2008年12月

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人間の本質とは(7)~人間のエーテル体と子供の記憶~

娘・ぴーぽこ(仮名)が幼稚園の頃。
帰宅したぴーぽこに、
「今日はどうだった?」
と訊ねると、判で押したように
「楽しかった~!」
と答えていた。
「何が?」
と問うと、

「忘れちゃった~!」

早ッ!もう忘れたんかい。
この様に、印象的な事以外は、大概忘れている。

小学校に上がってからも、この調子。が、あまり根掘り葉掘り聞くべきではない
それが、二年生になった今、色々な話をするようになった。
「ウール先生(仮名・担任)は、こんな風にマッチを擦るんだよ」
などと、結構細かいところまで覚えている。

子供のこうした様子から、「エーテル体」がどのような状態にあるのかが観察出来る。前回述べた通り、エーテル体は記憶力の形成をも担っているのだ。

松井るり子さんの著書のタイトルに代表されるように、シュタイナー教育では「七歳までは夢の中」という視点がある。幼時の意識は完全に目覚めてはおらず、夢見の状態にあるのだそうだ。
また、シュタイナーは、動物の意識も夢見の状態、と述べている。(因みに、植物の意識は深い眠り・ノンレム睡眠で、鉱物の意識は最も深い眠りの状態だそうだ)

さて、誕生したばかりの子供。三島由紀夫は生まれた時の記憶があったそうで、寺山修司に至っては生まれる前の記憶があったらしい。
こうした人々は例外として、大概は0歳の頃は、記憶力はまだ十分に形成されていない。
私の0歳の頃の記憶は、当時の映像とその時抱いた気持ちが、断片的に残っているだけである。

この頃の乳児は、夢見のなかでもかなり深めな、レム睡眠とノンレム睡眠の狭間といった状態だろうか。
動物の中でも下等な動物の意識に近いと思える。例えば、ミミズなどの負の走光性を持つ生物は、光を「不快」と感じ、暗い方へと進む。
乳児の意識は自分と外界とが繋がっており、外的な印象を、快・不快で捉える。
横にお母さんがいる・・・快、オムツが濡れた・・・不快、といった様に。

家族などへの認識は、まだ「記憶」を伴っていないのではないだろうか。前回の記事で述べた様な、記憶力を持たない動物の認識力に近いのかも知れない。
尤も、両親を選んで生まれてきた「魂の絆」という点を考慮に入れずに、子供の親に対する認識を語ることは出来ない。

やがて子供は、言語を獲得する。2歳頃から5歳にかけて、子供の記憶力は、エーテル体によって飛躍的に形成される。
私が2歳の頃の記憶から考察すると、この頃の子供の意識は、断片的で前後の脈絡の無い夢を見ているようなものだ。
野生動物も、こうした夢見の状態にあると思われる。

冒頭に紹介した、幼稚園時代のぴーぽこのエピソードも、夢に例えることが出来る。
目覚めてからの印象で、怖い夢やエロい夢を見ていた事は確かだが、具体的に何が怖かったのかや、どうエロかったか、夢の内容は殆んど覚えていない、という事がある。
この頃の子供の記憶も同様で、誰とどんな遊びをしたかは覚えていないが、「楽しかった」という印象は保持していることが多い。

私は4歳の頃に、よりはっきりした記憶と意識を持ったが、発達の段階としては就学適齢期、つまり6~7歳頃にこの段階に立つのが望ましいのではないだろうか。
夢の中でも、比較的一貫性のある夢がある。「自分」をより意識しており、以前見た夢と同じ場面が出てくると、「あ、ここ前にも来た」と感じることが出来る。夢の中においての記憶を、その後の夢の中でも保持しているのだ。
「今、自分は夢を見ている」と意識することすらある。
就学前後の子供の意識は、こうした夢の状態に近いのではないか。

人と暮らす犬や猫、人と関わりを持つ類人猿なども、この夢見の状態にあるのではないか、と、私は思っている。
前回、シュタイナーの思想に則って「動物には人間においての『記憶力』がない」と述べたが、実のところ、こうした動物には「記憶力」に近い何か~記憶力の萌芽、と呼べるような~が、育っているのではないか、と見ている。

