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人間の本質とは(6)~人間のエーテル体と記憶力~

これまで述べた通り、エーテル体は物質体に浸透し、成長や生命活動を担っている。
他にも担っているものは色々あるが、人間のエーテル体の特徴的な性質として、「記憶力の形成」というものがある。

シュタイナーによると、物質界において、記憶能力は人間のみが持っており、動物には記憶力は無いのだそうだ。

と云うと、多くの反論が出るだろう。
「ウチのウエスティ・ホワイト・テリアのエリザベスちゃんは、賢い子ざぁます!ちゃんと色々な事を覚えているざぁます!」
ご尤も。犬に限らず、あらゆる動物に知的行動は見られる。うちの熱帯魚ですら、私が餌をあげようとすると、定位置に寄ってくる。これは、熱帯魚達が「この生き物(私)がこの辺りに美味しいものをばらまいてくれる」という事を「記憶」しているからではないのか。

動物達のこうした「記憶」は、人間の「記憶」とは違うのだそうだ。「動物に記憶力が無い」というのは、「動物に物を覚える能力が無い」という意味ではない。
シュタイナーの言葉をそのまま借りると、「記憶という言葉を、植物界と動物界における諸経過のために使用しようとするのなら、人間のためには別の言葉を用意しなければならなくなる」(訳:高橋巌)のだそうだ。

次の様な場面を見てみよう。
一匹のヤマネコが、獲物を発見した。自分より小さく、ネズミやリスよりずっと食べ応えがありそうだし、動きもとろい。獲物としては申し分ない。
ところが白黒の斑模様のこの獲物、ヤマネコに気付いても逃げようともせず、奇妙な行動に出た。
逆立ちをしたのである。
が、この若いヤマネコは、この後自分に降りかかるべき災いを知らず、獲物に向かった。

この獲物とは、云うまでもなくスカンクである。ヤマネコに起きた悲劇について、詳述は要らないだろう。

数ヵ月後、このヤマネコは、再び森の中でスカンクと邂逅する。
あの、独特の斑模様を見ただけで、ヤマネコの脳裏にかつての不快が蘇る。彼は、この獲物を襲うべきではない事を、学習したからだ。
それでも空腹に耐えかね、諦めきれずにいるところに、スカンクはあの忌まわしき威嚇行動~逆立ちし、臭腺をこちらに向けて狙いを定める~を取る。
ヤマネコは、この後何が起こるかを、身をもって体験している。残された選択肢は、スカンクにあの強烈な臭液をお見舞いされる前に、その場から退散することだけである。

こうした場面を見る限り、動物にも「記憶力」がある様に見える。実際、動物達に「学習能力」があることはいくつもの事例を通して明らかだ。
が、シュタイナーの云う「記憶」とは、そうした事は含まない。

上の例で云えば、ヤマネコはスカンクや、忌まわしき体験を、「記憶」として「保持」しているのではない。スカンクという対象物によって、不快の感情が再認識されるのだ。

シュタイナーが定義する「記憶」の、最も単純なものの例として、例えばあるO.L.が散歩中、以前セクハラ係長が発した下品極まる下ネタジョークを思い出して、うすら寒い気持ちになったとする。
彼女は、散歩という、セクハラ係長とは関係ない状況下で、映像としての彼の姿や、いかにも「ウケるだろ!?」といった口ぶりで、その口から発せられた「ホッキ貝が勃起かい」という、だから何!?な駄洒落、或いは一瞬凍りついた部下達が、仕方なく愛想笑いを浮かべざるを得なかった状況等を、思い出すことが出来るのだ。
これが、単純な「記憶」の一例であろう。

もし、件のヤマネコにこうした意味での「記憶力」があったなら、毛づくろいなどしながら、「まったく、あの時はひどい目に遭った。返す返すも忌々しい小動物である」と、スカンクの一件を思い出すことが出来るだろう。
が、動物にはそれが出来ない。
「何故『出来ない』と云い切れるのか?もしかしたらヤマネコはそう考えているかも知れない。ヤマネコの内面を、我々は知ることは出来ないではないか?」
こうした反論も当然あろう。シュタイナーは、こうした問いに対して、そうした事は超感覚的にも認識出来るが、動物を観察することでも動物にそれが出来ないのは明らかだ、いう意味のことを述べている。

