シュタイナー学校の子供たち

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コックリさんはやめとけ

学童サポートに入った、夏休みの或る日。
子供達に素人落語を披露した後、ラブラドールちゃん、ベガちゃん、モニカちゃん(いずれも仮名)の三年生女子トリオと一緒にお弁当を食べていた時の事である。

女子トリオの話題は、「怖い話」になり、

「あき乙女先生、怪談話せる?」

と、私に振ってきた。
落語にも怪談噺はあるが、私のレパートリーではない。
尤も、都市伝説やら実話モノやら、いくらか怪談は知ってはいるが、子供を徒に怖がらせるのも如何なものか。
が、あまりにせがまれるので、その中であまり怖くない部類の、「怖い」というよりは「不思議」な話を中心に幾つか語る。

それでも、ラブラドールちゃんなどは話が佳境に入ると、耳を塞いだり、近くの子の背後に隠れたりする。

私:「そんなに怖いんだったら、やめようか?」

ラ:「ううん、聞きたい!

・・・どないやねん。

元来、子供というのはこのように、好奇心の塊である。
それは、シュタイナー教育であれ公教育であれ変わりはないが、「知りたい」、「自分で試したい」、という、内面から湧き上がる衝動を大切にするシュタイナー教育で育った子供は、より好奇心が強くなる傾向にあるそうだ。これ自体は決して悪い傾向ではないが、周囲の大人が気を付けていないと、時として危険な事も起こり得る。

一例を挙げると、ドイツでは、ドラッグに手を出す青少年のうち、シュタイナー学校の生徒の割合は決して低くはないという。
危険は承知で、「実際に試してみたい!」という好奇心から手を出す例が多いそうだ。

こうした場合、何故子供がそれに手を出すに至ったか、その背後に目を向ける必要がある。

幼少期に周囲の大人に依存しきれなかった補いに、ドラッグに依存する場合や、今生の魂の課題の一つに、「中毒症からの離脱」がある場合など、色々あるだろう。

尤も、だからといってドラッグを「必要悪」と肯定しているわけではない。ドラッグに頼らずとも上記の補い等は出来るし、未然に防ぐ事も出来る。

さて、怪談をせがむ子供達。

別の時、ラブラドールちゃんが、「四年生になりたくないなぁ・・・」と呟いていた事がある。理由を聞くと、

「だって、四は『し(死)』でしょ?死ぬかもしれないじゃん!」

・・・いやいや、貴女の横に鎮座まします五、六年生のお兄さん・お姉さん達は、四年生で死ななかったから今もこうして存在してるんだっての。

とはいえ彼女は三年生、自分と世界に距離を置き出す年頃である。シュタイナー教育で云うところの「ルビコン世代」であり、孤独感や寂寥感を感じたり、子供によっては一人寝を怖がったりすることがある。
「死」について過剰に意識するのも仕方が無い。

そう考えると、彼女達が「怖い話」に関心を示すのも、年齢的に彼女達の内面に湧き上がる何かが、それを欲しているのかも知れない。

気付くと、四、五年生も加わり、怪談話で盛り上がり出した。そのうち誰かが「コックリさん」の話題を持ち出す。
「何それ!?どうやんの?」
と、興味津々の子もいる。これは危険だ、と判断した私、コックリさんについて語り出す。

そもそも「コックリ」とは(天狗)と書く。
狐や天狗の中には神の使いの高級神霊もいるが、邪霊に成り下がった存在も多い。この場合はそうした低級霊を指す。

また、「孤狗狸」というのは当て字、という説もある。明治にアメリカの降霊術が伝わったのがコックリさんの起源とされるが、当時は竹の棒の上に盆を載せ、盆の傾きによって占ったそうだ。
その盆が、「コックリ」と傾く事から「コックリ」さんと呼ばれ、「孤狗狸さん」という表記は後付け、というのだ。

が、そんな擬音は表現者のさじ加減である。
「コトリ」と傾くから「小鳥さん」とか、「カタリ」だから「騙りさん」とか、何でも良い。
やはり、低級霊の代表を羅列した「孤狗狸」・「コックリ」と表現したのは、それだけの意味が含まれているからだろう。