この段階のエーテル体は、人体や記憶能力の形成が、ほぼ終わりかけている。
大切なのは、この時点までのエーテル体は、まだ誕生していない、という事だ。
シュタイナーによると、エーテル体はこうした活動を、エーテル的な膜に覆われた状態で行っている、という。
乳歯から永久歯への生え変わりを区切りに、エーテル体は、生命が卵から孵化したり母胎から産まれ出るように、エーテル的な膜から「誕生」し、自由を得るそうだ。

それ以後、子供は目覚めた意識としっかりとした記憶力を持つようになる。が、7~8歳頃の意識は、まだ完全に目覚める途上にある。目覚まし時計で急激に目覚めるのではなく、ゆっくりと、まどろみつつ次第に目が覚める時の意識と云えよう。

目覚めるに従い、記憶力がはっきりしてくる。冒頭に紹介した、現在のぴーぽこが、この状態に当たるだろう。

人間が目覚めた意識を持っているのは記憶力を担ったエーテル体が自由に活動しているからで、エーテル体が記憶力を形成途上の、つまりエーテル体が「誕生」する前の幼児や、人間的な意味での記憶力を持たない(もしくは萌芽状態の)動物は、夢見の意識状態にある、と云えるのではないだろうか。

つい先日、冬休み初日の日曜日。パートから帰宅した妻・みぽち、夕餉の席で、かくのたまえり。

「そういえば、ぴーぽこの学校、

冬休みいつからだっけ?


・・・オマエのエーテル体は、大丈夫か?