因みにシュタイナーは、犬と主人を例に出して説明している。要約すると、犬が主人との再会を喜んだり、主人がいなくなって寂しそうにしているのは、犬の記憶力に拠るものではなく、主人との絆が、犬の感情に作用しているからだ、といった内容だ。

動物は「覚える」ことは勿論出来るが、それはシュタイナーが云うところの「記憶」とは別物である。
知覚した事を保持し、知覚の対象から離れても再度その事を知覚できる、これがシュタイナーが定義する「記憶」ではあるまいか。
そして、そうした意味での記憶を有するのは、人間だけ、と区別する事で、人間の本質に近付いて行けるのではないか。

「なに云ってるざぁます!ウチのウエスティ・ホワイト・テリアのエリザベスちゃんは、家族も同然ざぁます!区別なんて出来ないざぁます!」
いや、それは結構な事である。むしろ他の種族を家族同様に思う心は尊い。
が、「区別」する事は、記憶力を持たない動物を軽んじ、差別する事には繋がらないし、矛盾も生じない。
人智学の視点で自然界を考察すると、動物や植物、鉱物に対して、感謝や畏敬の念を覚えずにはいられないだろう。

「それにつけてもウチのウエスティ・ホワイト・テリアのエリザベスちゃんに記憶力が無いなんて、胸糞悪い話ざぁます!」
まだ云うか。記憶力が無いイコール馬鹿という事ではない。そもそも、犬や猫、類人猿に限らず、イルカやカラスなど、高度な知能を持っている動物はいくらでもいる。ただ、そうした高い知能と人間の持つ「記憶力」とが、別物だ、ということだ。

実際、動物達はそれぞれ、人間の遥かに及ばぬ能力を持っている。全ての能力において人間に劣る、という動物は存在しないのではないか。
人間は、そうした特化した能力を諦め、犠牲にして、記憶力や思考力等を獲得し、発達させた、という見方も出来る。

この様に「記憶」について考察するのは、教育や育児~特に幼児や低学年の~に、有益であろう。
が、それについては、このシリーズの中で改めて、エーテル体との更なる関係を交えて考察したい。
それによって、幼児期や低学年期のシュタイナー教育への理解を深めていければ、と思う。

「ウチのウエスティ・ホワイト・テリアのエリザベスちゃんはクリッカー・トレーニングを実践しているから、そんな教育方法を理解する必要は無いざぁます!」
いや、人間の教育論だから。
と云うか、何なんだ、このキャラ。


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コメント

エリザベスちゃんの飼い主きらい。
同じく。絵に描いたらきっとあんな人だろう(妄想ぽわわーーん)
>うちさん
誰の心にも(私も含めて)、エリザベスちゃんの飼い主は住んでいるのです^^

