2010年05月

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  2. 2010/05/31 本当は人智学的なグリム童話
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本当は人智学的なグリム童話

これまでシュタイナーや人智学に関する記事を綴ってきたが、私自身の勉強不足による誤謬もいくつか犯してきた。
その一つが、「メルヘン」についての認識不足である。
幼児や低学年の子供にはメルヘンが重要と聞き、私も娘・ぴーぽこ(仮名)にメルヘンの読み聞かせをし、それについての記事も書いたのだが、当時私が読み聞かせていたものは、「メルヘン」ではなく「民話」だったのである。
いや、それもそれで悪くはないのだが、シュタイナーの云う「メルヘンの作用」とは違うものなのだ。

ここで改めて「メルヘン」とは何ぞや?「民話」とはどう違うのか?ということを明らかにしておきたい。

「民話」が概ね、「こんな不思議な事があったそうな」という、ある意味都市伝説的な性格を持っているのに対し、「メルヘン」は人間の根源的叡智を汲み取って成立した物語である、という事である。
無論一般的に「民話」にカテゴライズされている話の中にも、意識的であれ無意識にであれ、根源的叡智が含まれているものも多々あり、それらは人智学的に「メルヘン」と呼んでも良いだろう。

逆に、通常「メルヘン」と呼ばれているものの中に(特に『創作メルヘン』)必ずしも根源的叡智が含まれているとは限らない。

では、そも、「根源的叡智」とは何か。
・・・って、説明が難しいから、その比喩として「メルヘン」が誕生したとも云える。

シュタイナーは「メルヘン」を悟性的に解釈することは無意味だ、と述べている。それではメルヘンが持つ生命的なイメージには近付けないのだろう。そこで彼は、人智学の観点からメルヘンにアプローチしている。

ともかく、日本や世界の昔話の中にはそれら根源的叡智が含まれているものが多いが、特に「根源的叡智の宝物殿」とも云えるものが、各国に伝わっている神話、そして「グリム童話」なのである。

「グリム童話」は云うまでもなく、グリム兄弟が創作した話ではなく、昔から伝わる話を編纂したものである。それゆえシャルル・ペローの童話と被る話も多々あるが、ペローは編纂するにあたり、自分なりの脚色を加えている。
例えばペローの「サンドリヨン(シンデレラ)」は、二人の姉を許し、皆幸せになっている。個人的には、こうしたサンドリヨンの慈悲深さは好きなのだが、物語の本質からすると、やはりグリム版「灰かぶり」のように、二人の姉は小鳥に両目を潰されて終わるのが自然であろう。

これまでも繰り返し述べたが、子供はこうした場面を、大人が考えるような残酷な描写としては捉えない。

以前、「本当は恐ろしいグリム童話」という本が流行り、それに乗って同様の、「本当は残酷な~」やら「エロティックな~」等と冠されたグリム童話シリーズが、雨後の筍の如くに登場した。グリム童話に飽き足らず、日本昔話やギリシャ神話等もこうした「本当は~」シリーズの対象になった。
が、こうしたシリーズの多くは、神話や昔話の残酷な場面を針小棒大に脚色したものである様だ。(少なくとも私が目を通したものに関しては、全てその類だった)

そんな脚色など加えずとも、グリム童話は話によっては十分怖い。「名づけ親さん」や「トルーデおばさん」などは安っぽい怪談よりもよっぽど怖いし、「どろぼうのおむこさん」など、実写版の映画にでもしようものなら、ちょいとエロい、B級スプラッタ・ホラーになりかねない。

が、こうした話を、寝る前にぴーぽこに読み聞かせても、怖がったり、悪夢にうなされたり、という事は一度も無い。子供はその場面の残酷さではなく、その背後の根源的叡智を、無意識的に受け取るからである。
ただ、大人がこうした場面を、情感たっぷりにおどろおどろしい声音で読んだり、大人自身が本気で怖がりつつ読んだりしたら、子供も怖がることはあるだろう。
また、テレビ等のメディアに、早くから馴染みすぎた子供も、怖がる可能性があるかも知れない。

では、そもそも何故グリム童話には、子供に聞かせるには躊躇してしまうような描写が散見されるのか。
それは元来、これらの話が成立した中世では、子供向けの話ではなく、吟遊詩人などが民衆つまり大人を相手に語っていた話だったからである。
根源的叡智を、民衆に向けて、比喩を通して創られた話を、後世、グリム兄弟が編纂したというわけだ。
だから、一見グロテスクな場面にも、それなりの意味が含まれている場合が多いのだ。そこだけ切り取って、拡大解釈を加えれば、「本当は残酷だ」とも云えようが、実のところ「本当は人智学的」と云っても過言ではないのだ。