ともかく、子供達に、
「コックリさんで呼ばれて来るのは、低級な、邪な霊です!」
ということを伝える。

また、「コックリさん」がお帰りにならず、憑かれて気が触れた話や、死に至った話などもあるが、こうした話は都市伝説の域を出ないし、子供達を必要以上に怖がらせたくもない。なので、そのような話は避けて、自らの子供時代の体験を語った。

当時、「キューピットさん」というのが流行っていたが、結局やって来るのは「キューピット」を騙る「騙りさん」な低級霊なので、実質、「コックリさん」と変わりない。ともかく、子供の頃そんな事をやってみた私、

「将来、どんな職業が向いていますか?」

と伺ったところ、コインがこのように動いた。

  ・・・ゆ・・・

  ・・・う・・・

  ・・・れ・・・

  ・・・い・・・


・・・って、「幽霊」!?それは、「職業」なのか!?大学時代、「いや~、内定出たよ、幽霊の」と云ってた先輩や同期は、一人も居なかったっての。

ともかく、子供時代の私は、この答えに「死」の気配を感じ、戦慄したものだ。

「こんな怖い思いをする事もあるから、コックリさんはやらないように」
と、指導した。
が、子供は大人が語る内容より、それを語る大人の心中を読み取る。
コックリさんはやめておけ、という思いは本音だが、元来私は妖怪やら霊といったものが好きである。そんな大人がいくら注意を促しても、それが逆に子供達の興味をそそる結果となったようだ。

翌日、学童から帰って来た二年生の娘・ぴーぽこ(仮名)が、こう報告した。

「今日ね、学童でね、ラブラドールちゃんたちが、先生に注意されてたよ」

ベガちゃん、モニカちゃんも含む、例の三年女子チームである。何故かと問うと、

「コックリさんをしてたから」

・・・だから、試すなって・・・。
怪しいモノ好きな私がいくら云っても、説得力のカケラも無かった模様。



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聞け、十二年生の語りを!

最高学年の十二年生による、卒業論文発表会は、まさにシュタイナー教育の集大成と云うべきものであった。ここにその全貌を紹介したいが、猫のたまわく、

「二十四時間の出来事を漏れなく書いて、漏れなく読むには少なくとも二十四時間はかかるだろう」(夏目漱石著・『吾輩は猫である』より抜粋)

猫ごときに指摘されるまでもなく、五人の生徒一人につき一時間の発表、合計五時間分をくまなく書くのは至難の業だし、そもそも内容の全てを記憶しているわけではない。
丁度、生徒の一人が「印象派」について研究していたことに因んで、この発表会の印象を徒然に紹介したい。

まず、それぞれの研究テーマを紹介しよう。各個人の名称は、例によって仮名である。

「鉄の歴史とたたらの技法」・・・・・・白浪くん
「印象派の絵画と音楽」・・・・・・・・・バジルさん
「天文学の歴史と人間の意識」・・・ステッグくん
「芭蕉布と沖縄の歴史」・・・・・・・・・リコリスさん
「ローソクと歴史と科学」・・・・・・・・・ロッキーチャックくん

彼等の発表は、ただ論文を読み上げるものではない。それに沿って自分の言葉で発表し、また、研究内容に伴う取り組みを各自行い、発表した。

実際に布(芭蕉布は原料が高価だった為、麻布)を織ったリコリスさんは、模様がずれないよう、綿密に計算したそうだ。これが大変だったらしいが、男子諸君の苦労は更に涙ぐましい。

砂鉄を熱し、鉄を精製した白浪くん。稲村ヶ崎に砂鉄が多いと知るまでは、多摩川で何時間もかけて、一日僅か数グラムの砂鉄をちまちまと集めたそうだ。南米のガリンペイロでも、こんな根気はあるまい。

ステッグくんは、ニュートン式反射望遠鏡を作成。その凹レンズを作る為、ガラスを磨き粉で、ひたすら磨きに磨いたと云う。

ロウソクを作ったロッキーチャックくんなどは、ロウソクの材料確保の為、「ご自由にお持ちください」の牛脂を集めるべく、ストアーの精肉売り場巡りをしたそうだ。ストアーで輪ゴムやビニール袋をごっそり持って帰るオバちゃんでも、牛脂を根こそぎは流石に持って帰らないだろう。