>ミニョンの母さん
私の中では「ざ~ます眼鏡」かけてますね。で、ふわふわの毛皮とか着てて。「オマエ、可愛いのはエリザベスちゃんだけかよ、毛皮にされたその動物は可哀想じゃないの?」と。
でも、そう突っ込まれたら「あら・・・そういやそうざぁますね・・・考えた事もなかったざぁます」と認めるぐらいの素直さはあるけど、かといって以後、フェイク・ファーに変えるでもなく毛皮を着続ける・・・という。
なんか、イヤなキャラなりに愛着が湧いて来た^^;
このキャラの出所ってどこなんでしょうね。やっぱアメリカかなあ。いや、、、、、、藤子不二雄か?いやいや、赤塚不二夫か???
なんきんでしょ
記憶しない?思い出さない?
管理人様、皆様 はじめまして。
エーテル体と生命体で検索しているうちにこちらにたどり着き、過去記事や常連様たちとの楽しいやり取りを拝読させて頂きました。
この記事だけちょっと気になったので、突然の乱入で大変失礼いたします。
ドイツ語はさっぱり判らないのですが、もしかしてシュタイナー氏は、(動物は)『記憶しない』ではなくて『思い出さない』と言いたかったのではないでしょうか?
もっとも、『思い出す』という事をしないので記憶の方法が違うとも言えるかも知れませんね。
たぶん、動物たちは丘の上で寝そべって青い空を見上げながら子供の頃の初恋の相手ミヨちゃんを『思い出す』って事は無いんだろうと思うんです。
サンタモニカの海岸に沈む夕陽を見ながら、「あぁ、この海の向こうには中学校の校庭で初めてキスをした千恵美ちゃんが居るんだよなぁ・・・」と白い砂浜で物思いにふけることも無いと思うんです。
たぶん、『思い出す』という行為には『想像する』という行為も伴うと思うので、海の向こうですっかりセクシーになったミヨちゃんや千代美ちゃんの事を『思い浮かべる(想像する)』事も、海の向こうには黄金の国のジパングがあるという夢(想像)を抱く事もないのだろうjと思います。
これはきっと過去の『記憶』だけじゃなくて、将来ボストンのハー猫ド大学で学位を取ろうとか、スタン豹ド大学でMBAを取って大企業に就職する目標(想像)を立てることも無いのだと思うんです。
でも、きっとばったりミヨちゃんに会ったり、千代ちゃんと初めてキスをした校庭へ行くと『記憶』はちゃんと残っていると思うんです。
ただ、そこに居ないのにその人に会っていないのにその場所やその人を『想像(思い出す)』事はしないんではないかと・・・・
つまり、いま目の前にあるモノ、相手、状況に対処する事だけで、過去や未来に対しての記憶を呼び出して思い出にふけったり夢に希望を膨らませるという働きはしないのではないかと思うんです。
(きっと元旦に新年の抱負を立てても、正月2日には忘れていると思うんです。大晦日に目標が達成できたかどうかの反省会も開かないと思います。でも、目の前にある事に全力で立ち向かう姿はそれはそれでとっても美しい生き方だと思います)
ウチに帰る道順は帰巣本能で、子供が見当たらなくなったら母性本能で対処しているのではないでしょうか?
それ以外で、群れの長たる父親でも息子が一人行方不明になっても、目の前に居ないと居ない事に気が付かないのでは無いかと感じています。

ところで、・・・・エリザベスのママは、ホワイト・テリアという犬種とエリザベスという名前からしてアメリカではなくてイギリスか港区あたりにお住まいのように感じます。
アメリカならきっとゴールデン・リトリーバーかグレート・デーン、プードル、ブルドッグあたりかと・・・・
突然乱入して長々と失礼しました。
>ミニョンの母さん
藤子キャラならさしずめ骨川婦人?赤塚キャラのイヤミは一寸違うかも^^

>うちさん
確かに。なんきんのキャラが一番ハマりそうです。
もしくはしりあがり寿作品にも出てそう^^

>純@LAさん
書き込み有難う御座います~^^
私もドイツ語は分からないので、高橋巌氏の翻訳を出典にしました^^;その中において、「記憶」という訳語が使用されておりました。
シュタイナーは、その件で、誤解され易いだろうからとわざわざ著者注を付けている位だから、きっとドイツ語でもシュタイナーが云わんとする事に該当する言葉は無いのでしょうね。

高橋巌氏は、「記憶」という訳語を用い、「動物の態度は、記憶が存在していないことを表している」と翻訳しています。が、なにをもって「記憶」とするかを考えると、純@LAさんがおっしゃるように、「記憶の方法が違う」という云い方はとてもしっくりくると思います。

>きっとばったりミヨちゃんに会ったり、千代ちゃんと初めてキスをした校庭へ行くと『記憶』はちゃんと残っていると思うんです。

これは、私もそう思ったのですが、シュタイナーはそれを「記憶」とは違う作用だ、と述べているのです。(私もはじめはこの考え方に抵抗がありましたが^^;)
この例でいくと、例えばこの動物がミヨちゃんに会ったり校庭に行った時に見せる反応は、この動物自身の記憶力によるのではなく、「ミヨちゃん」や「校庭」といった存在(や、その相手との絆による作用)による、というのです。
犬のお母さんが眠っている間に、子犬の一匹を里子に出しても、母犬はそれに気付かない。そうして一匹ずつ里子に出され、子犬全てが居なくなった時、初めて母犬は異変に気付く、という話が、その事を表しているかもしれません。

