HOME>スポンサー広告

スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。
HOME>シュタイナーとメルヘン

本当は人智学的なグリム童話

これまでシュタイナーや人智学に関する記事を綴ってきたが、私自身の勉強不足による誤謬もいくつか犯してきた。
その一つが、「メルヘン」についての認識不足である。
幼児や低学年の子供にはメルヘンが重要と聞き、私も娘・ぴーぽこ(仮名)にメルヘンの読み聞かせをし、それについての記事も書いたのだが、当時私が読み聞かせていたものは、「メルヘン」ではなく「民話」だったのである。
いや、それもそれで悪くはないのだが、シュタイナーの云う「メルヘンの作用」とは違うものなのだ。

ここで改めて「メルヘン」とは何ぞや?「民話」とはどう違うのか?ということを明らかにしておきたい。

「民話」が概ね、「こんな不思議な事があったそうな」という、ある意味都市伝説的な性格を持っているのに対し、「メルヘン」は人間の根源的叡智を汲み取って成立した物語である、という事である。
無論一般的に「民話」にカテゴライズされている話の中にも、意識的であれ無意識にであれ、根源的叡智が含まれているものも多々あり、それらは人智学的に「メルヘン」と呼んでも良いだろう。

逆に、通常「メルヘン」と呼ばれているものの中に(特に『創作メルヘン』)必ずしも根源的叡智が含まれているとは限らない。

では、そも、「根源的叡智」とは何か。
・・・って、説明が難しいから、その比喩として「メルヘン」が誕生したとも云える。

シュタイナーは「メルヘン」を悟性的に解釈することは無意味だ、と述べている。それではメルヘンが持つ生命的なイメージには近付けないのだろう。そこで彼は、人智学の観点からメルヘンにアプローチしている。

ともかく、日本や世界の昔話の中にはそれら根源的叡智が含まれているものが多いが、特に「根源的叡智の宝物殿」とも云えるものが、各国に伝わっている神話、そして「グリム童話」なのである。

「グリム童話」は云うまでもなく、グリム兄弟が創作した話ではなく、昔から伝わる話を編纂したものである。それゆえシャルル・ペローの童話と被る話も多々あるが、ペローは編纂するにあたり、自分なりの脚色を加えている。
例えばペローの「サンドリヨン(シンデレラ)」は、二人の姉を許し、皆幸せになっている。個人的には、こうしたサンドリヨンの慈悲深さは好きなのだが、物語の本質からすると、やはりグリム版「灰かぶり」のように、二人の姉は小鳥に両目を潰されて終わるのが自然であろう。

これまでも繰り返し述べたが、子供はこうした場面を、大人が考えるような残酷な描写としては捉えない。

以前、「本当は恐ろしいグリム童話」という本が流行り、それに乗って同様の、「本当は残酷な~」やら「エロティックな~」等と冠されたグリム童話シリーズが、雨後の筍の如くに登場した。グリム童話に飽き足らず、日本昔話やギリシャ神話等もこうした「本当は~」シリーズの対象になった。
が、こうしたシリーズの多くは、神話や昔話の残酷な場面を針小棒大に脚色したものである様だ。(少なくとも私が目を通したものに関しては、全てその類だった)

そんな脚色など加えずとも、グリム童話は話によっては十分怖い。「名づけ親さん」や「トルーデおばさん」などは安っぽい怪談よりもよっぽど怖いし、「どろぼうのおむこさん」など、実写版の映画にでもしようものなら、ちょいとエロい、B級スプラッタ・ホラーになりかねない。

が、こうした話を、寝る前にぴーぽこに読み聞かせても、怖がったり、悪夢にうなされたり、という事は一度も無い。子供はその場面の残酷さではなく、その背後の根源的叡智を、無意識的に受け取るからである。
ただ、大人がこうした場面を、情感たっぷりにおどろおどろしい声音で読んだり、大人自身が本気で怖がりつつ読んだりしたら、子供も怖がることはあるだろう。
また、テレビ等のメディアに、早くから馴染みすぎた子供も、怖がる可能性があるかも知れない。

では、そもそも何故グリム童話には、子供に聞かせるには躊躇してしまうような描写が散見されるのか。
それは元来、これらの話が成立した中世では、子供向けの話ではなく、吟遊詩人などが民衆つまり大人を相手に語っていた話だったからである。
根源的叡智を、民衆に向けて、比喩を通して創られた話を、後世、グリム兄弟が編纂したというわけだ。
だから、一見グロテスクな場面にも、それなりの意味が含まれている場合が多いのだ。そこだけ切り取って、拡大解釈を加えれば、「本当は残酷だ」とも云えようが、実のところ「本当は人智学的」と云っても過言ではないのだ。

