2010年09月

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  2. 2010/09/29 3歳児と「カエルの王さま」
  3. 2010/09/24 メルヘン論・「灰かぶり」②と「米福粟福」
  4. 2010/09/16 メルヘン論・「灰かぶり」①

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3歳児と「カエルの王さま」

3歳ぐらいの子供を抱っこして歩いていると、子供が「自分で歩く」と訴える。
降ろすと、数歩も歩かぬうちに、「抱っこして」
再度抱っこすると、また「歩く」
こうして賽の河原のようにエンドレスで、イタチごっこの如く「抱っこ」「歩く」の応酬、駄々を捏ねる子供に、親も半ギレという状況は、お子さんをお持ちの方は多かれ少なかれ経験したことがあるだろう。

まったく、オマエはどうして欲しいんじゃ!と、3歳児の心理は計りかねる。小悪魔気取りのバカ女でも、ここまで無遠慮なワガママは申しませんっての。

では、この時3歳児の心には、何が起こっているのだろうか?こんなイタチな3歳児にどう向き合えばよいのか?
それを、グリム童話の「カエルの王さま」を人智学的に読み解くことで、考察したい。

物語の始まりで、美しいお姫様は金のマリを泉の底に落としてしまう。カエルは、「お姫様とお友達になり、一緒に食事をし、同じベッドで眠る」、という約束で、泉の底のマリを拾って来る。
ところがあろうことか、お姫様は大切なマリが戻るや、嬉しさのあまり、カエルをほっぽって駆けて行ってしまう。そして、すぐさま「カエルのことなんか忘れて」しまうのだ。

オマエ、記憶力無いのか?

このツッコミは、実は問いであり、それについては後で述べる。
また、金のマリやそれが泉に落ちたことにも意味があるのだが、今回は触れない。

翌日、家族と食事をしているお姫様を呼ぶ声が聞こえる。お姫様が戸を開けてみると、そこには件のカエルがいる。ここでお姫様はまさかのリアクション、

戸を閉めて、食卓に戻る。

え!?見なかったことにするの?

流石に父である王様に見咎められ、ことの成り行きが明るみになる。王様曰く、
「約束は守りなさい」
極めてまっとう。メルヘンだから、「え?カエルと約束?カエルが喋ったのか?」などということは一切スルー。相手が不気味なカエルであれ、約束通り、お姫様はカエルと一緒に、同じお皿で食事をするよう王様に指示される。

カエルは更に、約束通り一緒のベッドで眠ることを要求し、お姫様も流石に泣き出してしまう。
この場面、カエルという存在自体のヌメヌメ感も相まって、必要以上にエロティックな解釈を加える向きもあるが、ともあれ、普通の親父なら、
「カエルさん、いくらなんでもそれはちょっと・・・」
ぐらいなことは云いそうなものだ。尤も、「普通の親父」も何も、この状況自体が普通じゃない。

では、王様はどうしたかと云うと、怒り出した。それも、図々しいカエルにではなく、約束を守ろうとしないお姫様に対して、である。

ブレてない。

「困った時に助けてくれた者を、後になって知らん顔するのは良くない」との王様の云い様は、まったく正当で、筋が通っている。

仕方無しに自室にカエルを通したお姫様だが、「私も楽に眠りたい」と云ってお姫様のベッドに潜り込もうとするカエルに腹を立てた彼女は、カエルをつまみあげ、

壁に叩きつけたのである。

ええ!? ひどくない?

「これで楽に眠れるわよ!」だって。永遠の眠りに付かせる気か?

ところが、それによってカエルの魔法が解けて、王子様の姿に戻ったのだから、二度びっくりである。キスとかで魔法が解けるんじゃなくて?そんな荒療治で?