彼等のこうした努力は、効率重視のスピード社会においては「ムダな労力」と一笑に付されるだろう。
が、こうした、一見「ムダ」に思えるような経験、試行錯誤に費やした時間や過程こそが、生きてゆく上での力を育むのだ。
高度経済成長期前後からの、プロセスを辿らず、すぐに結果を求めたがる風潮が、現在、この国の生命力を弱めている一因であろう。

ともあれ、彼らは自らの、一見「ムダ」に見える努力を客観視する余裕がある為、その苦労話を諧謔をもって、笑いに転換する術も心得ている。
ステッグくんの望遠鏡総制作費は結構かかったそうで、同じ金額を出せば更に高性能の望遠鏡が買える。
物質的価値観で見ると、「作るより買ったほうが早いし、安上がり」、という事になるが、

「そんな事は関係ありません!」

って、負け惜しみかい!?いやいや、こう断言し、会場を笑いに包んだ彼の言葉は、手作り望遠鏡への誇りと愛着を示しているのだろう。
それは、他の生徒達も同様、それぞれの作品は何物にも変え難い宝物に違いない。

印象派・ドビュッシーのピアノ曲・「レヴァリー夢」の演奏や、オイリュトミーを披露したバジルさんにしても、そうだろう。
演奏等はその場限りのもので、物質としての「形」は残らない。が、そこに至るまでの過程~ピアノの練習での努力や苦労、喜び、感動等~は、彼女の中に存在し続ける。

彼女が発表の途中でオイリュトミードレスに着替えるべく中座した間、他の四人の生徒がオイリュトミーの説明をする事で、場を繋いだ。
進行役のロッキーチャックくん、

「ステッグくん、オイリュトミーはどうですか?」

って、なんだ、その茫漠とした問いかけは!?
彼のこうした天然っぷりや語り口調はそれだけで独特の可笑し味を持っており、白衣を纏ってのロウソク作りの実演は、研究発表というよりあたかも「実験コント」である。
同じく白衣を着て、実験を手伝う白浪くんに対し、

「助手くん!」

って、オマエはどこの博士だ!?また、細かいハプニングも頻発し、彼の発表は終始笑いに包まれていた。

よく「笑いあり 涙あり」という煽り文句があるが、この発表会は大袈裟でなく、そうであった。
沖縄の歴史を語るリコリスさん、話が戦争や、島人達が本土によって虐待されたくだりに及ぶと、感極まったのか涙を流し始めた。
研究を進めるうちに、こうした歴史に胸を痛めていたそうだが、この感受性の豊かさはどうだろう。彼女の人間への深い愛を感じ、こちらまで泣きそうになる。
溢れる涙で続行が困難になった彼女に、バジルさんが出てきて飲み物をそっと手渡し、落ち着かせる。
そのさり気ない優しさに、生徒同士の確かな絆を見るようであった。

各生徒が上記のテーマを選んだ動機は、本や家族の影響や、過去の体験等、極めて私的で個人的である。
が、その後の発展はどうであろう。

例えば「鉄」一つ取っても、世界と日本の鉄の歴史や文化、鉱物としての鉄の、化学的解説や地理的産出地、その精製法、鉄製の実用品や芸術品、そして人間と鉄の関係等、文系・理系・技術・芸術織り交ぜて展開され、それを借り物でない、自分の言葉で発表してゆく。

また、例えばロウソクの材料を考察し、ロウソクが「鉱物界(石油)」・「植物界(ハゼの実)」・「動物界(獣脂)」全てと関わっていることに気付いた、との補足があった。
この様に、各自論文は完成させても、更なる発見や疑問が残り、今後もそれが尽きる事はないだろう。
この発表会は、恐らく論文の完成披露ではなく、更に発展する思考の通過点なのではないだろうか。

全生徒共通してこうした発展性が見られ、あたかも自分に向けられた愛が親兄弟、友人隣人、社会、そして世界、宇宙へと発展し、再び自分へと帰結する、そうした印象であった。

総じて高度な内容であり、発表を聞きにいらした大学教授の中には、彼等が高校生である事を忘れ、大学生の発表を聞いている様な錯覚を持たれた方もいらしたとか。

知識と実体験の思考への高まり、諧謔、生徒同士の確かな関係、人間愛をも垣間見たこの発表会、まさにシュタイナー教育、ここに極まれり、という印象を持った。

私が彼等の年代の頃は、どうだったろう。あまりの次元の違いに、愕然とする。
高校時代、男子数人集まれば、決まって開催されたのが「童貞サミット」である。
議題は「どうすればモテるか」「どのアイドルが最高か」等、童貞のたわ言で、たまに真面目な人生論を提案しても、多くの場合、棄却される。
挙句、