私自身、その辺りちゃんと認識できているのか謎ですが^^;、純@LAさんのおっしゃっている事は、ほぼ同意です^^
また、動物によっては「記憶力」の萌芽が育っているのではないか、と私は思っているのですが、それが実際そうなのか、私の幻想的な思い込みなのか、それを証明するまでには至っていません^^;

シュタイナーが云う「記憶」をどう捉えるか、私もまだ考え中です。もしかしたら前世やカルマといった、魂の奥の領域まで指しているのかも、とも思えるのですが・・・。

以上、あくまで私の個人的な解釈ですが^^;、こうして他の方の考えを読んだり、それによって改めて考察したり出来て良かったです、有難う御座いました~^^
よろしければまた御来訪下さいませ~。。
時間とのリンク?
あき乙女さま、突然場外から乱入したにも関わらずご丁寧なご返信ありがとうございます。
最初に思ったのが、日本語だと『思い出』と『記憶』は別の言い回しになるところが、英語だとどちらも同じ『Memory』になっちゃうんですね。
更に前後の状況説明によっては『追悼』や『記念』まで同じになってしまいますから、日本語の多種多様な言い回しって本当に豊富だなぁと常々感心してます。
勿論、『記憶する』『思い出す』と、動詞になるとちょっと変ってきますけど・・・。
そこで、シュタイナー氏は単なる『記憶』の事ではなく『思い出』の事を言ったのかな?と思ったんです。
相手の身体特徴や声のトーン、更に「この人はご飯をくれる人」とか「こいつは滅多やたらに物を投げつけてくる奴」などは『記憶(記録)』していても、「先月この人と行った丘で見たきれいな夕日・・・♪」という『思い出』は無くて、人間の思い出に含まれるところの『淡い』部分や『苦い』部分は、シュタイナー氏が言う『記憶』ではなくて『相手との絆』によるものになるのかとも・・・・。

以前、一緒に暮らしていた気が優しくて弱虫のドーベルマン(エリザベスでは無いです)は、床に落ちているフリスビーを見ただけでは特に興味を示さないのですが、それを僕が手に取ると大喜びで興奮して飛び回ります(フリスビーで遊ぶのが大好きだったんです)
今ウチに居る猫は、テーブルの上に上がっている時に僕と目が合うと、「しまった・・・(汗)」という顔をしてダルマさん転んだをします。(テーブルの上は禁止区域なんです)
どう考えても『記憶』はしていて、その記憶にはある程度の感情もリンクされている(叱られる⇒辛い、遊んでもらえる⇒楽しい、ご褒美がもらえる⇒嬉しい・・・)ように感じられるんですが、彼らには未来とか過去という時間の概念(時間とのリンク)が無いように思えます。
記憶というよりはどちらかと言うと『記録』で、対象が目の前に無い時にそのデータベースへアクセスする事はないのかも知れませんね。
ある意味で、人間は未来と過去までは記憶にリンクされていますが、来世・前世となるとリンクされていないのと似ているような気がします。
でも、記憶のどこかにそれはしまわれていてその出し方(リンクの仕方)が判らないだけかも・・・・。
(あるサイトで知り合った方で、退行催眠などの手法をとらずに普段の生活で会った方が前世で関係が有る人だと、前世での自分とその人との生活がぱっと思い出される特殊体質の方がいらっしゃいました。とても特殊な例だと思いますが・・・・)

『今』しかなくて、『過去』と『未来』が無い(人間以外の)動物たち・・・。
そこに、ある種の憧れを感じています。
知人で、9年前にオートバイで大事故を起し、なんとか生き延びたものの左手が粉砕骨折で今でも握力がゼロ、あちこちの骨や神経がずたずたになっていて、9年間ずっと入退院、通院を繰り返していて職も失い強度の鬱を伴う辛い9年間を過ごしている女性ライダーが居るんです。
でも、彼女は左手の握力がゼロにも関わらず、なんとかまたオートバイに乗ろうとあの手この手でオートバイを改造したり免許更新したり・・・。
(オートバイに乗れない体になっても、彼女はまだ『ライダー』なんです)
彼女が戦っている相手は痛み(いまだに体のあちこちに強烈な痛みがあり、薬漬けの毎日だそうです)だけではなくて、『9年前の事故当日』や『事故の前の楽しい暮らし』の記憶と将来の不安という、過去の辛い記憶と未来への不安と戦い続けていて、それが強く辛い鬱症状としてのしかかっていて、もしかすると神経の痛みよりもそちらの方が辛いのかも知れません。