※・・・何故聞くべきではないのかは、近く「早期教育」をテーマにした記事で述べたい。


~~~~~σ.σ~~~~~σ.σ~~~~~σ.σ~~~~~

廉価本・「豊臣秀吉勇将録」(リイド社)に、「脇坂安治」「播磨軍記」の2編収録。
どうぞ御一読下さい。


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人間の本質とは(6)~人間のエーテル体と記憶力~

これまで述べた通り、エーテル体は物質体に浸透し、成長や生命活動を担っている。
他にも担っているものは色々あるが、人間のエーテル体の特徴的な性質として、「記憶力の形成」というものがある。

シュタイナーによると、物質界において、記憶能力は人間のみが持っており、動物には記憶力は無いのだそうだ。

と云うと、多くの反論が出るだろう。
「ウチのウエスティ・ホワイト・テリアのエリザベスちゃんは、賢い子ざぁます!ちゃんと色々な事を覚えているざぁます!」
ご尤も。犬に限らず、あらゆる動物に知的行動は見られる。うちの熱帯魚ですら、私が餌をあげようとすると、定位置に寄ってくる。これは、熱帯魚達が「この生き物(私)がこの辺りに美味しいものをばらまいてくれる」という事を「記憶」しているからではないのか。

動物達のこうした「記憶」は、人間の「記憶」とは違うのだそうだ。「動物に記憶力が無い」というのは、「動物に物を覚える能力が無い」という意味ではない。
シュタイナーの言葉をそのまま借りると、「記憶という言葉を、植物界と動物界における諸経過のために使用しようとするのなら、人間のためには別の言葉を用意しなければならなくなる」(訳:高橋巌)のだそうだ。

次の様な場面を見てみよう。
一匹のヤマネコが、獲物を発見した。自分より小さく、ネズミやリスよりずっと食べ応えがありそうだし、動きもとろい。獲物としては申し分ない。
ところが白黒の斑模様のこの獲物、ヤマネコに気付いても逃げようともせず、奇妙な行動に出た。
逆立ちをしたのである。
が、この若いヤマネコは、この後自分に降りかかるべき災いを知らず、獲物に向かった。

この獲物とは、云うまでもなくスカンクである。ヤマネコに起きた悲劇について、詳述は要らないだろう。

数ヵ月後、このヤマネコは、再び森の中でスカンクと邂逅する。
あの、独特の斑模様を見ただけで、ヤマネコの脳裏にかつての不快が蘇る。彼は、この獲物を襲うべきではない事を、学習したからだ。
それでも空腹に耐えかね、諦めきれずにいるところに、スカンクはあの忌まわしき威嚇行動~逆立ちし、臭腺をこちらに向けて狙いを定める~を取る。
ヤマネコは、この後何が起こるかを、身をもって体験している。残された選択肢は、スカンクにあの強烈な臭液をお見舞いされる前に、その場から退散することだけである。

こうした場面を見る限り、動物にも「記憶力」がある様に見える。実際、動物達に「学習能力」があることはいくつもの事例を通して明らかだ。
が、シュタイナーの云う「記憶」とは、そうした事は含まない。

上の例で云えば、ヤマネコはスカンクや、忌まわしき体験を、「記憶」として「保持」しているのではない。スカンクという対象物によって、不快の感情が再認識されるのだ。

シュタイナーが定義する「記憶」の、最も単純なものの例として、例えばあるO.L.が散歩中、以前セクハラ係長が発した下品極まる下ネタジョークを思い出して、うすら寒い気持ちになったとする。
彼女は、散歩という、セクハラ係長とは関係ない状況下で、映像としての彼の姿や、いかにも「ウケるだろ!?」といった口ぶりで、その口から発せられた「ホッキ貝が勃起かい」という、だから何!?な駄洒落、或いは一瞬凍りついた部下達が、仕方なく愛想笑いを浮かべざるを得なかった状況等を、思い出すことが出来るのだ。
これが、単純な「記憶」の一例であろう。

もし、件のヤマネコにこうした意味での「記憶力」があったなら、毛づくろいなどしながら、「まったく、あの時はひどい目に遭った。返す返すも忌々しい小動物である」と、スカンクの一件を思い出すことが出来るだろう。
が、動物にはそれが出来ない。
「何故『出来ない』と云い切れるのか?もしかしたらヤマネコはそう考えているかも知れない。ヤマネコの内面を、我々は知ることは出来ないではないか?」
こうした反論も当然あろう。シュタイナーは、こうした問いに対して、そうした事は超感覚的にも認識出来るが、動物を観察することでも動物にそれが出来ないのは明らかだ、いう意味のことを述べている。

因みにシュタイナーは、犬と主人を例に出して説明している。要約すると、犬が主人との再会を喜んだり、主人がいなくなって寂しそうにしているのは、犬の記憶力に拠るものではなく、主人との絆が、犬の感情に作用しているからだ、といった内容だ。

動物は「覚える」ことは勿論出来るが、それはシュタイナーが云うところの「記憶」とは別物である。
知覚した事を保持し、知覚の対象から離れても再度その事を知覚できる、これがシュタイナーが定義する「記憶」ではあるまいか。
そして、そうした意味での記憶を有するのは、人間だけ、と区別する事で、人間の本質に近付いて行けるのではないか。

「なに云ってるざぁます!ウチのウエスティ・ホワイト・テリアのエリザベスちゃんは、家族も同然ざぁます!区別なんて出来ないざぁます!」
いや、それは結構な事である。むしろ他の種族を家族同様に思う心は尊い。
が、「区別」する事は、記憶力を持たない動物を軽んじ、差別する事には繋がらないし、矛盾も生じない。
人智学の視点で自然界を考察すると、動物や植物、鉱物に対して、感謝や畏敬の念を覚えずにはいられないだろう。

「それにつけてもウチのウエスティ・ホワイト・テリアのエリザベスちゃんに記憶力が無いなんて、胸糞悪い話ざぁます!」
まだ云うか。記憶力が無いイコール馬鹿という事ではない。そもそも、犬や猫、類人猿に限らず、イルカやカラスなど、高度な知能を持っている動物はいくらでもいる。ただ、そうした高い知能と人間の持つ「記憶力」とが、別物だ、ということだ。

実際、動物達はそれぞれ、人間の遥かに及ばぬ能力を持っている。全ての能力において人間に劣る、という動物は存在しないのではないか。
人間は、そうした特化した能力を諦め、犠牲にして、記憶力や思考力等を獲得し、発達させた、という見方も出来る。

この様に「記憶」について考察するのは、教育や育児~特に幼児や低学年の~に、有益であろう。
が、それについては、このシリーズの中で改めて、エーテル体との更なる関係を交えて考察したい。
それによって、幼児期や低学年期のシュタイナー教育への理解を深めていければ、と思う。

「ウチのウエスティ・ホワイト・テリアのエリザベスちゃんはクリッカー・トレーニングを実践しているから、そんな教育方法を理解する必要は無いざぁます!」
いや、人間の教育論だから。
と云うか、何なんだ、このキャラ。


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