「片想いしているクラスの女子と、美人女優に同時に告白されたら、どっちを選ぶ?」

などという、到底起こり得ない状況を想定し、皆で大真面目に論じ合ったものだ。

当時の私に云いたい。

「そういう心配は、モテてからしろ!」



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こびとの行進~子供の超感覚~

仕事中のBGMで、グリーグ作曲の「叙情小曲集」を聴いていたところ、近くで遊んでいた娘・ぴーぽこ(仮名)が、俄かに「この曲・・・知ってる!」と云い出した。
「前、七年生が、オイリュトミーをやってた時の曲だ!」

数ヶ月前の学校のオイリュトミー発表会で、七年生がピアノ演奏に合わせて踊っていたのが、グリーグ叙情小曲集の、「こびとの行進」という曲。
それにしても一度しか観ていない筈なのに、よく覚えているものだ。相当集中して観て、聴いていたのだろう。子供の五感、侮り難し、である。

さて、「こびとの行進」の写真。

こびとの行進


文字通りの「こびとの行進」である。
これは、一年生の「手仕事」の作品。

羊毛の「こびとさん」本体は大人が用意する。子供達は、毛糸の棒編みでこびとさん達の服を編むのだ。
ここからが、メルヘン。なんと、服を一つ完成させ、袋に入れておくと、夜の間に本物のこびとさんがやって来て、頭巾の先に可愛い鈴を付けてくれるのだ。

何度も述べてきたが、シュタイナー教育では幼児期のメルヘンを重視する。一年生も、まだメルヘンの世界に身を置いているのだ。
「出来た人は、先生が鈴を付けてあげます」または「お母さんに付けて貰って下さい」ではなく、「夜中にこびとさんが鈴を付けてくれる」、なんと素敵なメルヘンではないか。
勿論、翌日登校してきた子供達は、自分が作ったこびとの服の頭巾の先に鈴が付いているのを見付けては大喜びしているそうだ。

「こびとさん」の正体は、無論、担任のウール先生(仮名)
お忙しい中、学校が終わってから、一つ一つ付けてくれているのだ。

だが、子供達は手仕事好き。毎日どんどん出来上がる。
ぴーぽこなども家に持ち帰っては編み、精力的に仕上げてゆく。
そんな次第で、ウール先生の仕上げも追いつかなくなってくる。こうした時、通常は出来る親がお手伝いするのだが、ウール先生にはある懸念があった。

それは、子供達の、動物的なまでの五感の鋭さである。

休み時間や体育の外遊びで、子供達は目隠し鬼のような遊びをしていたのだそうだ。
子供達がぱっと逃げ、何かの合図で立ち止まる。鬼の子は目を閉じ、手探りでお友達を捕まえ、それが誰なのかを当てる、といった遊びらしい。

それが、鬼になった子達は皆、かなりの確立で自分が捕まえた子が誰なのか当てるのだそうだ。そのあまりの的中率の高さに驚いたウール先生は、子供達に「みんな、なんで分かるの?」と聞いたそうだ。
子供達は、口々にこう答えたという。

「匂いで分かる~!」

・・・って、キミらはかね?

兎も角、これほどまでに感覚が鋭い子供達である。迂闊にお母さんに鈴付けのお手伝いを頼むと、送り迎えの時、隠していても鈴の音で子供に気付かれるのではないか、と、ウール先生は心配していたのだ。子供達のメルヘンの為、これほど細心の注意を払って下さっていたのだ。

が、子供達は無論、そんな事は知りもしない。こびとさんの苦労もお構い無しに、次々と、わんこそば状態で仕上げてくる。
流石のウール先生もたまらず、生徒のクラーク君(仮名)の母・さきすけさん(仮名)に手伝いをお願いした。飽くまでも子供に気付かれないように、と、念を押して。