・・・以上が、3歳児の心の中に起きている事である。って、このまとめ方も解りにくいって。

つまり、お姫様の魂は、3歳~9歳の子供と対応していると思われる。「記憶力ないのか」と冒頭でツッこんだが、3歳の子供の記憶力は大人とは違った有り方をしている。マリが戻った嬉しさで、すぐに直前のことを忘れるのは、いかにも3歳児っぽい。
かといって事象全てを忘れるのではなく、翌日カエルと再会したときに、そのことを思い出すのだ。まだ自力で思い出せるほど、子供の記憶力は自由を得ていない。

お姫様は、渋々ながらも父である王様に従順である。まるで、素直に親の云い付けを聞く2歳までの子供のように。
だが、王様の云うことがまっとうであれなんであれ、それに反抗してカエルを投げ付けることで、王子つまり「自我」が現れたのだ。

シュタイナーによると、人間の自我が自由になるのは21歳だが、自我の最初の兆しが現れるのが、3歳頃なのだそうだ。年齢には個人差があるが、「イヤイヤ」が始まったらそれが自我の兆しなのだ。
「イヤイヤ」を通して自分と親との間の境界を知り、自分の「個」を確立させる。その為の作業が、「反抗期」として現れるのだ。そしてそれは、子供の「個」としての成長には必要なことなのである。

冒頭の例で云うと、子供は「抱っこしてほしい」のでも、「歩きたい」のでもなく、そのように「イヤイヤ」をすることが自体が心の成長の為に必要だから、そうしているに過ぎないのだ。この時期に子供の反抗を無理に押し込めるようなことをするのは、子供の「個」としての成長を妨げることになる。

では、冒頭のような状況で、子供にどう対処すればよいのか。道は二つある。

一つは、上記のことを踏まえて、開き直って、

とことん付き合う。

が、多くの場合、時間や体力、根気などのあらゆる制約が生じるので、あまり現実的ではない。

もう一つの道は、

子供の気をそらす。

イライラする自分を離れ、余裕を持って、子供にとって興味をひくことを探し、そちらに促すのだ。うまくいけば、子供はすぐにその新しい状況に夢中になるだろう。お姫様が、カエルのことを忘れ、金のマリに夢中になったように。
これは結構難しく、一朝一夕にはいかず、それが出来るようになった頃には子供の反抗期も過ぎていた、という事も往々にして有り得る。が、人生においてこの練習をしておくことは決して無駄ではないだろう。

私の娘・ぴーぽこ(仮名)が3歳頃、道端で駄々を捏ねた。当時の私はイライラして、軽く怒りそうになっていたところに、一頭の蝶々がひらひら。それを見たぴーぽこ、

「あ・・・ちょうちょ。。」

と、一瞬にして上機嫌になり、駄々を捏ねていたことも忘れ、蝶を追いかける。

まだ至らない私の代わりに、蝶々がぴーぽこの気をそらしてくれたかのようだ。
この場合は偶然だが、この蝶の役割を工夫して作り出せれば、育児上手と云える。

それにしても、蝶々一頭で手の平返す娘・ぴーぽこも、3歳児とはいえ単純にも程があるって・・・。



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メルヘン論・「灰かぶり」②と「米福粟福」

前回、ハシバミの木が、地上の灰かぶりと天国の実母とを結ぶ架け橋であることは述べた。
天界と地上界を結ぶものは、このハシバミの木にやって来る「白い小鳥」も同様である。
「シンデレラ」では魔法使いのお婆さん、「サンドリヨン」では仙女が少女の力になるが、「灰かぶり」では小鳥が、お城のパーティーの為のドレスなどを彼女にもたらすのだ。

小鳥が天界と地上界の架け橋である「天使(アンゲロイ、エンジェル)」の象徴であろうことはイメージしやすい。
魔法使いのお婆さんにしろ、仙女にしろ、人間界の者か、異界の者か、友達以上恋人未満的な微妙な存在である。その意味では、両者とも「仲介者」として、小鳥つまり天使と同様の意味を持つのだろう。

