痺れや、それが次第に治ってゆく時の、独特の感覚。これを通してエーテル体の一端を感じる事が出来るだろう。

また、別の方法。

腕か足かを切断してみよう!

って、トカゲの自切(シッポ切り)じゃあるまいし、スナック感覚で試せないっての!いや、トカゲですら切羽詰った必死の状態であって、スナック感覚で切ってはいないだろう。

ともかく、こんな話を聞いた事がないだろうか。
事故や怪我等で、後天的に手または足を失った方が、無い筈の手や足に痛みや痒みを感じる事がある、という。掻こうにも、腕が無いから掻きようがない。それでも、無い筈の腕が、確かに痒いのだそうだ。

この現象を、「幻肢痛」と呼ぶ。

・・・と、エラそうに書いているが、この名称は学校の上級生母、カン・ミヒさん(仮名:度々コメントを下さるミニョンの母さん)に教えて頂いたものである。

が、この現象自体は以前から聞いた事があり、私はこれを、「エーテル体の作用ではないか」と睨んでいた。
つまり、腕などの肉体の一部が切断されたとしても、エーテル体は切断されずに残っている。その、残ったエーテル体が、何らかの理由で痛み、痒みを感じるのではないか、と。

・・・と、エラそうに書いているが、今思えば大分前に、誰かにこの話を聞いたような気がする。

誰かの受け売りだか自分の考察か、どちらかは忘れたが、ともかくカン・ミヒさんに確認したところ、矢張りそういう事なのだそうだ。
ただ、何故そのような現象が起こるのかまでは、まだ調べてはいない。

ここまでを理解した上で、もっと単純に知覚する方法。

パイレーツの、「・・・だっちゅ~の!」の決めポーズをとってみる。

って、単に私の趣味である上、古過ぎるっての。要は何でも良いから動いてみる、という事だ。
まぁ、この際「だっちゅ~の」を例に取れば、あなたが巨乳を強調した前傾姿勢をイメージし、その通りに動こうとする時、その肉体を動かしめるものは、エーテル体の作用に他ならないのだ。
・・・万人が巨乳という訳ではないので、「だっちゅ~の」を例にするのは不適当である事に、今気が付いた。

ともかく、肉体が動き、成長するのは、物質体(肉体)に密接に浸透した「エーテル体」の働きなのである。

最初の例、足の痺れを思い出して頂きたい。その状態で、指先を自在に動かす事は困難である。
エーテル体が無い状態というのは、そうした動けない鉱物的状態である。つまり、麻酔にかかり、動くことも出来ず、痛みも感じない状態である。麻酔は、部分的または全体的に、エーテル体を剥がすのだそうだ。
歯の治療で麻酔を打った時、麻痺した頬に触れたところ、まるでゴムかシリコンの様で、人間の皮膚に触れている気がしなかった。頬のエーテル体が一時的に剥がれ、ただの物質体になっていたからだろう。

我々が当然の様に動いたり、痛みや痒みを感じる、これこそが、エーテル体の存在の証、と云える。

また、子供が成長してゆく姿もエーテル体の賜物だ。
シュタイナー教育は幼児の早期教育に否定的だが、その理由の一つはエーテル体の認識抜きには語れない。それは、いずれ改めて考察したい。

そういえば「痺れる」だの「切断」だので思い出したが、今でこそ犬や猫などの愛玩動物の去勢は、動物病院で適切に行ってくれる。が、私の幼少期には結構乱暴で野蛮なやり方が罷り通っていた。
「家庭で出来る、猫の去勢」である。そのやり方の一つ、

「猫の金玉に○○○を○○○○○○○○○と、

そのうちひとりでに金玉がポロリと落ちるよ
(心無い人に真似されないよう、詳細は自粛!)