そんな事を聞いた私、小賢しさを発揮し、さきすけさんにこう提案してみた。
発想を転換し、音を出さないようにするのではなく、むしろ音を出す。
つまり、鈴付きのキーホルダーやストラップ等を、こびとさんを持ち運びするバッグに、見えるように付けておくのだ。これなら鈴の音がする方が当然。いわば鈴の影武者、陽動作戦である。
竹中半兵衛か諸葛孔明か、軍師気取りの私の進言を容れ、さきすけさんはバッグにこびとさんと同じ鈴を付ける事で、お釈迦様にも気付かれる事なく、この困難な任務を遂行したという。

春休みの間にも「こびとさんの服を作りたい!」という子供達もいた為、二年生になった今も、こびとさんはまだこっそり働いているのかも知れない。

子供達のこうした感覚の敏感さには驚くが、果たして自分が子供の頃もこんなに感覚が研ぎ澄まされていただろうか。
私の子供時分は鼻詰まりで、その頃から右耳が難聴ではあったが、少なくとも周囲の世界は、今より鮮やかだった印象はある。

また、ある匂いや音、味を感じ、過去の記憶の扉が開いたり、どうしようもなく懐かしい気分になった、等という話はよく聞く。
例えば私の場合、木酢液の匂いを嗅ぐと、祖母の家の情景やそこで五右衛門風呂に入った事等、色々な懐かしい記憶が蘇る。

また、ある男性タレントさんの話だが、彼が子供の頃、兄が桐のタンスの奥にエロ本を隠していたそうだ。家族の留守を見計らっては兄の部屋に忍び込み、その桐のタンスを開けてエロ本を盗み見していたという。
だから、未だに桐製品、木材等の木の匂いを嗅ぐと、エロい気分になるそうだ。

確かに、子供の頃は今以上に五感が敏感だったように思う。
シュタイナー教育は、子供の直接体験を重視する。
土や水、風や草の感触や匂い。
また、お母さんの子守唄。一流の演奏家のCDを聴かせるより、下手でもいいからお母さんが抱っこして歌ってくれる歌の方が、子供の心の栄養になるのだ。

感覚といえば、私が幼少の砌、よくギャグマンガでありがちな「コショウでクシャミ」、あれが本当なのか検証した事がある。
小皿にコショウを少し出し、鼻を近付け、嗅いでみた。

スッと鼻から息を吸ったところ、コショウの粉末が私の鼻腔に襲い掛かる。コショウによる思わぬ奇襲である。私は、日本人にしては鼻が高い。目測を誤り、コショウに近付き過ぎたのだ。
鼻粘膜がコショウ粉の襲撃を受け、クシャミ連発、それどころか泉のように滾々と涌き出ずる涙と、鼻水。

こうして「直接体験」によって「コショウでクシャミ」を実証した、マンガのような子供が今では漫画家、因果とはかくも恐ろしい。


付記:この日記をアップした日の晩餐。私の手製のカレーを食べるぴーぽこ、こう云った。

「おとーさん。これ、バターの味がする!美味しすぎ!」

確かにこのカレーは、玉ネギ、人参、ホウレン草、パセリを、植物油とバターでじっくり炒め、煮込んだカレー。
スパイスィーな食品からその風味を嗅ぎ当てるとは、子供の五感、侮り難し。

ただ、ぴーぽこよ、残念なお知らせがある。

オマエが・・・いやさ、我が家で「バター」と呼んでいるそれは。

実は、安い、安ぅ~い、マーガリンだ、という事だ。


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星への誓い~子供の領分~

子供の突拍子もない発想は、時として大人の理解を超える。
その見本市の最たるものが、七夕の願い事であろう。

娘・ぴーぽこが通っていた幼稚園もシュタイナー教育を実践していたので、七夕の短冊は子供には書かせない(文字を教えていないので)。子供達一人ひとりの願い事を先生が聞き、それをそのまま代筆してくれていた。
大人の丁寧な文字で、子供達の願い事が書かれている為、シュールさ倍増の願い事も多々あった。

一例を挙げる。

おんなのだいがくせいになりたい(当時・年中:男子)

つまり、「女子大生になりたい」という事か。
これはまぁ、これだけ医学の発達した時代だから、性転換手術をすればなれなくはない。
後は大学受験に合格するだけである。

こんな願いもあった。

こもどおおとかげのめすになりたい」(当時・年少:男子)

四歳やそこらで「コモドオオトカゲ」という名称を知っているのもさることながら、「メス」限定かい。
性転換手術をすれば雌にはなれるだろうが、爬虫類にはなりようがない。