今後、シュタイナー自身が語ったメルヘン論や、ヨハネス・シュナイダーの「メルヘンの世界観」、また、学校の風姿花伝先生(仮名)の講義で学んだことを基に、グリム童話を中心に色々なメルヘンについて考察してゆきたい。

取り敢えず今回は、話の流れから、「灰かぶり」の姉達について少し述べよう。
二人の姉は、父からの土産に、一人は綺麗なドレスを、もう一人は宝石を望む。
この場合、ドレスは耽美的な欲、宝石は功利的な欲を象徴しているのだそうだ。それらの欲の作用を、シュタイナーは悪魔の名を用いて、前者を「ルツィフェル(ルシファー)的」、後者を「アーリマン的」と呼んでいる。

そして彼女等は、王子が差し出した手がかりの金の靴(実際はガラスの靴ではない)を履く為、母の助言に従って一人はつま先を、もう一人はかかとを切り落とすのだ。
足は人智学では「意思」の要素である。
母の「お妃になれば、もう足で歩かなくてもいいのだから、つま先(かかと)ぐらい切ってしまいなさい」という助言に従って足の一部を切り落とすというのは、「意思」を放棄した、ということだそうだ。

姉達は、最後に、鳥に目玉をくり抜かれてしまう。これは、悪魔的な欲望に浸り、意思を放棄した人間がどうなるのかを暗示しているのだそうだ。無論、物理的に目が見えなくなるという事ではなく、心の状態の比喩である。
だから、姉を許す事でサンドリヨンの慈愛の深さを表現したペロー版も私は好きだが、人智学の観点からすると、グリム版の方が根源的叡智を表現していると云えよう。

幼い子供は、根源的叡智を、理屈ではなくイメージを通して心の奥深くに沈潜させるので、小さいお子さん(概ね3歳~8歳)をお持ちの方は、寝る前にグリム童話の読み聞かせなどをしてあげると良いだろう。特に入学前のお子さんには、同じ話を一ヶ月繰り返して語り聞かせる事をお勧めする。

さて、どうでも良い事だが、我が家のレインボー・セキセイインコのレイニー(本名:ぴーぽこ命名)、ベタ馴れなのは良いが、肩に乗って人の唇をしつこくグルーミングしてくるのには辟易する。
いや、この程度なら可愛いものなのだ。最近はあまつさえ私の鼻梁に乗っかって来て、その嘴で私のまぶたのグルーミングに及ぶのだ。狙いは何だ?私の目玉か?
・・・灰かぶりの姉達の恐怖感が、少し解った。


参考文献
「メルヘン論」ルドルフ・シュタイナー著/訳:高橋 弘子(水声社)
「メルヘンの世界観」ヨハネス・W・シュナイダー/訳:高橋明男(水声社)



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織田信長と胆汁質

以前、ごく大雑把に、シュタイナーの「4っつの気質」について記事にした。今回は、やや掘り下げてみよう。
「育児」という観点からは、幾つかの名著が既に刊行されているので、私なりの見解で、日本史上で有名な人物を取り上げ、気質を把握する練習としたい。
とかく「ちんぽ」だの「金玉」だの下ネタに走りがちな当ブログだが、私の本業は歴史・時代劇漫画家である。少しはオリコウな一面も垣間見させておこうといった寸法だ。
・・・まぁ、そんなこと云ってる時点で、ちっともオリコウではないのだが。

さて、「織田信長」という人物は、「鳴かぬなら 殺してしまえ ホトトギス」や、「桶狭間の奇襲」といった、胆汁質のイメージが先行しがちだが、多血質・粘液質・憂鬱質も多分に有した「4っつの気質」の見本市の様な人物である。が、「歴史の中の織田信長」としての役割を鑑みて、やはり従来のイメージ通り、「胆汁質」の要素を取り上げて述べる。

信長は赤ん坊の頃から癇の強い子で、授乳しようとする乳母の乳首を次々に食い破ったそうだ。まだ歯も生えていないくせに、この激しさはどうだろう。まさに胆汁質の申し子である。ナチュラル・ボーン・胆汁質!

