2009年12月

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子供に語る比喩の実践

「赤ちゃんはどうやって生まれてくるの?」
という幼児の問いに、
「それはね、お父さんの怒張した×××が、お母さんの…」
などと、幼児相手に性描写を始める馬鹿は居るまい。
子供の年齢に相応しい「比喩」という名のヴェールに包んで話す筈である。
古典的だが、「コウノトリが運んでくる」というのは、単にお茶を濁して誤魔化す為の方便ではない。素晴らしい比喩なのだ。空と地上を結ぶ存在に伴われ、子供の魂が両親の許にやって来るイメージなのだそうだ。

前回の記事・「イメージと比喩とメルヘンと」とも関連するが、子供の素朴な問いかけや、四季の自然の移り変わり等を、比喩を通してイメージ豊かに子供に語り聞かせるのは、子供にとって良い作用を及ぼすそうだ。

では具体的にどの様に話すのか、オイリュトミー教師の風姿花伝先生(仮名)から学んだ事の一部をシェアしたい。

まず、実例として、私が娘・ぴーぽこ(仮名)に語ったお話、風姿花伝先生にお褒め頂いた事に気を良くしたので、ここに紹介しよう。
早い話が、自画自賛である。

「彼岸花」
「ふかふかとした土にくるまれていた彼岸花が、花を咲かせる頃になりました。
彼岸花は一刻も早く神様に会いたくて、空に向かって真っすぐにするすると伸びて、蝶々のような形の、赤々とした花を、ぱらりと咲かせました。
ところが彼岸花は、あんまり早く神様に会おうとしたもので、葉っぱを付けるのを忘れてしまいました。
天使は彼岸花にやさしく云いました。
『あなたは、あなたをつつんでくれている大地にも感謝をしなければなりませんよ』
そこで彼岸花は、花が枯れた後、細長い葉っぱをわさわさと伸ばし、寒い冬の間、その青々とした葉っぱで大地を優しくくるんだのでした」


ぴーぽこは意外な程興味深げに聞いていた。聞き終わると、
「それ、お父さんが考えた話?」
と質問してきたので、こう答えた。

「ううん。彼岸花に教えて貰ったの」

パラケルススじゃあるまいし、私には植物の話を聞くことは出来ない。が、仮に聞けたとして、彼岸花は上記の話と当たらずとも遠からずな事を語ってくれるのではないかと思う。

私の答えを聞いたぴーぽこ、訝しそうな表情を浮かべ、

「…お父さんが考えた話か」

いやだから彼岸花に聞いたんだって。まぁ、ルビコン世代のリアクションはこんなものだろう。

風姿花伝先生は、こうした季節のメルヘンの例として、柿の話をして下さった。
葉が散っても実は落ちない柿は、顔を真っ赤にして落ちないように頑張っている、といった内容で、口を「へ」の字に結んだ表情を作りながら語られた。

素敵な話だと思ったので、軽くパクってというか、参考にして自分なりに話を広げ、ぴーぽこに語ってみた。
はじめは青かった柿。自分も近くの栗の実のように、地面に落ちるんじゃないかとおどおどしていたが、一念発起して秋風が吹く中頑張っているうちに赤くなった、という物語。
話しているうちに、興味深い事が起きた。
柿が一念発起する場面。聞いていたぴーぽこは、柿の気持ちになって、

「ようし!ぼくは、風なんかに負けないぞ!」

と台詞を云った。これが、直後に私が云おうと頭の中で用意していた台詞と、一言一句違わず同じだったのだ。
尤も凝った云い回しでもないし、話の流れからもこうした台詞が出て来ても不思議ではないが、あたかもテレパシーの様に、私がイメージしていた台詞を、内容から間の取り方、口調まで一致させて再現された事に、少なからず驚いた。

そして、私も風姿花伝先生を真似て、口を「へ」の字に結び、頑張っている表情を作る。
これがぴーぽこの気に入ったらしく、以来柿を見る度この表情を浮かべるようになった。面白い事に、木に生っている柿に限る。収穫され、店頭に並んでいる柿は普通にスルー。