今後、シュタイナー自身が語ったメルヘン論や、ヨハネス・シュナイダーの「メルヘンの世界観」、また、学校の風姿花伝先生(仮名)の講義で学んだことを基に、グリム童話を中心に色々なメルヘンについて考察してゆきたい。

取り敢えず今回は、話の流れから、「灰かぶり」の姉達について少し述べよう。
二人の姉は、父からの土産に、一人は綺麗なドレスを、もう一人は宝石を望む。
この場合、ドレスは耽美的な欲、宝石は功利的な欲を象徴しているのだそうだ。それらの欲の作用を、シュタイナーは悪魔の名を用いて、前者を「ルツィフェル(ルシファー)的」、後者を「アーリマン的」と呼んでいる。

そして彼女等は、王子が差し出した手がかりの金の靴(実際はガラスの靴ではない)を履く為、母の助言に従って一人はつま先を、もう一人はかかとを切り落とすのだ。
足は人智学では「意思」の要素である。
母の「お妃になれば、もう足で歩かなくてもいいのだから、つま先(かかと)ぐらい切ってしまいなさい」という助言に従って足の一部を切り落とすというのは、「意思」を放棄した、ということだそうだ。

姉達は、最後に、鳥に目玉をくり抜かれてしまう。これは、悪魔的な欲望に浸り、意思を放棄した人間がどうなるのかを暗示しているのだそうだ。無論、物理的に目が見えなくなるという事ではなく、心の状態の比喩である。
だから、姉を許す事でサンドリヨンの慈愛の深さを表現したペロー版も私は好きだが、人智学の観点からすると、グリム版の方が根源的叡智を表現していると云えよう。

幼い子供は、根源的叡智を、理屈ではなくイメージを通して心の奥深くに沈潜させるので、小さいお子さん(概ね3歳~8歳)をお持ちの方は、寝る前にグリム童話の読み聞かせなどをしてあげると良いだろう。特に入学前のお子さんには、同じ話を一ヶ月繰り返して語り聞かせる事をお勧めする。

さて、どうでも良い事だが、我が家のレインボー・セキセイインコのレイニー(本名:ぴーぽこ命名)、ベタ馴れなのは良いが、肩に乗って人の唇をしつこくグルーミングしてくるのには辟易する。
いや、この程度なら可愛いものなのだ。最近はあまつさえ私の鼻梁に乗っかって来て、その嘴で私のまぶたのグルーミングに及ぶのだ。狙いは何だ?私の目玉か?
・・・灰かぶりの姉達の恐怖感が、少し解った。


参考文献
「メルヘン論」ルドルフ・シュタイナー著/訳:高橋 弘子(水声社)
「メルヘンの世界観」ヨハネス・W・シュナイダー/訳:高橋明男(水声社)



~~~~~σ.σ~~~~~σ.σ~~~~~σ.σ~~~~~

★コメントの表示を承認制にしましたので、反映に時間がかかる事があります。御了承下さい。


ブログランキング
乙女への励まし代わりに↓をクリック
σ.σ
ブログランキング・にほんブログ村へ
こちらも↓
b_04.gif
スポンサーサイト

この記事のトラックバックURL

http://akiotome.blog123.fc2.com/tb.php/85-ae73e976

コメント

こんにちは。スイスから偶然、たどりつきました。
神話,グリム童話についてシュタイナー的理解の根本的な観点を書いています。
よろしければ、一度こちらもおたずねください。
>junkoさん
コメント有難うございます~。。
そちらの記事も楽しく拝読させて頂きました。他にも興味深い記事が沢山ありましたので、また伺わせて頂きます~^^
私も今後、シュタイナー的見地からの童話を探求し、記事にしていこうと思っています(ゆくゆくは神話も探求したいです)
是非また遊びにいらして下さい~σ.σ
管理人のみ閲覧できます
このコメントは管理人のみ閲覧できます
>R.Tさん
初コメありがと~^^最初誰だか解らなかったよ^^
うちもネット不慣れだけど、コメントぐらいは恐れなくて大丈夫だから^^
グリム童話、話によってはなんというか、喜怒哀楽のどれともつかない感情が湧き上がることあるよね。。またお話しましょ~σ.σ

コメントする

管理者にだけ表示を許可する

  Template Designed by めもらんだむ RSS

special thanks: Sky Ruins, web*citronDW99 : aqua_3cpl Customized Version】


上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。