ところが信長、家臣の池田恒興(つねおき)の母(養徳院)の乳だけは、大人しく飲んだ。他の乳は駄目、養徳院の乳限定である。黄レンジャーがのべつカレーばかり食っているように、気に入ったものだけを飽きずに延々口にする。
興味深いのは、これが「胆汁質」の対極である「粘液質」の要素である、という事だ。

ここが「気質」の複雑で面白いところだ。つまり信長は、粘液質の穏やかさを持ってはいるのだが、満足するものが得られるまでは胆汁質の激しさで自己表現をしていたのだ。

逆の場合もある。それまで物事に無関心(粘液質の要素)だった子供が、ひとたび自分の内面から結び付き得る遊び等に出会った途端、生き生きと活発になる、という例だ。シュタイナー学校教師のハイデブラントは、これを「眠れる胆汁質」と表現している。
前記の信長の例は、さしずめ「眠れる粘液質」と呼べるかもしれない。
こうした視点は、育児において、子供を理解する上でも役に立つだろう。

やがて信長十六歳の時、父・信秀が病死した。この葬儀の場面は有名である。
髪は茶筅髷、刀を藁縄で縛り、袴すら穿いていない。今で云えば、喪主が茶パツでジーンズ、なんだったら短パン姿で葬式に出るようなものだ。
その珍妙ないでたちで焼香に立ち、抹香をひっつかんで仏前に投げ付けたのだ。
彼が父の死に対してどの様な感情を抱いたのかは解らないが、こうした、意思が手足からほとばしり出る様な行動は、胆汁質の典型である。

教科書に載っている彼の業績、例えば鉄砲や楽市楽座に注目したり、キリスト教の庇護や南蛮文化を取り入れるといった、所謂新しい物好きは、どちらかというと好奇心旺盛な多血質の要素である。
歴史の上で大切なのは、彼がそれらを次々に実行に移した、という点である。意思に貫かれた行動力は、胆汁質の大いなる特徴だ。

また、正義感の強さも胆汁質の特徴である。
それが良く作用して、領国の治安を維持もしたが、悪く作用して、比叡山の焼き討ちといった結果も招いた。

胆汁質の怒りはしばしば火山の噴火に例えられるように、手が付けられないものだ。自然災害と思ってやり過ごすしかない。
信長の有能な家臣でありながら、反旗を翻した荒木村重や明智光秀などは、やり過ごせなかったのであろう。

信長の場合、その正義感の強さと怒りっぽさは、時として病的ですらあった。彼の尺度から見て許し難き不正を犯したものを、その場で手ずから成敗した、という逸話も多い。
中には「斬る程のことか!?」という例もあり、そこには胆汁質の偏りによる暴力性という問題点も伺える。
こうした事が、胆汁質の子供にも起き得る。
すぐに暴力沙汰に及び、周囲から問題視されている子供がいるとする。彼の問題行動の原因を探ってみると、実は彼は人一倍正義感が強く、彼なりの正義感が周囲に認められなかった時、またはその正義感を押し通そうとした時、人に手を上げてしまう、という場合があるのだ。

信長は参謀を必要とせず、ほぼ彼の独断によって事を進めた。これも胆汁質の持つ意思の表れであるが、同時に他者に耳を貸さず、独裁的になる可能性をも孕んでいる。

また、彼は配下の羽柴(豊臣)秀吉の妻(北政所)に手紙を送って、夫婦喧嘩の仲裁もしている。殺伐としたイメージの強い信長の、数少ないほのぼのエピソードの一つである。
ここにも、胆汁質が見て取れる。義侠心というか、良い意味でのお節介というか。つまり感情が豊かで、そこに行動力が伴うので、他人の為に一肌脱ぐ事を厭わない。胆汁質の愛すべき特性で、こういう一面にこそ信長の本来の姿が反映しているのではないだろうか。

ゲーテとシラーが、胆汁質の特性を「英雄」と表現した様に、ある集団を率いて行く場合、胆汁質の要素が必要とされる。特にこうした時代の転換期には、鬼神もこれを避ける程の断固とした意思が必要であり、それを発揮し、実行できるのが、胆汁質の要素なのである。
時代を中世から近世へと進ませた胆汁質・信長の歴史的役割は大きい。

彼の死の場面も象徴的である。
御存知のように、彼は明智光秀の謀反の為、本能寺において、炎に包まれてこの世を去った。
「地・水・火・風」の四大元素のうち、胆汁質は「火」の要素に分類される。
生まれながらの胆汁質・織田信長は、胆汁質の要素である火の中で死を迎えたのだ。
これは、胆汁質の要素で時代を近世へと押し進めた彼の、歴史的役割を象徴しているように思えてならない。

・・・って、こじつけすぎ?


参考文献
「人間の四つの気質」ルドルフ・シュタイナー著/訳:西川隆範(風濤社)
「4つの気質と個性のしくみ」ヘルムート・エラー著/訳:鳥山雅代(トランスビュー)
「子どもの体と心の成長」カロリーネ・フォン・ハイデブラント著/訳:西川隆範(イザラ書房)


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