他にも、こんな話を考えてみた。

「銀杏さんと楓さんは、桜さんが羨ましくて仕方ありませんでした。何故って、桜さんは春になると、赤ちゃんの肌の様な薄桃色の花をふくふくと満開にして、お空の神様に見せてあげているのです。
それなのに、銀杏さんも楓さんも、ちっぽけな花しか咲かすことが出来ません。
『私たちも、桜さんのように、枝中を綺麗な色で飾って、神様に見せてあげたいなぁ』
それを聞いたお日さまは、自分の色を少しだけこれらの木たちにプレゼントしてあげました。
それから秋になると、銀杏さんはお日さまのキラキラ輝く金色に、楓さんは朝日や夕日の燃えるような真っ赤な色に、葉っぱの色が染まるようになったのです。
幸せな気持ちに包まれた銀杏さんと楓さんは、それまでみすぼらしいと思っていた自分の花が好きになりました」


また、同じ銀杏を扱うのでも、親仲間のジーナさん(仮名)は、「お日様の光が届きにくくなる秋、銀杏は自ら輝きだして、金色に染まった」といった内容のお話をされていた。とても素敵なお話ではないか。

風姿花伝先生によると、こうした話は短いほど良く、また、形容詞や擬声語をふんだんに使うと子供は喜ぶそうだ。現にぴーぽこも、上記「彼岸花」の、「するすると」や「ぱらりと」等の擬声語のくだりで、一段と瞳を輝かせていた。

パラケルススや、ましてやシュタイナーの如く超感覚的洞察力を持たぬ我々は、日常の中では思考を通して自然摂理の秘密を探求するしかない。自然の不思議さ、面白さに感動のまなざしを向けて考えてみると良いだろう。
「ひまわりはお日様が大好きなんだよ」「稲が大地に『ありがとう』ってお辞儀してるね」
例えばこんなシンプルな話でも良いと思う。馴れてくると話が膨らんでゆくだろう。
そのうち、自然が自らその秘密を語ってくれる日が来るかも知れない。

こうした事には馴れが必要で、こちらが予め用意していた話などはともかく、子供から不意打ちの如く発せられる問いに対して、いかに臨機応変に対応できるかといったアドリブ能力を、シュタイナー学校の教師は日々問われているそうだ。改めて先生達に頭が下がる思いである。

馴れないうちは、なかなか上手く行かない。私も以前、こんな事があった。
「海の水からどうやって塩ができるの?」とのぴーぽこの問いに対する私の答え。

「海の水を汲んで熱くすると、水の妖精・ウンディーネがだんだんどこかへ行ってしまうの。そして残された『辛いもの』が、今度は土の妖精・グノームに固められて…」

…話がが迷走してるっての。

狐につままれたような面持ちで聞いていたぴーぽこ、ぽつりと、

「・・・よく分かんないや」

…ごもっとも。


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イメージと比喩とメルヘンと

シュタイナー教育は、「イメージ」を重視する。イメージを形成する力が、現実の世界を強く生きて行く活力になるからだ。
何故か。

それについては、ここでは述べない。それを一から説明しようとすると、それだけで相当長くなってしまうので、割愛する。

ともかく、子供は本来、豊かなイメージの世界に生きている。大人にとってもイメージは大事だが、子供より経験や知識の豊富な大人の場合、それが内面から湧き上がるイメージなのか、過去の記憶に基く表象なのか、判別が難しくなってしまう。

…って、のっけから話が固いっての!まるで屹立したちんぽの様に固いって。このブログの趣旨は、シュタイナーについて金玉袋の様に柔らかく述べる事なので、分かり易い例を出そう。

以前、何かのシュタイナー関連の本で読んだのだが、例えばメルヘンを子供に語って聞かせる時、「お城」が出たとする。子供は「お城」を知らないなりに、「お城」について、豊かなイメージを展開するのだそうだ。
そこに、大人がお城の絵なり写真なりを子供に見せて、「これがお城だよ」と示してしまうと、子供の中で、イメージが固定化されてしまう、というのだ。
絵本の読み聞かせも良いが、素話だと更に良いのだろう。

大人が例えば司馬遼太郎の「新選組血風録」を読んだとして、自分なりの土方歳三の像が思い描ければ、それは「イメージ」であろう。が、それが栗塚旭にそっくりなら、それはテレビドラマの記憶による表象と云える。
…って、例えが古過ぎるっての。栗塚旭主演のドラマ版「新選組血風録」、1965年放映だって。私、生まれてないっての。

本来、子供の持つイメージ形成能力は、大人が考える以上に豊かなものだ。
私の場合も、幼稚園の頃、先生が語る話(教会の園なので、聖書の物語だった)を聞く度、見たことのない筈の昔の外国の映像が、スクリーンに映し出されるかの様に展開していたものだ。こうした経験は、多かれ少なかれ誰もが持っているだろう。