更に和製・灰かぶりとも云うべき、「米福粟福(こめんぶく あわんぶく)」という日本昔話においては、山姥がその役割を果たしている。この山姥は、蓬髪の中にむかでやなんかの毒虫がうようよと生息しているのだから、不潔な天使もいたものだ。
話によっては山姥の代わりにお地蔵さまが登場するが、これは日本版天使と思えば分かりやすい。

「灰かぶり」で、小鳥によってもたらされたのは、金、銀、そして星のように輝くドレス、つまり太陽や月、星々の叡智を身に纏うものであった。
前回、義姉がねだったドレスは、ルツィフェルの比喩、と述べたが、同じドレスでもここでは意味合いが違う。
着物は「身に付ける」「表面だけ飾る」「本質を覆い隠す」など色々な要素があるので、物語の文脈によってどういう比喩で用いられているのか、注意深く読み取る必要がある。

シンデレラやサンドリヨンでは、有名なガラスの靴が登場するが、グリム童話では「金の靴」となっている。前回冒頭で紹介した、「灰かぶり無精者説」を唱えた某メルヘン解釈の本では、この靴をめぐる王子の様子から、王子は、

足フェチ

であったとの仮説を打ち立てていた。足フェチって。随分ザックリ断じたものだ。

人智学的に読み解くと、靴は足つまり「意志」の要素であり、大地に触れる物だ。
二人の姉がこの靴を履こうと、それぞれつま先やかかとを切り落としたのは、「意志の放棄」なのだそうだ。
そうしてまでにせの花嫁になろうとした二人だが、結局は天使存在である2羽の白鳩によって、正体を暴かれている。

そして、王子と少女との結婚。これは「自我=王子」と「魂=少女」が結び付くことを意味するそうだが、それがどういうことなのかは、今後、色々なメルヘンを考察しつつ、じっくりと述べたい。

これまでの人智学的考察を踏まえて、灰かぶりを子供に読み聞かせる時、悟性を超えた感情が心の中に芽生えるだろう。

さて、物語はこのまま「めでたしめでたし、とっぺんぱらりのぷぅ」では終わらない。王子と灰かぶりの幸せにあやかろうと参列した二人の義理の姉の両目を、件の2羽の白鳩が、つつきだしてしまうのだ。そして二人は一生目が見えませんでした、というのが、物語の結びである。
つまり、悪魔的な欲望に取り憑かれた者は、精神の目が曇るということなのだそうだ。
ここで、ふと思う。鳥が「天使」の象徴なら、天使が姉達の目を潰したことになる。天使がそんな残酷なことをするのだろうか?

・・・するやも知れぬ。
尤もそれは懲罰の為ではない。天使学によると、人間に死や病気をもたらしたのは、悪魔などではなく、他ならぬ天使存在だというのだ。
とんだパンドラの壺である。
が、天使存在はパンドラを人間界に遣わしたゼウスとは違い、人間をある作用から守る為にこれらをもたらしたのだそうだ。が、この事は理解や受け入れることが困難だと思うので、ここではひとつの観点として提示するに留める。
と云うか、天使が存在することを前提に色々述べている私も、大人として如何なものか。

ペローのサンドリヨンやシンデレラの物語のラストは、グリムの灰かぶりのような残酷さは無いが、例の「こめんぶく あわんぶく」のラストは、「灰かぶり」に近い。

灰かぶりの類型の物語は世界各地に見られるそうだが、「こめんぶく あわんぶく」も大同小異、「灰かぶり」や「シンデレラ」との共通点の多さに驚かされる。例を挙げると、

「灰かぶり」    「こめんぶく あわんぶく」
(または、シンデレラ)

継母        [地上界]    継母

義姉        [悪魔]     義妹

白い鳩       [天使]     
(魔法使いの老婆)        山姥

王子        [自我]     長者の息子

等々。また、いやがらせの手口も同じで、宴会またはお祭りに行く条件に、またはを大量にぶちまけられ、それらを一粒残らず拾うことを要求されるのだ。そして、それを小鳥たちの助けを借りて解決するというのも共通している。