極めつけは、

すーぱーおどりこごうになりたい(当時・年少:男子)

くどい様だが、性転換手術をすれば「踊り子」にはなれるだろう。が、列車そのものにはどうか。
銀河鉄道999に乗って機械の体を手に入れたなら、「スーパー踊り子号」の一部品ぐらいにはなれるかもしれない。

他にも「お星さまになりたい」や、兎や猫等の好きな動物になりたい、という願いも多かった。この様に、子供の発想は自由自在である。
何故なら、この年代の子供はメルヘンの住人なのだ。だから他人にもなれるし、動物や機械、星にだってなれる。自分と他者との境界が曖昧模糊としているのだ。

メルヘンのお話で、「お花はこう云いました」と語ると、子供はスーッと花になる。そういう力を、子供は持っている。

私自身シュタイナーについてまだまだ勉強不足なので、これは飽くまで私個人の見解なのだが、こうした子供の力は、大人になってから「相手の身になって考える」という、想像力に結びつくのではないかと思う。
よく大病を患って初めて病人の気持ちが解る、等と云うが、こうした想像力があれば、大病を患うまでもなく、一寸風邪をひいた位でも、病人の気持ちに思いを巡らせる事が出来る。
つまり、「一を聞いて十を知る」という力だ。
これは私見なので、シュタイナーの本意とは違うかも知れないが。

ともかく、こうした子供の願いを、「人間はトカゲにはなれないのよ」等と否定するべきではない。
「○○ちゃんがトカゲになったら、お母さんはお日様になって、トカゲの○○ちゃんを暖めてあげるね」
等と、一緒にメルヘンを楽しむのが良いと思う。

さて、一年生ともなると、まだメルヘンの住人ながら、願いが現実味を帯びてくる。
シュタイナー学校に入学したぴーぽこのクラスの七夕の願い事も、多くはペットの昆虫の健やかな成長を願っていたり、スポーツ選手になる、楽器が上手になる等、突飛なものは無い。

そんな中、千早ふるちゃん(仮名・女子)の願い。

「かみさまになります」

こうでなくては!
彼女の願いを笑うなかれ、三十代半ばの私の将来の夢も、女神である。

また、祇園精舎くん(仮名・男子)の願い。

みんなのねがいがかないます

尊すぎるって!私も女神候補生としては、彼の心根を見習わなければならない。

これらの願い、「~ます」と、断言しているのに気付く。
これは担任のウール先生が、
「お星様にただお願いするんじゃなくて、誓ってみよう」
と提言し、クラスで取り組んだのだそうだ。

為に、幾つかシュールな文章になったものもある。

「はやく なつになります」

「早く夏になりますように」の、「ように」を取った。夏の到来を請い願う少年の心情だが、「ように」を取ると、まるで気象予報士である。

「ラニーニャ現象に伴い、今年は例年より 早く夏になります」的な。

もしくは京都議定書についての有識者の意見、

「このまま温暖化が進むと、数十年後には今より一ヶ月も早く夏になります

また、こんな誓いも。

「おにわにたくさんむしがきます」

庭に虫が来て欲しいのだろうが、これではお悩み相談のようである。

Q:「お庭に沢山虫が来ます。どうすれば良いでしょうか?」

A:「殺虫剤を捲きなさい」

もしくは点取り占い。

「お庭にたくさん虫が来ます。  2点」

さて、我が娘・ぴーぽこの願いは、というと、

おかねもちになります

・・・・・・「みんなのねがいがかないます」、ように・・・。

たなばた 002

教室内の、7月の「季節のテーブル」。祭壇係の私は「織姫」を作成。

教科書も無いが、道徳の授業も無い

定期的に行われる「学習発表会」は、特に低学年の子供達には良い刺激になるようだ。
まず、高学年のお兄さん、お姉さん達に、憧れが生じる。

「あんなに上手にヴァイオリンが弾けるんだ!」
「オイリュトミーであんな風に動けるなんてすごい!」
「外国語で詩が朗読出来るんだ!」

そして、それが身近な目標になる。自分もあの学年になったら、ああいう事が出来るようになるんだ、と。

実際、ぴーぽこは、発表会の度に上級生の真似をしては、「早くあれがやりたい!」と、眼を輝かせている。
具体的な憧れ、目標の存在が身近にいる。子供達にとって、実に贅沢な環境ではないか。