童話や昔話の中には、時として残虐な場面が登場する。有名な「灰かぶり(シンデレラ)」では、手がかりの靴を無理からに履く為、意地悪な姉達はそれぞれナイフでつま先や踵を切り落とす。また、この二人の姉は、最後に鳥によって目を潰されてしまう。
映像化したらスプラッタな場面だが、それは飽くまで大人の見解。子供はこうした場面のスプラッタ性などではなく、そこに込められた叡智を受け取っているのだそうだ。

ここで、「桃太郎」という落語を紹介しよう。
お父っつぁんが坊やを寝かしつけようと、桃太郎の話を始める。
が、坊やは寝るどころか、

「『昔々』って、いつです?何時代?」

「『ある所』って、どこです?」

「『お爺さんとお婆さん』の名前は?」


などと、いちいち突っ込んでくる。
業を煮やしたお父っつぁんは、桃太郎の粗筋を一気にまくしたて、
「おめぇも大きくなったら桃太郎のように…なんだ、もう寝ちまったのかい、子供ってなぁ罪が無ぇな…アレ、起きてやがら。なんだ、目玉をギョロギョロさせやがって」
「お父っつぁんの話を聞いたら、寝るもんも寝られませんよ」
坊やは「桃太郎」という名作を、そんな風にあっさり語るとは何事だ、と説教し、物語の解説を始める。例えば、

「犬ってのは三日飼えば一生恩を忘れないんです。忠義に厚いんです。猿には知恵が、雉には勇気がある。『犬、猿、雉をお供に連れて』っていうのは、『仁・智・勇を身に付けて』ってことなんです」

といった具合に。一通り講釈を垂れたところで、
「分かったかい、お父っつぁん?…アレ、寝ちゃってら。まったく大人ってなぁ罪が無ぇなぁ」
というオチ。

無論、この落語には、「最近の子供はこまっしゃくれて理屈っぽく、一筋縄には行かない」というアイロニーが込められているので、実際に子供が「犬・猿・雉」を「仁・智・勇」と理詰めで解釈している訳では、当然ない。
が、子供は、猫やコアラやインコではなく、「犬・猿・雉」である必然性、それらに比喩されたものを、イメージを通して、無意識の奥深くで感じ取っているのだ。

こうした事柄を理解せず、表面的に解釈する大人によって、昔話の残酷な場面等が改竄される。
お婆さんを殺して婆ぁ汁を作り、それをお爺さんに食わせた「かちかち山」の狸が、最近の本ではお婆さんを殴って逃げただけ。まぁ、お年寄りを殴打するなど言語道断だが、その後狸が受けた執拗な報復を思うと、むしろ狸が哀れにすら思えてくる。
で、最後に狸も改心して、皆で仲良く暮らしましたとさめでたしめでたしって、何だそりゃ。

元来、古くから伝わるメルヘンや神話等は、人類の根源的な叡智を、比喩を通して語っているのだそうだ。
「こめんぶく あわんぶく」とグリム童話の「灰かぶり」、「浦島太郎」とケルトの伝承「フェヴァルの息子ブランの航海」等に共通性が見られるのも、その背後にあるものが人類に共通したものであるからだろう。各国の神話の共通性まで言及すれば、それこそ枚挙に暇が無い。
それと同時に存在している相違性は、それぞれの国や民族特有の背景を反映しているのではないか。

九歳頃までの子供、特に第一7年期に、こうしたメルヘンを繰り返し語る事で撒かれた叡智の種子が、大人になってから現実を強く生きる力として開花する。

特にグリム童話は「叡智の比喩」の宝庫なのだそうだ。
ルビコン世代(九歳)未満のお子さんをお持ちの方は、早速グリム童話をお子さんに語って頂くとよいだろう。
特に第一7年期のお子さんなら、例えば寝る前などの決まった時間に、同じ物語を一ヶ月(厳密に云えば28日間)繰り返して聞かせる事をお勧めする。

シュタイナーによると、そもそもグリム兄弟が編纂した童話とは、中世に吟遊詩人達が、大人に向けて「比喩を通して」語った叡智の物語が原点なのだという。

固さや柔らかさの比喩に、「ちんぽ」だの「金玉袋」だのを持ち出す当ブログとは訳が違う。


※…0~7歳。シュタイナーは人生を7年周期に区分した。


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