話によっては灰かぶりの金の靴よろしく下駄を落としていくものもあるが、或いは「灰かぶり」を意識して、後世に付け加えられたのかも知れない。

ともあれ、玉の輿に乗るまでは双方同じ様に物語が展開してゆく。が、長者の倅にあわんぶくが嫁入りしたあたりから、物語は風雲急を告げる。
あわんぶくを羨ましく思う義妹のこめんぶくは、「私も嫁に行きたい」と、母にせがむ。母はよしとばかりにあわんぶくを石臼に乗せ、それを引きつつ、

「嫁はいらんかねぇ!」

と呼ばわるのだ。大安売りにも程があるって!仮に私が童貞をこじらせて、一生結婚出来ないのでは、と思い悩んでいたとしても、もう、女性だったらどなたでも選り好みいたしません、という程に追い込まれていたとしても、こんな不気味な母娘と家族になるのは真っ平御免である。

そしてこのバカ親子、畦道で転倒し、石臼ごと田んぼに落ちて、


タニシになってしまいましたとさ。

って、えええ!?これまで灰かぶりと同様の粗筋やモチーフで、あわんぶくが幸せに結婚するところまで構築しておいて、オチがタニシ!?シュールすぎでしょ!?

だが、考えてみると、タニシは暗い貝の中で、わずかな明りを感じる程度の触覚で、周囲を幽かに知覚しつつ生活している。これは、両の目を失った「灰かぶり」の姉達の境遇と同じことを意味してはいないか?
精神的な視力が損なわれることを、タニシになることで象徴していると解釈すると、見事なまでに「灰かぶり」と一致していると云える。

・・・それにしても、イキナリタニシって・・・。 



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メルヘン論・「灰かぶり」①

メルヘンを人智学的に捉えるに当たり、まずは誰もが知っている物語を例に取りたい。

「灰かぶり」

多少の違いはあるが、「シンデレラ」又はシャルル・ペローの「サンドリヨン」とほぼ同じ粗筋である。典型的な「姫と王子の物語」であると云えよう。

今回は、「人智学はメルヘンをどのように解釈するか」のサンプルとして、オイリュトミー教師の風姿花伝先生(仮名)の講義で学んだ事や、ヨハネス・シュナイダー著「メルヘンの世界観」を基に、メルヘンにおけるシンボルの人智学的読み解き方を中心に述べたい。

さて、あるメルヘン解釈の本(人智学系ではないもの)に、「灰かぶり」についての面白い説が述べられていた。
主人公の少女は、「灰かぶり」と徒名されるところから、身に付いた灰を払い落としもしないほど「無精者」なのではないか、と云うのである。

ナイス突っ込みである。

その観点から、この少女は自らの不精さを改善する為、意地悪な継母にこき使われる状況に云々と、カルマ論を展開することも出来る。
が、この突っ込みは悟性的だ。その意味では、例えば「少女が『灰かぶり』と呼ばれたのは、身だしなみに気を使う暇も無いほどこき使われていることの比喩ではないか。そこからは少女が不精であるかどうかは読み取れない」と云うことも出来る。

では、人智学的にはどう読み取るか。それには「灰」というものの考察が必要である。
灰は、物質が燃焼した残りの無機物である。物質からさらに残った物質であり、地上との結び付きを感じさせるものである。
また、灰は単なる「残りカス」ではない。着火剤や肥料、アク抜きなど、使用用途も多く、「死と再生」の象徴ともされている。
灰にまみれて働く、というのは、魂または心が、この地上世界で苦労や努力をする、と解釈出来るのだそうだ。

「継母」はどうだろう。
関係無いが、私は幼少の砌、この「継母(ままはは)」という言葉の響きが不思議でならなかった。「ママ」で「母(はは)」って、実母以上に実母な感じがしないか?
・・・しないか。

ともあれ、意地悪な継母というのは、苦難多き地上そのものを象徴しているそうだ。そして、それは飽くまでも仮の母であり、実の母は天上界または精神的世界から少女を見守り続けるのだ。
裕福な家庭にあった少女が実母に死に別れ、代わって意地悪な継母に酷い扱いを受ける、というのは、魂が精神界から地上世界に受肉したことを思わせる。