さて、そんな発表会で、私にとって特に印象深い発表がある。
それはぴーぽこが新入学前の去年の事、現6年生が5年生の頃の発表であったと思う。

そもそも、シュタイナー学校には、教科書が無い。
それぞれの子供達の「エポックノート」が、そのまま世界で一つの教科書となるのだ。つまり、教科書を自分で作る。

なので当然、教科書に公式が予め載っている訳ではない。
では、子供達は公式を、いかにして学ぶか。その答えが、当時5年生の発表にある。

子供達は、まず、長い板を持ち出し、簡易なシーソーを作った。
それぞれの両端に、体重が違う子が乗り、釣り合う場所を探す。
そうして、

「私達は中心(支点)からの距離と重さとの間に、法則があるのを見付けました」

と、発表。なんですと?「てこの原理」を自ら発見したですと?キミらはアルキメデスかね?支点を与えれば、地球を動かしてみせるかね?エウレーカ!!

ここで実験が始まる。一人の子がシーソーの端に立ち、もう一端に他学年のカラヤン先生(仮名)に釣り合う位置を探して立って貰い、カラヤン先生の体重を当てる、と云うのだ。簡単に例えると、こういう事だ。

              ●            ○(30kg)
      _________________
              40cm △  80cm

この状態で釣り合っている時、●の重さを求めよ、と。
この場合は「支点からの距離×重さ=支点からの距離×重さ」なので、●をxとすると、

x=80×30÷40=60、●の重さは60kgとなる、のか?理数系は苦手なので確信は無いが、多分こうなる。

さて、では実際、カラヤン先生の体重は?
子供達、計算を始める。

で、発見した法則って?

それには一切触れないまま、計算する子供達。
そして、計算によって導かれた答えと、実際にカラヤン先生が体重計に乗って出た数値は、2kg程違った。
微妙ではある。が、誤差の範囲と云えなくはない。

が、子供達はこの結果に納得いかない面持ち。

で、キミらが発見した法則って?

それには一切触れぬまま、発表終了。
って、キミ達、折角キミらが発見した「法則」とやらを発表しなければ意味が無いでしょうに!

ともかく、子供達がこの様に、実際に体や道具を使い、教科書に頼らず皆で思考して公式を見付ける、というのは分かった。
公式をまず丸暗記する、という、我々がやらされていたやり方とは全く違う。

さて、この発表会の直後、新入学予定の父母の会で、当時5年生のこのクラス担任のフローレン先生(仮名)が、発表の舞台裏を話して下さった。

子供達は発表直後、早速自ら反省会を行ったそうだ。何故、2kgもの誤差が生じたかを検証し、計算において迷った末に切り捨てた小数点を、改めて切り捨てずに計算し直したところ、より正解に近い結果が出て、残念がっていたそうだ。
この向上心は素晴らしい。

また、何故、例の「法則」を発表しなかったのか。これを発表するか否かが、事前に話し合われたそうだ。
子供達が出した結論は、こうである。

「自分達がこの『法則』を今発表してしまえば、下の学年の子達がこの『法則』を発見する喜びを奪ってしまう事になる、だから発表しない」

なんですと!?意図的に発表しなかったんですと!?

子供達は勉強を「やらされている」のではなく、本当に「知る・発見する喜び」を持って勉学にいそしんでいる事を再認識する。同時に、その喜びを後輩の為に残しておく配慮まで身に付いているのだ。

私だったら鼻高々に、
「どうよ、この法則、うちらが発見したのよ、アルキメデスの再来よ、もっとうちらを尊敬しても宜しくてよハハァ~ン、エウレーカ!!」
てなもんである。

現在、ぴーぽこら1年生の掃除のお手伝いを、この当時の5年生、現6年生がしてくれている。
ぴーぽこは、6年生は皆、優しくしてくれる、と云う。
6年生に限らず、上級生は総じて下級生に優しい。先日などは休み時間に、7年生達が1年生を相手に鬼ごっこをしていた。皆、本当に楽しそうな様子で。

シュタイナー学校では教科書も無いが、「道徳の授業」も無い。
そんな授業をわざわざ設けずとも、日々の生活、授業、遊びを通して、「優しさ」は身に付く。

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