って、可哀想だろ、猫が!大体、「お婆ちゃんの知恵袋」的に語ったところで、取るのは「猫の金玉袋」なのである。
これをシュタイナー(訳:高橋巌)っぽく説明する。

「こうした仕方で猫の金玉袋に外的に働きかけると、やがて金玉のエーテル体が金玉から分離してゆくのが、霊的視点によって知覚される。
唯物的な科学者は、こうした事象を『血流が遮断された為に起こる、金玉の壊死に過ぎない』と語るであろう。無論、それは正しい認識であり、物質的にそうした現象が起きている事に、何ら疑念を挟む余地はない。
だが、そうした金玉による開示の裏側にある超感覚的な諸事実に、多くの科学者は目を向けない。
これを霊的に捉えると、先に述べた仕方で分離した金玉のエーテル体は、一時的に物質としての金玉から分離する。
この時、金玉に起こっているのは、血流の遮断と同時に、金玉エーテル体もまた金玉肉体から遮断され続けている、という事実に他ならない。
やがて、血流の遮断などにより物質としての変容を余儀なくされた肉体としての金玉は、最早金玉のエーテル体がその存在を担いきれなくなるまでに変質している。
こうして壊死した金玉肉体は、金玉エーテル体の作用から完全に分離し、やがてこれまで繋がりを保っていた身体からも離れてゆく。そうして身体からも分離した金玉は、既に鉱物的物質体でしかない」


・・・私はこんなやり方で去勢されるなど、真っ平御免である。例え、「自称・乙女と名乗るなら、乙女に金玉は不要!」となじられようとも。

・・・金玉付きの乙女でいさせて下さい。


ブログランキング
乙女への励まし代わりに↓をクリック
σ.σ
ブログランキング・にほんブログ村へ
こちらも↓
b_04.gif

人間の本質とは(2)~「物質体」と鉱物の不思議~

「この世に霊だの魂だのといったものは存在しない!」と主張する唯物論者も、

「この物質界は仮初めの世界。霊界こそが本質である」と述べるオカルト主義者も、
等しく認めざるを得ない事実がある。それは、この世において、我々が「物質」としての肉体を有している、という事だ。

「いやぁ、私も人間ですがね、私には肉体が無いんですよオホホホ」
そう云うあなたは幽霊である。オホホホなどと笑っておらず、速やかに成仏・再受肉の道を模索する事をお勧めする。

シュタイナーの人智学における「エーテル体」(生命体)や「アストラル体」(感情体)といったものがよく分からない方でも、「物質体」だけは容易に知覚出来るだろう。肉体、これすなわち物質体であり、何ら説明は要らない。
それでは話が終わってしまうので、物質体についてもう少し考察を進めたい。

まず、この世における諸物の本質について、表記しよう。

人間界・・・物質体・エーテル体・アストラル体・自我
動物界・・・物質体・エーテル体・アストラル体
植物界・・・物質体・エーテル体
鉱物界・・・物質体

例えば、植物は感情を持たないし、動物には自我が無い。こう述べると、
「サボテンには感情があるという実験結果がありますが」または、
「ウチのウエスティ・ホワイト・テリアのエリザベスちゃんは、そんじょそこらの犬とは違うざぁます!エリザベスちゃんにはちゃんと自我がある、賢い子ざぁます!」等の反論も出よう。それについてはまたの機会に述べるとして、今回は「鉱物」と「人間」について考察したい。

上記の通り、鉱物は物質のみの存在であり、外的要因によって結晶する事はあっても、動・植物の様に、内的な働きかけによって成長はしない。
また、感情やましてや自我も無い。
が、かと云って「石」は高密度に結晶しただけの、ただの「物質」ではない。石には不思議な力があるのだ。

娘・ぴーぽこ(仮名)が幼稚園の頃、園ママのかれんさん(仮名)が、珍しい天然石を購入した。触らせて貰ったところ、あるイメージと云うか、ヴィジョンが浮かんだ。
夏場の昼下がり、川や池などの水場を通して吹いてくる、涼しい風。
それを伝えたところ、彼女はやや興奮気味に、

「それ!私、そういう風が一番好きなの!」
尤も私は霊能者でも何でも無いので、ここまで明確なヴィジョンを感じる事は滅多に無いが、石のエネルギーを感じる事は時々ある。所謂パワーストーンを手にした瞬間にビリビリとした感覚が伝わったり、強い石になると近付いただけで眉間にパワーを感じる事もある。
また、天然石を扱うショップ等で、(あ、この石はうちに来たがっている)、逆に、(この石は欲しいけど、うちには縁がなさそうだなぁ)など、石の意志を感じる事もある。