未来への明るい希望や過去の楽しく・淡い思い出にリンクする事が生きる糧になる場合もあり、それが逆に不安や苦痛として絶望に繋がることもあると思うんですね。
これは、彼女に限った事じゃなくて、他の動物のように『今、目の前にある事だけに全力を尽くす』という生活様式を一部見習う事で、人間という特殊な動物(特に現代の人間)が生き易くなる事もあるんじゃないかな・・・・と感じている次第なんです。
勿論、千恵ちゃんとの淡い初恋を思い出す事でフワフワ暖かい気持の発生源になってくれると思うんですが、逆に美紀ちゃんに振られた辛い恋を悩んでサンタモニカの桟橋から暗い海を眺めている人の失望感の源流にもなっているような気もするんです。

『今、目の前にある事(物、人)にだけ全力を尽くす』って、なかなか出来ずに、僕のひとつの憧れなんです。

PS.僕の初恋は久美ちゃんでした♪
PS2 また長くなってしまってすみません(汗)
>純@LAさん
確かに身近な犬や猫たち、また、手話で会話するゴリラのことなどを考えると、「記憶力が無い」とはとても思えません。おっしゃる通り、「記憶」と呼ぶより「記録」の方がより的を得ている気がします。。
ドイツ語で「記憶」がどこまでの意味を含んでいるのかや、高橋巌氏が何故「記憶」という訳語を選んだのかは分かりませんが、シュタイナー自身、該当する語彙を探すのに苦心したのではないか、と思われます。一部抜粋しますね。

「本書のこの箇所では、どの言葉を使うかを問題にしているのではなく、人間の本性を理解するためには、この違いが分からなければならない、と言っているのである。動物たちの一見非常に高度な知的行動は、本書で記憶と呼んでいる事柄とは無関係である」(『神秘学概論』著者注より。訳:高橋巌氏)

エリザベスちゃんの飼い主のように、過度に擬人化して偏愛したり、逆に動物を馬鹿にしたりすることなく、純@LAさんのように、愛情を持って区別して考えることが大切なのでは、と思っています^^

また、シュタイナーが云わんとする「人間の記憶能力」は、私ごときの現在の認識では上手く説明出来ません(--;
取り敢えずこのブログの本文では、シュタイナーが云うところの「記憶のもっとも単純な形式」に含まれると思われる事のみを扱っています。
それ以上を扱うのは今の私では明らかに力量不足ですし^^;、「アストラル体」や「魂」、死後の生活についての説明も必要になってくるのでは、と感じています。

例えば前世で人間関係の問題を持ち、それを解決する為の努力を放棄して死を迎えた場合、今世で再度それを学び直す為に、似たような人間関係の問題にぶつかる。本人はそんな前世の事なんて覚えてはいないし、意識してそうした問題を招いた訳ではないけど、魂が前世での「記憶」を保持しており、それを克服する為に、無意識のうちに同じ問題に直面するよう働きかける。そんな事もあると思いますし、それも「人間の記憶」に含まれる作用ではないかとも思っています。

事故に遭われた御知人の女性、それでもまたオートバイに・・・。
私だったら、絶望のあまり、そんな気持ちにすらなれないかも知れません。。
動物なら戦う相手は現在の身体的な痛みだけなのかも知れません。辛い記憶や未来への不安は抱かずに済むのかもしれませんね・・・。
それでもまたオートバイに乗る為に、試行錯誤をされている・・・。
上手く云えませんが、感動を覚えました。。(どう感動したのか、私ごときが色々述べるのはおこがましいので、陳腐ですが『感動』としか表現できません。。)

>『今、目の前にある事(物、人)にだけ全力を尽くす』
これは私もなかなか出来ません^^;確かにそれを動物から見習うのは良いですね。それが上手く昇華出来ると、目の前の患者に全力を注ぎ続けたマザー・テレサの境地に一歩でも近づけるかも知れない、と思いました^^

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