少女(魂)は、のちに王子(自我)と結ばれるが、その為には魂が地上に受肉して、この世界で地に足を付け、努力して生きる必要がある。

「若い頃の苦労は買ってでもせよ」「苦労は芸の肥し」などと云うが、苦労が現世利益の形で実を結ぶかどうかは別として、人間を前へと進める力となる事は確かだろう。
殊に芸事の世界では、下積みは当然。が、落語家の三遊亭円楽(元・楽太郎)師匠は一風変わっており、弟子の三遊亭楽大(後の伊集院光)らが鞄持ちなどしている合間に小遣いを渡し、
「映画でも観て来い」
などと息抜きをさせていたそうだ。彼の言い分が振るっていて、
「苦労が芸の肥しになるのは確かだが、肥しもやり過ぎると根腐れするだろう」

粋だねぇ!

継母が楽太郎だったら、灰かぶりもさぞかし楽だろう、と云おうと思ったが、駄洒落っぽい響きなので云わずにおく。だが、良くしたもので、灰かぶりは楽太郎師匠における息抜きという恩恵を、別の形で、亡き実母から受けるのだ。

ある日、二人の姉は、街に出かける義理の父(灰かぶりの実父)に、お土産として、それぞれ「綺麗なドレス」「真珠と宝石」をねだる。二人がそれぞれ「ルツィフェル(ルシファー)・享楽的で偏愛」「アーリマン・功利的で冷淡」という悪魔の虜となっていることは、以前にも触れた。

一方灰かぶりが欲しがったのは、木の枝だ。

・・・木の枝って!無欲にも程がある!第一、木の枝ぐらいその辺りで手折って来いよ!

然も、親父も親父で、本当に木の枝折って帰って来てんの。頼まれなくても森永製菓の小枝チョコぐらい買ってやれよ!

と、メルヘンに悟性的突っ込みを入れてはいけない。
木の「幹や枝、葉(感情)」は、「根(思考)」と「花、果実(意志)」とを結んでいる。
灰かぶりは手に入れたハシバミの枝を実母の墓に植え、そこで涙を流す。「泣く」という行為は、地上と結び付くことを意味するそうだ。もう、灰かぶりはこれでもか、というぐらいに地上と結び付くのだ。
そして、ハシバミは美しい木に育つ。植物の相は、宇宙に向かって手を開いている状態だ。
こうしてハシバミつまり栄養満点なヘーゼルナッツを実らせる木が、地上の灰かぶりと天界の実母とを「結ぶ」役割を果たすこととなる。
この木と、そこに訪れる白い小鳥が、天国の実母との架け橋となり、灰かぶりの欲しがるものをもたらしてくれるのだ。
これが無ければ、灰かぶりは肥しを摂り過ぎて根腐れを起こしていたかもしれない。

物語の続きは次回の講釈として、閑話休題。
家庭で取り組めるシュタイナー教育として、低学年の子供に、家庭でのお手伝いをして貰う、という方法がある。
同じ仕事を、出来るだけ決められた時間に行わせるのだ。
これにより、その子の「意志」の要素が育ち、例えば「『思考』が目覚めて『意志』が眠る」と云われる思春期に、「ッたり~・・・」とか云いつつも何だかんだで机に向かって勉強はする、という力に変容するのだそうだ。
無論、作用は思春期に止まらず、その子の未来にまで及ぶ筈だ。

我が家では、娘・ぴーぽこ(仮名)に、お手伝いとして夕方お風呂掃除をして貰っている。

ところが気が付くと、妻・みほち(仮名)の策謀により、「玄関掃除」「インコの餌やりと水替え」が、いつの間にか当たり前のように、ぴーぽこの仕事に追加されていたのだ。

妻・みほちよ・・・。ぴーぽこの出産に立ち会った私だが、敢えて問いたい。

オマエは継母か?


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