「石の意志」って、駄洒落かい!そもそも単なる思い込みに過ぎないかも知れないが、それでも石と接していると、そういった石の意志や感情といったものを感じる事が少なからずある。
天然石が好きな方なら、多かれ少なかれそうした経験があるのではないか。

生命体、感情体、自我を持たない筈の鉱物から、何故この様な力や意志的なものが発せられるのか。
ヒントは、人間の過去にある。

シュタイナーが霊視によって遡り得る最古の人類は、物質体のみの存在だったそうだ。
勿論現在の人類の姿ではなく、鉱物的存在だったという。それも、現在の鉱物とは違う様相で存在していた。

というのも、当時の地球は現在の地球ではなく、大雑把に云うなら「地球の前世の前世の、そのまた前世」であり、その天体は熱のみの存在だったそうだ。
これは想像しにくい。現在、「熱」は気体、液体、固体に浸透して存在しているからだ。
固体のみ、液体のみ、または気体のみという状況なら何とか想像出来るが、「熱のみ」とはどういう世界であろう。

例えば、高熱に浮かされ、まどろんだ状態。こういう時、発熱や悪寒を内的に感じているものだ。
「布団に熱がこもって暑い」、「汗が冷えて寒い」とかは、目覚めた意識で知覚する。が、夢うつつの状態では、ただただ、「熱い・・・」「寒い・・・」等と、心の内側から感じている。これに近いのではないか。

シュタイナーがこれを読んだなら、
「いやいや・・・それとはちょっと違うかな・・・」
と云うかもしれないが、他にイメージのしようがないから仕方が無い。
こうした熱のみの世界で、原初の人間は、濃縮された熱存在であった、という。

それに働きかけたのが、高次の存在、つまり天使、また仏教で云うところの諸天・明王・菩薩といった神霊達である。
彼等は自らの意志をこの熱存在に流出したり、反射させたりした。(この詳細も、いずれ記事にしたい)その結果、熱存在は、後の人間に進化する為のエーテル体・アストラル体・自我の萌芽を得た。
この当時の熱存在を霊視したシュタイナーによると、彼等は意志を持っているかのように見えるが、それはまだ内面からの働きではなく、神霊達の意志の反射である、という。

同様の事が、現在の鉱物界で行われている。
鉱物の持つ力は、天使(神霊)や妖精(精霊)の働きかけによるものなのである。
そして、鉱物は人間の意志をも反映する。先に述べた園ママ・かれんさんの例もそうだし、パワーストーンは神霊等の力を人間に与えるが、また、人間の負のエネルギーも担い、吸収する。だからパワーストーンには定期的な浄化が必要なのだ。
また、河原等にある結晶の粗い石は、人間の怨嗟、悲哀、怨念等のネガティブな情念を宿している事がある。

ともかく、我々が鉱物の力を感じる時、またはその色彩や模様、結晶を見て「美しい」と感じる時、その背後には天使や妖精の働きかけがあるのだ。

因みに、神霊や精霊の働きかけは、鉱物界に限った事ではない。
植物界や動物界も、その恩恵を受けているし、我々人間とて例外ではない。
昔のマンガで、例えばお金を拾った場面等で心中に天使と悪魔が現れ、

天:「落とし主は困っているわ!警察に届けるのよ!」

悪:「誰も見ちゃァいねぇよ!貰っとけ!」

などと葛藤するシーンがあるが、まんざら只の心理描写ではないだろう。
尤も人間は、そうした存在の操り人形ではない。拾ったお金をどうするか、決定するのは他ならぬ自我、自分自身なのである。

人間の物質体である肉体は、自分自身、自我の器でもあり、神霊や精霊の影響も受けている、大切なものである。
生きている間、この物質体~肉体を、大切に扱う必要があるだろう。

・・・って、煙草を吸ってるその口が云うか。


ブログランキング
乙女への励まし代わりに↓をクリック
σ.σ
ブログランキング・にほんブログ村へ
こちらも↓
b_04.gif

  Template Designed by めもらんだむ RSS

special thanks: Sky Ruins, web*citronDW99 : aqua_3cpl Customized Version】


上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。